3



『…りつ?』

 その声がおれの体の中に浸透していく。

 りつ。

 他の誰とも違う、おれを呼ぶ声。

 暗がりの中で、としおみ、と無意識に唇が動いていた。

 なにか──なにか言わないと。

「えー、と、…なに? 久しぶりだな?」

 笑いたくもないのに乾いた笑いが零れ落ちた。

「元気ー? 生徒会でがんばってんの?」

『生徒会?』

「おまえ二年で会長になったって聞いたけど」

『それは辞退したよ』

「え、…なんで?」

 おれの問いに俊臣は黙り込んだ。

 てっきりそうなのだとばかり思っていた。上級生がいる中、最年少の俊臣が卒業式で送辞を任されていたから。

『それより、りつ』

 俊臣がゆっくりと息を吐いた。

『年末は? 帰ってくるのか?』

「あ…、えーと…」

 結局、英里さんには曖昧な返事をしたままだった。あれからなにも返していない。

「まだ、分かんないかも」

『まだ?』

「だってまだ、…月のはじめだし」

 玄関から一歩も動けない。脱げずにいる靴先を見下ろして、我ながら苦しい言い訳だと思った。

「試験もあるし、バイトも、あるし」

『試験が終われば休みだろ?』

「だから…、バイト入れるんじゃん」

『じゃあ入れなければ帰れるってことだ』

 俊臣の言葉におれはうっ、と息を詰めた。

 昔からこの暫定義理の弟は、人の粗を見つけるのが上手い。

「それはまあ…そうだけど」

『なら入れないで帰ってくればいいよな?』

「そ…っ」

 そういうわけにはいかない。

 せっかくここまできたのに。

 隙を見せた自分の迂闊さを呪いつつ、おれはなんとか言葉を続けた。

「そ、そうもいかないんだよっ、人手不足だしっ」

『それはバイト先の問題だろ。店側が解決することだよ』

「いや、それはそーかもしんないけどっ、そんなのダメだろなんか!」

『だから自分が頑張ればいいって?』

「そうだよ、出来ることは手伝いたいじゃん、それにっ」

 ああ、くそっ。

 いつまでたっても終わりそうにない会話におれは苛立って声を上げた。

「それにおれっ、彼女出来たし!」

 耳元で響く沈黙。

 暗い玄関先を見下ろして、おれは知らず空いた手を握りしめている。

「…おれさ、彼女と忙しいの。家に帰ってる暇とかないかも」

 嘘を吐く罪悪感で胸が軋む。

 でも目の前に俊臣がいないだけあの頃に比べればまだマシだ。

『彼女?』

「そう、さっきもその子からの電話と間違えたし。そういうわけだから、年末はこっちにいるわ」

『立夏──』

 咎めるような声に苛立った。

「おれが何したっていいだろ?」

『……』

「英里さんにも悪いけどそう言っといて」

『り…』

 素早く指先で通話を切った。

 言いかけた俊臣の声がこだまのように耳の奥で繰り返す。

 立夏。

 りつか。

 そんな声でおれを呼ぶな。

 呼ぶなよ。

「おまえにだって彼女いるじゃん…っ」

 時々聞く英里さんの話から、俊臣がまだあの女の子と付き合っていることをおれは知っている。

 おれがいてもいなくても俊臣には何も関係ない。

 何ひとつ変わらない生活。

 おればっかり。

 おればっかりが苦しくて──だから嘘のひとつやふたつ、平気な顔で吐いて何が悪い?

「……」

 いつのまにか噛み締めていた唇から血の味がした。力を抜く。唇を解いておれは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してその場にしゃがみ込んだ。



 忘れられない。

 今でも思い出す。

『ただいまー』

 あの日、何気なく開けた玄関のドアの中に、あの子がいた。

 肩を震わせて、はっとした顔で彼女は振り返った。

 え?

 びっくりしたおれはどんな顔をしていただろう。

 彼女は高校の制服を着ていた。

 同じ高校だ。

『うわ、あっ、ごめん…、えと…?』

『あ、お、お邪魔してます、あの私』

『りつ』

 慌てたように早口で言う彼女の後ろ、廊下の奥から俊臣が現れた。

『おかえり』

『あ…、うん。た、だいま…?』

 俊臣は感情の読めない目でおれを見ていた。おれが彼女に目を移すと、俊臣もゆっくりと彼女を見た。

『俊臣、…』

 この子誰?

 狭い玄関先で歪な三角形に立つ3人の間に奇妙な間が出来た。

『ああ』

 ちらりと彼女に視線を流したまま、俊臣が言った。

『この人は…野口美織のぐちみおりさん。俺と、今付き合ってる人だよ』

『………え』

 すっと、足元から血の気が引いた。

 今なんて言った?

 俊臣は──なんて?

『あ、の、野口です。こっこんにちは…!』

 神崎先輩、と野口美織がおれに頭を下げた。長い髪が揺れる。

 おれは混乱した頭で必死に笑顔を作った。

 笑え。

 ここで笑わないと駄目だ。

『こんにちはー美織ちゃん? かわいー名前だね』

『えっ、いや、あのっ』

 おれのなんでもない言葉に彼女は真っ赤になった。

『俊臣と付き合ってるの? いつから?』

『あの…ええと』

『昨日』

『き…』

 昨日。

 ばっさりと俊臣が言い放った。

 ──昨日

『へええ、そっか、昨日からなんだ? どーりで、すっげ初々しい感じ』

 ははっと笑い声を上げて、おれは靴を脱いだ。こんな時に限って上手く脱げない靴がもどかしくて背中を冷や汗が伝う。

 暑い。

 背筋が震えるのに体中が熱くて、おれは肩に掛けていた鞄の持ち手をぎゅっと握り込んだ。

『まあゆっくりしてってよ、おれ部屋にいるから』

 ようやく脱げた靴を放るようにして廊下に上がる。

 俊臣の横をすり抜ける。

 りつ、と俊臣がおれを呼んだ。

『ちょっと出てくるから』

『はーい』

 廊下の先の階段に足をかけたおれは、軽く手を上げた。

『ごゆっくりー』

 振り返ることなんて出来ない。

 動揺を悟られないように、そのまま階段を上がり部屋に入った。

 後ろ手に閉めたドアに寄りかかり、息を殺す。やがて玄関のドアが開いて閉まる音。

 その瞬間、涙が溢れた。

 ──昨日。

 昨日ってなんだよ。

 なんなんだよそれ。

 昨日は、おれの誕生日だったのに。



 立夏という名前から、よく5月生まれなのだと思われがちだけれど、本当は2月生まれだ。

 どうしてそうなのかはわからない。おれの名前をつけたのは母親だし、母親はもう死んでしまって会えないから。

 父親も由来は教えてもらえなかったらしい。

「立夏くん──」

 あの日のことはあれから悪夢のように何度も夢に見る。

 俊臣があの子と一緒にいる場面が何度も何度も夢の中で繰り返された。

 あの子が羨ましいと思った。

 妬ましいと──醜く何度も嫉妬した。

 あの場所はおれのものなのに。

 そう思ったとき、決意した。

 もう俊臣の側にはいられないと。

 だから。

「り、つ、か、くんっ」

 目の前の靄がその声で弾けた。

 はっ、と顔を上げると目の前には三沢遠亜がいた。おれをじっと見つめている。

 周囲のざわめきが引いていた波のように一気に押し戻ってくる。

 たくさんの人の声。

 笑い声に満ちている暖かな場所。

 ここは駅前のカフェの中だ。

「ちょっと、私の話聞いてる?」

「あ──」

 そしておれは三沢遠亜と向かい合って小さな丸いテーブルについている。

「うん、聞いてるよ?」

 なんでもないように笑って、テーブルの上のカップを持ち上げた。

 カップの中身はもう冷めている。

「うっそ。全然聞いてなかったくせに」

「ええ? 大丈夫、あれでしょ? このあとどうしよっかって」

 本気で覚えていないから、仕方なく冗談みたいに適当に言うと、案の定遠亜は嫌そうな顔をした。

「もう、違うでしょ」

 やっぱり聞いてなかった、と遠亜はおれを軽く睨む。

「…クリスマス、予定空いてる? って話でしょ」

 ああ。

 ああ、そうだった。

 そういう話をしていたんだった。

 そのためにここにいるんだった。

 おれは人好きがするとよく言われる笑顔を向けた。

「もちろん空いてるよ」

 遠亜の顔が少し柔らかくなる。

「ええと…、じゃあ、あの」

「じゃあ」

 尻すぼみになる遠亜の声に被せておれは言った。

「クリスマス、一緒にいよっか」

 いつも強気な彼女の表情が、花が綻ぶようにふわりと優しくなった。

「うん」

 嬉しそうに頷く。

 その姿にちくちくと胸の奥が痛む。

 おれはなにをしてるんだろう。

 寂しいからひとりでいたくない彼女と、誰か──別の誰でもいいから手っ取り早く好きになりたがっている自分と、似ているようで違う気持ちが混じり合って、そこには奇妙な絆のようなものが生まれそうだ。

 おれはなにをしてるんだろう。

『ほんとにあんたは何をしてるのよ』

 遠亜と別れた帰り道で受け取ったメッセージは、二葉からのものだった。

 クラスメイト達の近況を知らせてきた短い文に、おれはどうしようもなく声が聞きたくなって、気づけば通話を押していた。

「何って…、デートじゃん」

『そんなの合コンのアフターケアでしょうが』

 馬鹿なの、と二葉は吐き捨てた。

「…おまえさあ、他人にキツイって言われねえ?」

 天を仰ぐと、はあ? と呆れた声が返ってくる。

『あんたに気を遣ってなんになんのよ』

「はは…」

 それもそうか。

 自分の足音が人気のない夜道に響いている。

『それで? 手ぐらい繋いだわけ』

「それはまあ…、繋いだ…つーかなんでおまえにそんなこと言わなきゃなんねえの…」

『私はあんたを見守るって決めてるんだから、それはそうでしょ』

「ああそ…」

 それは義務だと言い切られておれはため息をついた。

 こつこつ、と革靴の底がアスファルトに音を刻む。緩く結んだ紐の結び目が取れかかっている。昔小遣いを貯めて買った革のショートブーツ。そういえば俊臣と一緒に買いに行ったんだっけ。

 手入れをしていたから、綺麗な飴色になった。

「なんでおれ、おまえにキス出来なかったんだろう」

『気持ち悪いからでしょ』

「二葉はかわいいじゃん」

『ありがとう。でもそこじゃない』

 道の端にしゃがみ込んで結び目に手を伸ばした。肩で挟んだ携帯を落とさないように気をつける。

 指先で紐を引くとするりと解けた。

『手を繋いだ瞬間に違うって思ったもん』

 それはおれもだ。

 指先が絡まった瞬間、互いに顔を見合わせた。

 違う。

 これは恋じゃない。恋愛感情だなんて──おれと二葉の間にはなかった。

 おれは靴ひもを結び直している自分の指を見た。

 今日遠亜と手を繋いだ。

 彼女の手は柔らかく、暖かく湿っていて、ひどくくすぐったかった。

 人混みの中ですぐに離してしまったけれど。

 それでも二葉のときよりは、ずっと時間が長かった。

「じゃあ今度は上手くいくかも」

『へー』

「信じてねえの?」

『本命がいるやつが何言ってんのって感じ』

「はは、きっつ…」

 二葉がぐりぐりとおれの図星を突く。

 おれは無理矢理笑い声を出した。

「本命なんか手に入るわけねえだろ」

 そんなの絶対に無理だ。

 二葉はおれが誰を本当に好きなのか知らないが、おれがずっと誰かを好きでいることだけは知っている。

 それは数年前、二葉と手を繋いだ瞬間にばれたことだ。

 電話の向こうで二葉が小さなため息をついた。

『立夏、あんたさあ…』

 おれは立ち上がった。

 歩き出し、アパートに続く角を曲がった。

 とん、と前から来た人に体がぶつかった。

「あ、すみませ──」

 お互い道の塀伝いに歩いていたようだ。おれは慌てて謝りながら顔を上げた。

「──」

 立夏、と耳元を離れた携帯から二葉の声が漏れ聞こえる。

 おれは顔を上げたまま動けなくなった。

「…おかえり、りつ」

 どうして。

 どうしてここに──

『立夏あ?』

 こんな暗がりの中に、制服を着たままの俊臣が立っているんだ?

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