第76話 仙人

 子どものころ、教師や周囲の大人に、将来の夢は?と訊かれて戸惑った。

 平穏な日常が当然な人は不穏な日常が想像できない分、鈍く、残酷だ。

 私の子ども時代の家庭環境は粗悪で、毎日が非常事態だった。

 そのため、不安や緊張や闘争心の神経回路だけは一丁前に発達した。

 私は“今”をサバイブする情報だけを集めた。

 己の将来を思いえがく余裕などない。

 私は短絡的でバカな子どもだった。

 誉められるための学びも、自分自身のための学びも、視野の外だった。

 学びは生理的欲求や安全欲求が満たされたあとの段階だと、マズローの欲求五段階説は説いている。

 家庭と学校の往来が世界のすべてだったころ、学校にも救いはなかった。

 教師は無礼なでき損ないの大人で、数少ない友人だけが心の支えだった。

 希死念慮はなかったが、大人になる前に苦しみ悶えて死んでしまうと思っていた。

 だが、氷をガリガリかじる氷食症と拒食症の併発は、ゆるやかな自○かもしれなかった。

 いや、今思えば、児童虐待が原因の“他○”なのだった。

 卒業文集の“将来の夢”の欄には仙人と書いた。

 喜怒哀楽という人間感情を、元より、両親・親族・教師・周囲の大人に対する軽蔑や憎悪を超越し、静謐の境地に達したかったのだ……。


 星にも仙人にもなれなかった私は、猿のまま社会人になった。

 俗世で生きるため、期待を棄て、斜に構えることを覚えた。

 失態を重ね、人と揉め、拗ねて他責・他罰に走った。

 そんななか、水商売の世界で、何度か本物の仙人に邂逅した。

 俗世で泥を呑み、血の汗や涙を流した人たちは、静謐の境地に達していた。

 福々しいアウトライン。

 眼光は強いが威圧的ではない。

 装飾品は淘汰され、縫製の堅い服を着て、清潔な靴を履いている。

 そして、無臭。

 加齢臭も香水臭もない。

 なんとも、滋味深いのだ。

「君は本当にいい子だねぇ……」

 会話の途中、さるお爺様は微笑んだ。

 私は溢れそうな涙をぐっとこらえた。

『もう少し肩の力をお抜きなさいよ』

 暗に導かれているようだった。

 何もかも見すかされてしまっては、鬼キャバ嬢も形なしだ。

 怒りは二次感情だ。

 初めに恐れがある。

『何もそんなに恐れなさんな。世の中悪者ばかりではないよ』

 仙人たちは私をノーガードにした。

 心地いいったら、ありゃしない!

 仙人たちはスマートに飲み物を勧めてくれたが、指名も延長もしない。

 嬢を落とす落とせないといった、ちまちました執着を持たない。

 仙人たちは、いつも、ふらっと現れた。

 下界でさらっと教えを説き、バカ娘を開眼させては仙境へ還った。

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