第46話 安全地帯

「俺は!お前の営業なんかにぜってー乗らねーからな!俺は!俺が!い、き、た、い、と、き、に、い、く、か、ら、な!」

 不在着信があったので折りかえすと、言いたいことだけ言って電話は切れる。

 いつものことだった。

 一体全体、彼は何と闘っているのだろう?

 こちらは意志疎通の図れなさに疲弊するばかりだ。

 彼が臍を曲げない日時(=指名被りがない日時)に誘導するのは難しそうだった。

 むらっ気で多動で突拍子もないからだ。

「俺、発達障がい(神経発達症)だから!」

 指名を貰って間もなく、打ちあけられた。

 すでに診断を受けているようだった。

 だから、察してくれと?

 転ばぬ先の杖のつもりか?

 今まで、さんざん悲しい思いをしてきたのだろうか?

 知能の高い彼が脱サラして個人事業主となったのは、苦心して獲得した安全地帯なのかもしれない……。


 だが、そんなわけで、営業をかければ

「ラーメン食べて帰りますよー。へへーんだ!」

ガチャり。

 ふらっと来店したかと思えば、指名被りに臍を曲げてきびつを返し

「○○(隣のビルのスナック)で飲んでますよー。へへーんだ!」

ガチャり。

 彼の舌足らずは私の苛立ちを助長した。

 だが、実際にへへーんだ!と言う人がいるのには笑ってしまった。


 対策は週イチの他愛ないLINEだ。

 それ以外は“お望みどおり”放置。

 だが、そうすればしたで

「俺のこと忘れてただろ?使えない客だと思ったんだろ?」

と焦燥して来店する。

 対抗馬の“長尻じいさん”も先に帰り、その夜は珍しく彼だけがラストまで残った。

 ボトルを入れないあまのじゃくがシャンパンを卸した。

 二人の関係性を進展させようと決めてきたらしく、一人意気込んでいた。

「俺とお前の仲なんだからさー」

 心理的距離が測れない人の常套句だ。

 グズグズグズグズグズる彼が面倒になった私は、何度もフルートグラスをあおった。

 閉店時間が過ぎ、店内の光量が増す。

『帰ってくれ!』

の催促だ。

 サービス残業はご免なので、彼を引っぱり上げてエレベーターに押しこんだ。

 とたん、私は吐き気を催して従業員トイレに駆けこんだ。


「大丈夫ですか?」

 うがいをしてトイレから出ると、店長がゾンビのような私に○ビアンのペットボトルをくれた。

「何?未開封じゃん(笑)。いいの?」

「どうぞどうぞ(笑)」

 客席にセットしてある○ビアンは開封済みで、中身は浄水器の水なのだ。

 しばし、店長と話す。

 売上的に旨味のある客で、店の損失にもなるが

「限界です。切ります」

と宣言した。

“切る”とは、指名客に対して営業などのアクションの一切を停止することだ。

 指名客のアクションにも一切応じないことだ。

 それでも、指名があれば嫌々つくか、拒否するか、早退するか、早退したふりして隠れるかだ。

 店長は渋々頷いた。

 そうしているうちにも私のスマホが震える。

 アフター(店がはけたあと嬢が客につき合う接待)するつもりはないので放置する。

「送り(※終電後は店専属ドライバーの送りがある。有料)、出してください」

 私は店長に頼んだ。


 さっさと着がえて車に向かう。

 ドレスは店経由でクリーニングに出せば無料だったが、サブバックに詰めて持ちかえることにした。

 吐瀉物の飛沫のついたドレスをボーイに預けるのは気が引けたからだ。

 店長が車までつき添ってくれ、ドアを開閉した。

「お疲れ様。ゆっくり休んで。また来週ね」

「はい。お疲れ様でした」

 ドライバーさんとひと言ふた言話し、私は後部座席に沈んだ。

 帰路についた既成事実の元、新着のLINEを開いた。

『○○で飲んでる』

 例のスナックだ。

 朝方まで営業しているので、アフターには勝手がいい。

『もう帰ってる。お休み』

 送ったそばから既読がつく。

 電話がかかる。

 私はでない。

 電話がかかる。

 私はでない。

“○しみにさよなら”

 その夜の彼に十八番を聴かせる相手はいない……。









 

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