8
「…こんなとこで何してるの? 立夏」
淡々とした俊臣の声に縋りついていた体がぴくりと跳ねた。
「人に見られるよ?」
「……俊臣」
どうしているんだ。
なんで。
来るなんて連絡はなかった。
「こんばんは」
ほんのわずかに首を傾けて、俊臣は視線を下に向けた。その言葉に、おれの胸に顔を伏せていた遠亜が顔を上げた。
「…っ、…?」
遠亜が知り合いなのかと問いかけるようにおれを見た。
「あ…義弟なんだ。ほら、前話した…」
正確に言えば違うが、話が長くなる。
あ、と遠亜が呟いた。
どうも、と俊臣が言った。
「りつの義弟の俊臣です」
「あっ、ど、どうも、三沢って言います」
ぼうっ、と俊臣を見ていた遠亜は、はっとしたように慌てておれから体を離した。離れた体に内心で息を落として、おれは俊臣を睨みつけた。
「何してんだよ、ここで」
「ああ、ちょっと用があって、近くまで来たから」
「用って?」
こんな時間に?
「でも邪魔だったみたいだな」
おれの問いかけには答えずに、おれの後ろに隠れてしまった遠亜をちらりと見て、俊臣はかすかに笑った。
「すみません」
「いえ──そんな」
「俺、帰りますから。ゆっくりしていって」
「えっ、そんな…あの、私、私が帰ります」
遠亜は真っ赤になり、後退った。
「立夏くん、あの、今日はありがとう」
「え」
帰るね、と言った遠亜の腕を咄嗟におれは掴んでいた。
「待って」
振り向いた彼女を引き留めようとして──でもなぜか言葉が出てこない。代わりのように送るよ、と言うと、彼女は一瞬言葉を失った。
「──い、いいっ、大丈夫だし」
胸の前で慌てたように両手を振る。
ああ傷付けた。
傷つけた気がする。
「いや危ないから」
こんな時間に夜道をひとりで歩かせられない。何かあってからでは遅すぎる。
「おく…」
「じゃあ俺が送るよ」
「は?」
おまえが、送る?
俊臣がおれを通り越して、遠亜の前に立った。
「行きましょうか。俺も駅の方にまだ用があるの思い出したから」
「え」
「はっ?」
遠亜とおれの声が重なった。
なにそれ。
いま帰るって──
「で、でも」
戸惑っておれと俊臣を交互に見る遠亜の背を促すように、やんわりと俊臣は手のひらで押した。
「何だよ俊臣、おまえ…っ」
「じゃありつ、あとで」
あとでって──
なんなんだよそれ。
促され歩き出した遠亜がおれを振り向く。
困った顔でまたね、と言い、横を歩く俊臣を見上げた。そのままふたりはおれを一度も見ることなく、駅のほうへと歩いて行った。
俊臣が戻ってきたのは、それから一時間も経ってからだった。
「…帰るんじゃなかったのかよ」
あと一時間ほどで日付けも変わる。ああは言っていたが、遠亜を送ったその足で、そのまま帰ったのだとばかり思っていた。
インターホンが鳴り、玄関を開けたおれに俊臣は言った。
「送って来た」
「…時間かかり過ぎじゃねえの」
ここから駅までは片道十五分ほど。往復したって三十分で済む。なのに。
一時間てなんなんだ?
「途中で寄るところがあったから」
「……」
俊臣は手に持っていた紙袋をおれに差し出した。
「ケーキ」
「は?」
「ケーキ買って来た」
「ケーキって…」
受け取って中を覗く。中に入っていた小さな箱に貼られていたシールに記された店の名前にはどこか見覚えがあった。
「駅のところの店。まだ開いてたよ」
それはクリスマスだからだ。
玄関でじっと睨み合う。
でも腹を立てているのはおれだけで、俊臣はむしろいつも崩さないその表情を和らげていた。
「りつ、入っていい?」
その顔から目を逸らす。深いため息をついて、おれは体を避けた。
俊臣のこの表情におれは弱い。
「勝手にすれば」
靴を脱いで俊臣がおれの傍をすり抜けた。
「近くで用事ってなんだよ?」
「部屋探してた」
電気ポットに水を入れようとしていたおれは、俊臣を振り返った。
「部屋って──」
「俺とりつが住む部屋」
「おれまだ返事してな…っ」
がん、と思わず勢いよく置いたポットから水が跳ねて床に落ちた。
「母さんが、見るだけ見ておこうって」
「英里さん?」
「ここに来るまで一緒にいたんだよ。先に帰ったけど」
「帰ったの…?」
床に落ちた水をちらりと俊臣は見た。
「会いたかった?」
「それは…」
電話でのやり取りは多いが、もう半年以上も会っていない。俊臣と顔を合わせたくないばかりに家に戻らなくなって後悔したのは、英里さんとも会えないということだった。
小さな頃に母親を亡くしてしまったおれにとって彼女は、本当の母親以上に信頼できる存在だ。
「まあ、でも年末には帰るから…」
それこそ同居の話をしに。
もうほとんど英里さんの中では確定のようなものだけれど。
部屋を探しに来ていたのか。
ひと言言ってくれればいいのに。
キッチンの流しに置いていたタオルを取って、俊臣が濡れた床を拭いた。
「母さんも会いたがってた」
「ふうん」
電気ポットに水を足し、今度こそスイッチを入れた。
ことことと湯の沸く音がする。
「りつの彼女」
「え?」
振り向くと、すぐそばに俊臣が立っていた。
近い。
妙な具合に跳ねた心臓を誤魔化すようにおれは顔を元に戻した。カップを取る。
「あの子が何」
「名前遠亜だって?」
「それがなんだよ」
「別に。ああいうのが好みなんだと思って」
「…いいだろ。おまえに関係ない」
関係ないよおまえに。
どんなのだっていいだろ。
カップにインスタントのコーヒーを入れる。手が震えそうになるのを必死で堪えた。
なんでこんなに泣きそうになってんの。
しっかりしろよ。
何か言わないと。湯を入れながら、おれはわざとらしく笑ってみせた。
「おまえこそ、今日クリスマスだぞ。こんなとこ来てて、彼女いいのかよ」
ああ、と俊臣は言った。
「あっちはもういいんだ」
「は…?」
あっち?
あっち──
「え、別れたの?」
驚いて振り返った。
「りつ危ない」
「え──うわっ」
注いでいた湯がカップから溢れそうになっていた。
慌てて濡れた布巾で拭き、もうひとつのカップに湯を移す。
うわ、なんかふわふわする。
どうしよう。
別れたって?
別れたって言った?
かすかに聞こえた笑い声に、おれはむっと振り返った。
「何笑ってんだよ…っ」
「──いや」
茶色く染まった布巾を絞りながら、ケーキ食うんだろ、とおれは声を上げた。
「突っ立ってねえで、そこにフォークあるから出せよっ、あと皿もっ」
はいはい、と俊臣が頷いた。
「大体なあ、なんでクリスマスに男ふたりでケーキなんだよっ」
「残念だったな」
「何言ってんの? おまえのせいだろっ」
腹立ちまぎれに怒鳴れば、俊臣はひどく可笑しそうに目を細めていた。
それからふたりでケーキを食べ、俊臣が風呂に入っているときに英里さんに連絡を取った。結局今夜も俊臣は泊まることになり、それを伝えると、よろしくね、とだけ返ってきた。それから遠亜にメッセージを送ったが、こちらは返事はないままだった。
もう寝てるか。
もっと早くに送っておけばよかった。
引き留めなかったあのときの、遠亜の傷ついた顔が目に浮かんだ。
悪いことしたな。
ため息をついて、おれは自分のベッドを見た。
また俊臣と、同じベッドで眠るのか。
かあ、と前のときのことを思い出して体が熱くなった。
全然寝れる気なんてしない。
入れ替わりに風呂に入り、部屋に戻ると俊臣はベッドの上で横になっていた。
「俊臣?」
目を閉じている。
上下に規則正しく動く胸元。
眠ってる。
「なんだ…」
疲れてたんだろうか。
もしかしたら一日中不動産屋を回っていたのかもしれない。あれ結構疲れるんだよなあ…
髪がまだ少し濡れてる。
「…風邪引くぞ?」
俊臣は布団の上に寝ていた。座っていて、そのままちょっと横になっているうちに眠ってしまったみたいに。
おれは余っている布団の端を持って俊臣の体にかけた。
なぜかがっかりした気持ちになり、おれは眠る俊臣の傍にしゃがみ込んだ。
耳を澄まさなければ聞こえないほどの静かな寝息。
「勝手だよな…おれも」
離れたいと願うくせに。
自分の気持ちを知られたくないと思うくせに。
暗がりの中に俊臣がいるのを見たとき、おれはどこかで嬉しいと思ってしまっていた。
横に彼女がいたのに。
願えば願うほど…
「──」
寝顔を見るのが好きだ。
安心して傍で眠っている人がいる空間が好きだ。
幼いころはふたりでくっついてよく眠っていた。
仕事から帰った英里さんがうちに迎えに来るまで、家の中はふたりだけの世界だった。
「…大きくなったなあ」
おれよりも小さかった背。
おれの後をいつも追いかけてきていた小さな足音。
見下ろしていた視線が、いつのまにか見上げるようになっていた。身長が追い越されたのは、中学に上がってすぐだったっけ。
大人びた雰囲気をいつしか俊臣は身に付けていた。
おれの知らないところで。
でも、まだこんなに寝顔はあどけない。
「なんでかなあ、おれ」
どうして、こんなに好きになってしまったんだろう。
好きだ。
好きなんだよ。
この気持ちを持て余してしまうほど。
瞼にかかる前髪をそっと指先で払ってやる。
一瞬爪の先が肌を掠めた。けれど俊臣はぴくりともしなかった。
よく寝てるな。
「……」
ゆっくりと俊臣に覆い被さる。
そのときのことを、どう説明したらいいか分からない。
言い訳なんて出来ない。
魔が差したとしか思えない。
睫毛の先が肌に触れた。
息を止め、そっと、静かに、おれは眠る俊臣の唇の端に口づけた。
ほんの出来心だった。
思うよりもずっと柔らかな感触に胸が震えた。
自分と同じ髪の匂い。
もっと、もっと。
あと少しだけ──下に。
「っ──!」
わずかに身じろいだ気配に、ばっとおれは体を離した。
瞬間、全身が羞恥で燃えるように熱くなる。
な、
なっ、
なにしてんの、なにしてんのおれ…っ
なにしてんだよおおっ
「──っ」
そのまま洗面所へ駆け込む。
冷たい水を顔に浴びせかけ、首にかけていたタオルで濡れている髪をがしがしと乱暴に拭いた。
恥ずかしい、恥ずかしいいい…!
もしも──俊臣が起きていたら。
「ああああああ…」
考えただけで死ねる。
タオルに顔を埋めてしゃがみ込んだ。
死にたい。
死んでしまいたい。
明日の朝どんな顔でおはようって言えばいいんだ。
どうしよう。
「…っくしゅん!」
ふいに出たくしゃみに身を震わせる。体は寒いのに内側は熱くてたまらない。どうにもならない感情が一度に押し寄せてくる。恥ずかしさと罪悪感とにもみくちゃにされながら、おれはしばらくそこから動くことが出来なかった。
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