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「ああ、うん、うん…ははっ、大丈夫、うん、じゃあまたね」

 携帯を切って顔を上げると、向かいに座っている女の子が不貞腐れたような顔をしていた。

「なに、すっごい嬉しそうな顔」

 ああうん、と頷きながらおれは携帯をテーブルの上に置いた。

「お義母さん」

「うわ…、マザコンなの」

 さも嫌そうに顔を歪めた女の子におれは笑った。

「違うよ、義理の。父親の再婚相手なの」

 父親の再婚相手──籍は入れてないけど──だという言葉ひとつで女の子の顔色がくるくると変わるのは、いつも不思議でならない。

 なんでみんなそんなに興味津々な目をするんだろう。

「え、それって若い人? どんな? 美人?」

「うちの父親よりいっこ上。綺麗だけど、おれよりふたつ下の男子高校生のお母さん」

 身を乗り出していた彼女はふうーんと頷いた。

「あー連れ子ってやつかあ。ねえその子かっこいい?」

「さあどうかなあ。普通じゃない?」

「仲良くないんだ?」

「そんなことないよ」

 仲良いよ、とおれは付け加えて甘い飲み物の入ったカップを手に取った。彼女が美味しいと勧めてくれたやたら長い名前のドリンクは、顔を近づけるだけで甘ったるい香りがした。ひと口飲んでその甘さに咽そうになる。

 ──あっま…

「大丈夫ー?」

 けほ、と咳き込むと女の子は目を丸くした。

「んー平気。このココアみたいなの? が、鼻にきた」

「それシナモンだってば」

 馬鹿だねえ、と女の子が声を立てて笑う。

 つられておれも笑った。

「ねえ今日どうする? 映画観たいのあるんだけど」

 いいね、と頷くと、彼女の言う映画のタイトルの上映時間を調べた。

 一番待たずに入れる映画館を検索して、迷わずそこに行くことにした。



「じゃあまたね」

 彼女と夕飯を食べて別れ、帰路についている。車内はそこそこ空いていたが、座るのもだるくて立ったままドアの傍に寄りかかっている。

 電車の窓の外は暗い。

 まだ二十時を回ったばかり。

 大学生のデートの帰宅時間にしては健全すぎる。

「……」

 ポケットの中に入れていた携帯が震えた。取り出して画面を見れば表示されていたのは大学の友人の名前だった。

『デート上手くいってる?』

 上手く?

 何をもって上手くいったかと言うのは個人の見解なので何とも言えないけれど、少なくとも──あれは上手くいってない方だろうな。

 まあ無難に終わらせられはしたけれど。

 おれは既読をつけたメッセージに返事をした。

『もう解散して帰ってるとこ』

『は?』

 反応速いな。

『なにそれウケる』

 おれもウケるよ。

 適当なスタンプを押して携帯をしまう。

 ため息をついて真っ暗な窓の外を見た。

 女の子の名前なんだっけ。

 ああそうだ、遠亜だ。読めなくて訊いたんだった。

 彼女と会うのはこれで三度目だ。

 三週間ほど前の合コンで彼女は斜め向かいの席に座っていた。二度目はその時いた他のメンバーとの食事会で。和風居酒屋の個室でいつのまにか隣に座っていた。お開きの間際、彼女の方から声をかけてきた。片手で数えられるほどのメッセージのやり取りの後、今日デートをする事になった。

 向き合ってお茶をして、映画館では隣の席で、そしてまた向かい合って夕飯を食べた。

 じゃあまたね。

 別れ際、少し──いやかなり名残惜しそうにおれを見上げていた目に、正直おれは何も感じなかった。

 またね。

『うん、おやすみ』

 またなんてあるんだろうか。

「……どうなんだろ」

 声に出さずに呟くと、虚しさだけが上滑りする。

 名前すらまともに覚えていないのに、好きなわけでもないのに。

 ひどいよなあ…

 電車のドアに嵌まった窓のガラスにおれの顔が映っている。

 ポケットの中の携帯が震えた。また友人からかと画面を確認して、手が止まった。

 英里さんからだ。

『そういえば年末は帰ってくる?』

 もうそんな時期か。

 冴えない顔色の自分にふと思い出す面影に、また深くため息をついた。

 

***

 

 卒業式の日に家を出て以来、おれは何かと理由をつけて俊臣と顔を合わせることを避けてきた。

 家に置いている荷物を取りに行くときは、平日の午前中を狙って帰っていた。家の鍵は持っているし、英里さんには後で帰ったことを知らせておけばよかった。はじめのうちは自分がいないときに帰ってきた事を怒っているようなメッセージが頻繁に俊臣から来ていたが、夏が終わる頃にはそれもすっかり減っていた。

 そんな日々を続けて半年以上、俊臣の顔を見ていない。電話はもともと口数の多くない俊臣だから、よっぽどのことがなければかけてこない。

 もうすぐ今年も終わる。出来ればこのまま顔を見ずに年を越したいけれどきっとそうもいかないだろう。忙しさにかまけて家に帰らないと言い訳出来るほどには、正直まだあまり忙しくもない。バイトを調整して──三が日をシフトで埋めることくらいは出来るかもしれないけれど。

「…ただいま」

 帰り着いたアパートの中はひどく寒かった。明かりを点けないまま靴を脱ぎ、短い廊下を進んで荷物を下ろした。

 ああなんか、疲れたなあ。

 暗闇の中でテーブルに置いてあったエアコンのリモコンを手探りで掴んでスイッチを入れた。コートを脱いで、ポケットの中の携帯を取り出す。

 返事、しとかないと。

 暗がりの中で立ったまま英里さんへのメッセージを打った。

『ごめん、まだ分からない』

 考えた挙句たったそれだけを送ると、おれはため息を落として携帯をベッドの上に投げた。

 ぱっと画面が明るくなる。

 英里さんからかと伸ばした手が、ぴたりと止まった。

『立夏くん、今日はありがとう。すごく楽しかった。また遊ぼうね』

 画面には三沢みさわ遠亜とあとある。そっか、あの子の苗字、三沢だった。

 彼女にも送って…

「……」

 もう一度会ったら、好きになるかもしれないし。

 誰に言うわけでもない言い訳を胸の中で呟きながら、おれはアプリを開いてメッセージを送った。

『おれも。またね』

 諦めるにはまだ早い。

 自分で決めたことだろ。

 携帯をベッドに投げ、風呂に向かった。


***


「りーつかーあ、おまえどうなってんのー?」

 学食で一番安いうどんを啜っていると、後ろから肩を叩かれた。

 おれは振り返る。

「え、なにが?」

「…何がじゃないでしょ」

 ため息をつきながら空いていた向かいの席に座ったのは、大学で出来た友人のひとりの成瀬だった。

「遠亜ちゃんからオレの方に連絡あったんだけど、分かんない?」

「…あー…」

 おれの目が泳いだのを見て、頬杖をついた成瀬が呆れた顔をした。

「またねって言ったくせになんもしてないんだろ」

「あー、まあ、うん」

 おれの目が更に泳ぐ。

「おまえさあ…」

 ほんと何やってんの、とため息まじりに呟かれる。

「その気がないならまたねとか言うなよ。期待するだろ」

「いや、でもあれから一週間くらいしか経ってないし」

「あのね?」

 反論するおれに成瀬はぐっと顔を近づけてきた。

「おまえ、今月がどういう月だか知ってんの?」

「どう…」

 どういう?

「クリスマスでしょ? あと二十一日で」

「──あ」

「向こうだって必死なんだよ」

 そう言われればそうか。全然──気にもしていなかった。

 その先の年末のことばかりで。

 しかし。

「別に、…クリスマスひとりでもよくないか?」

「それが嫌な人だっているの」

 よく分からない。クリスマスに家でひとりで過ごすことの何が嫌なんだろう。

「寂しいじゃん、周りみんな彼氏彼女持ちでさ、中てられるわけ」

 中てられる。見せつけられるってことか。

 その気持ちには、少し心当たりがある。

 あれはすごく嫌なものだ。

「ちょっとでもいいって思ったから、またって言ったんじゃねえの?」

「……」

 もう一回会えば好きになれるかもしれないと思ったことは本当だ。

 わかったよ、とおれは頷いた。

「連絡する」

「今」

 うどんをまた食べ始めようと箸を持ち上げた俺の手を、成瀬はぱっと押さえた。

「おい」

「いーま。今しろ!」

「食ってる途中」

「もう伸びてっだろ」

 手を離されて摘まんだ麺は、柔くなり過ぎて持ち上げた途端ぷつりと切れた。

「早くしろー」

 おれはため息をついて箸を置くと、携帯を取り出した。



 夕方からのバイトを終えて、バイト先のファミレスを出た。

「お疲れさまでしたあ」

 同じシフトの連中と今からバイトに入る深夜勤に挨拶をしてそれぞれの帰途につく。

 あーもうこんな時間か。

 二十二時過ぎ。

 夕飯は賄いで食べたけど、小腹が空いていた。帰ってからレポートも書かないといけないし、すぐに寝るわけじゃない。腹が減っていては持たないかもしれないと、帰り道にあるコンビニに入って夜食を買うことにする。家には何もないはずだ。

「いらっしゃいませー」

 棚にあったおにぎりひとつとお湯を淹れれば出来上がるカップの味噌汁を手に取った。あと、明日の朝食も。

 パンでいいか。

「528円になります」

 支払ってコンビニを出る。

 手に提げたレジ袋がかさかさと音を立てた。

 そういえば最近、料理作ってないなあ。

 家にいる頃は、仕事で度々帰りの遅い英里さんに代わっておれが食事を作ることも多かった。父親とふたりきりで暮らしていた数年間は毎日で、何も出来ない父親を助けるつもりで見よう見まねで家事を始めた。喜んでもらえるのが嬉しくて、父親が喜べば喜ぶほど、のめり込むように好きになっていた。

 それはふたりと一緒に暮らし始めてからも変わらなかった。なのに、ひとりになった途端、何もする気にならない。

 なんにも、なんにもしてないなあ。

 相手がいないとやる気が出ない。

 それこそ、目の前で喜んでくれる相手が。

 ぼんやりと考え事をしながら歩いていると、もう目の前にアパートが見えていた。無意識に歩いても辿り着けるほど、体は帰り道を憶えている。

 携帯が鳴った。

 誰だ?

 ポケットから取り出した携帯の画面には三沢遠亜の名前があった。

 昼間成瀬の前で送ったメッセージに、すぐに彼女は返事を寄越した。

 今日はこれで八度目のやり取りだ。

 明後日の休みにまたどこかに出掛けようということになっている。

『バイト終わった? 電話してもいいかな』

 …電話か。

 ため息のような息が白く暗がりに広がっていく。

 コンクリートの階段を上がって玄関の鍵を開けると、閉じたドアの内側で早速携帯が鳴り始めた。返事もしてないのに早いなと苦笑しながら、おれは携帯を耳に当てた。

「あーごめーん、おれ今帰り着いてさあ…」

 電話の向こうで相手の息を呑む音が聞こえた。

 一瞬の沈黙に、おれはしまったと思った。

 違う。

 ──違う。

『…りつ?』

 その声に心臓が大きく跳ね上がった。

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