1
ばたばたと忙しい朝。
おれは慌てて階段を駆け下り、リビングに飛び込んだ。
「えりさーん、おれのネクタイはあ?」
台所で洗い物をしていた英里さんが顔を上げた。
「りっくん昨日ソファに置いたままだったでしょ」
指差されて見れば、ソファの背に綺麗に折りたたまれて置かれているおれのネクタイがあった。
「あった! よかったあ」
「もー、ちゃんと片付けないから」
「ごめんねー」
「そんなんで大丈夫なの? 私心配なんだけど」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
制服のワイシャツにネクタイを引っ掛けておれはリビングを横切った。二階の自分の部屋から荷物を取ってこようと階段に向かう。
あっ、と英里さんが叫んだ。
「もうこんな時間っ、りっくん、
「はいはーい」
上がりかけた階段の途中でおれは大声を返した。
階段を上がりきった廊下の奥の部屋、おれの部屋の向かいのドアの前に立った。
「とーしおみー?」
おざなりにノックをして返事を待たずにドアを開けた。
「おーい、もう起きろっ、て…──」
顔を上げて、どきりとする。
「──りつ」
俊臣が部屋の真ん中で振り返った。
きっちりと着込んだ制服。
窓から差し込む朝日が俊臣の輪郭を淡くぼやけさせている。
眼差しがおれを見ていた。
「返事してから入れって言っただろ」
一瞬言葉に詰まったおれは、だって、と口にする。
「まだ寝てるって思ったし」
「今日なのに?」
当たり前のように言われてまた言葉に詰まる。
最近は、いつも、いつもこうだ。
うまく──俊臣の前でうまく言葉を紡げない。
少し嫌そうに俊臣が眉を顰めた。
「寝過ごすわけないだろ」
「…あー、まあ、そーだよなあ」
誤魔化すように俺は言った。
「今日はおれの卒業式なのに、寝過ごしたりはしないよなー」
そうだ。
今日は高校の卒業式だ。
わざとらしく小首をかしげてにっこり笑うと、俊臣はますます嫌そうな顔をした。
ああ、駄目だ。
「朝飯出来てるからさっさとしろよ」
そう言っておれは部屋を出た。
今日で終わる高校生活。
そして、この家で過ごす最後の日だ。
この義理の弟と一緒にいるのももう終わる。
俊臣と彼の母親の英里さんと家族になったのは、おれが中学に上がる年の春のことだった。
元々、俊臣とは幼馴染だ。
おれは父親と、俊臣は母親と。
そんな親同士がいつしか愛情を持ち始め、お互いを必要として一緒に暮らすことになったのはとても自然な流れだったように思う。
『じゃあ、りつが俺のお兄ちゃんになるの?』
ふたつ下の俊臣は当時まだ小学五年生だった。
ひどく不思議なものを見るような目で言われたことを憶えている。
『そうだよ』
おれがお兄ちゃんだよ、とおれは笑って俊臣に言った。
近くに年の近い子どもがいなかったせいもあり、毎日一緒に過ごしていた。両方の親とも仕事で遅くなる毎日だったから、学校が終われば一緒に学童に行き親の迎えを待った。迎えがないときはおれが俊臣の手を引いて、おれの家に連れて帰り英理さんの帰りを待っていた。
大人にとっては短い時間でも、親を待つ子どもにとっては永遠にも似た時間の中、いつしかおれたちは互いに本当の兄弟のようになっていた。
『俊臣、これから家に帰ってもずっと一緒だよ』
ような、から本当の兄弟になる。
嬉しくて嬉しくて、これからの日々が虹色に輝いて見えた。
きっと楽しくて、楽しくて仕方がないのだと。
『よろしくな』
『うん』
おれはそう思っていた。
「おーい神崎ー、いい加減列に並べ!」
「はいはーい」
名前を呼ばれておれは振り返った。
「ごめーん、呼ばれちゃった。またね」
行こうとすると、あっ、と制服の裾を引っ張られた。
「神崎先輩、あのっ、ほんとに最後に必ず部室に寄ってくださいね」
「うん。あとで行くよ」
後輩の女の子に軽く手を上げて、おれは廊下に整列しているクラスメイトの中に入り込んだ。
「なに、告白か?」
違う、とおれは笑う。
「部活の後輩。お別れ会してくれるってさ」
「いいねえもてもてじゃん」
「神崎せんぱーいって泣かれるんじゃね?」
「うっさいなあ」
茶化してくる連中をおれは笑いながら躱した。ちらりと横目に見えた廊下の端には、まださっきの後輩が佇んでいた。
気づかれないように視線を外すと、彼女は背を向けて去って行った。
「あー卒業式なんかだりいわ」
「なあ終わったらカラオケ行かね?」
「いいね」
「じゃあ他の奴らも誘ってさ…」
だんだんと話が盛り上がってくる。
「今日で最後とか、全然実感わかねえなあ」
講堂に続く通路の先、開け放たれた窓の外では桜が満開になっている。
淡いピンクの花びらが、まだ少し冷たい風に吹き上げられる。
きれいだ。
きれいなのに寂しい。
『先輩、あとで時間貰えますか?』
さっきの後輩の声が耳に付いて離れない。
あれはきっとそういうことだ。
どうしてあとでなんて言ってしまったのか。
彼女に好きだと言われても、おれは何も言葉を返せないのに。
「こらあ、そこ静かにしろよ!」
浮かれて騒ぐ生徒たちに担任が呆れたように怒鳴る。
講堂の入り口には、こちらを見ている何人かの生徒がいた。手にはみんなたくさんの胸飾りを持っている。その中に俊臣の姿があった。
前のほうから順番に、ゆっくりと近づいてくる。
おれの番が来た。
「卒業おめでとう」
「…ありがと」
俊臣がおれの胸に手を伸ばし、小さなブーケをつけてくれた。
校長の長い話の後、壇上に上がったのは俊臣だった。
おれたち卒業生への送辞をこれから俊臣が述べるのだ。
隣に座るクラスメイトがおれの脇腹を小突いた。
「弟じゃん」
「うん」
おれは頷いた。
「在校生代表、塩谷俊臣」
マイクに向かいよく通る声で俊臣が名乗る。
今でもまだ俊臣は塩谷の姓を名乗っている。厳密にいえば英里さんもそうだ。
六年前の再婚時に、英里さんと父さんは籍を入れなかった。
それは、俊臣が嫌がったからだ。
「一年なのにすげえよなあ」
「ん…」
毎年卒業式の送辞は次年度の生徒会役員が務めるのが決まりだ。大抵は二年、つまり次の生徒会会長になる生徒が指名されるのだけど、今年は一年の俊臣がすることになった。
学年の中で一番の成績を修め、人望もある。
生徒会内でも現二年生を差し置いて一年で書記の俊臣がやることに誰も異を唱えなかったそうだ。
「立夏、あんたの弟やっぱかっこよすぎ」
四人並んだ席の右隣から、
「あー、告白すればよかったなあ」
二葉は中学からのおれの友達だ。
気が合って話も合って楽しくて、それをお互いに好きだと勘違いして一瞬だけ付き合ったことがあった。
すぐに別れたけど。
「もう今さらじゃん」
「そんなことないでしょ、まだいけるよ」
そう言って二葉はくすくす笑った。
そんなふうに言える二葉を心の底から羨ましいと思う。
おれだって、言えるものなら言ってみたい。
好きだって。
俊臣のことが好きだって。
そう言ったら、きっとあのいつも無表情な顔でハトが豆鉄砲食らったみたいな顔するんだろうなあ。
想像したら笑える。
でもそんな顔も一度くらいは見てみたかった。
書類上は赤の他人の義理の弟に、おれはずっと恋をしている。
せめて紙の上だけでもきちんと兄弟になっていたのなら、この思いにも諦めがついただろうに。
なまじまだ他人だから気持ちを捨てられない。
いつか、どこかの世界線で万が一にも望みがあるのではないかと期待してしまう。そんなわけないのに。
そんなことはあり得ない。
ないのに。
「──」
壇上の俊臣と目が合った。
「……」
「あ」
こっち見た、と二葉が嬉しそうに言った。
見合わせた俊臣の目元が柔らかく下がる。
それはおれしか知らない表情だ。
「やだずっとこっち見てるう」
二葉が隣で目を輝かせている。
「…おれだったら年上なんか絶対嫌だけどなー」
その瞬間、二葉が思い切りおれの足を踏んだ。
部室を出て階段を下りる。
まだ学校に残っている卒業生たちの声が窓の外から響いてくる。
笑い声が風に乗って、しんとした校舎の中にこだまする。
みんな元気だよなあ。
「りつ」
昇降口の入り口に俊臣が立っていた。
「…なにしてんの」
「遅かったな」
その言い草におれは思わず苦笑した。
俊臣の向こうには、校門前の前庭で記念撮影をしているたくさんの卒業生たちが見えた。
「なんだよ、先帰ればいいのに」
自分のロッカーから靴を取り出した。上履きはもう用はないから持って帰らないと。そう思って鞄に突っ込んだ。
靴を履き顔を上げると、俊臣がじっと俺を見ていた。
その視線がおれの首元に注がれていた。
「ああさっき、あげちゃった」
第一ボタンを外したシャツとニットにブレザー、胸に付けたブーケはそのままなのに締めていたネクタイはどこにもない。
「後輩の子に呼び出されちゃって、好きって言われたからあげちゃった」
「…付き合うの?」
「まさか」
はは、と声を立てて俊臣の横を通り過ぎる。
「おれもう行くのに、それは無理だろ」
「──」
「俊臣」
おれは振り返った。
「おれ帰んないでこのまま行くんだ」
「え?」
「父さんと英里さんにはちゃんと言ってあるし」
「立夏」
おれの腕を掴む指に力が籠る。かすかに潜めた眉。普段無表情だから余計に分かる。ああ、ちょっと怒ってる。
これは怒ってる顔だ。
名前を呼ぶのがいい証拠だ。
おれは素早く腕を引いてその指を外した。
「借りたアパート、もう今月から家賃発生するし、だったらいなきゃもったいないからさ」
「だからってこのまま行かなくてもいいだろ。明日でも、引っ越しなら俺も──」
「いいじゃん別に」
投げつけるように言い返すと俊臣ははっとしたように口を噤んだ。
怒っている俊臣になぜか腹が立つ。
「おまえには関係ないだろ」
「立夏」
「ほら、ずっとあそこで待ってんじゃん」
おれは昇降口から正面に見える校門のほうを顎で示した。
さっきから目の端にちらちら映っている人影。
細く頼りない姿、風に揺れる髪、遠くからでもじっとこっちを見つめる目が、おれを通り越して俊臣に注がれている。
「おまえを待ってんだよ。行けば」
「あれは…」
言いかけて俊臣は深くため息をついた。
その仕草に、自分で仕掛けておいて傷ついてしまう自分がどうしようもないと思う。
「せっかくの半日じゃん、楽しんでこいよ」
おれは冗談みたいに笑った。
笑ってそのまま背を向ける。
立夏、と俊臣が声を上げた。
「どうせすぐ帰るよ」
肩越しに振り返って、軽く手を振った。
帰るつもりなんてあるわけがないのに、ひどいなと自分で笑える。
嘘ばっかり吐いている。
嘘しか言えないから、それがどんどん膨らんでいく。
でも他になんて言ったらいいんだ。
「おっ、リツ、カラオケ行こうぜー」
「あー悪い、またな!」
「なんだよ帰んのかよ」
すれ違うクラスメイトに手を上げて前庭を抜ける。
もうそこだ。
校門を出る瞬間、おれは俊臣の彼女に笑いかけた。
あ、と彼女は慌てたように小さく声を上げた。
二週間くらい前から俊臣は彼女と付き合っている。
おれにはない全部を持っている女の子。
「ばいばい」
小さく手を振るとつられたように手を振るのが、可愛くて憎たらしかった。
見たくないと思うほどに見てしまう。
振り返るな。
そのままおれは近くのバス停からちょうど来たバスに飛び乗った。
駅に向かう窓の外、流れる景色をぼんやりと眺める。
早く、早く、遠くへ。
ポケットの中で握りしめたアパートの小さな鍵がひどく冷たかった。
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