第39話 夢子ちゃん
「あっ!携帯忘れた!」
夢子ちゃんのひと言で送りの車(※終電後は店専属ドライバーの送りがある。有料)がUターンする。
五分ほど走ったあとだった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
何度も聞かされているので、まるで説得力がない。
『どんだけ人の時間潰すんだよ!?』
私は心の中で舌打ちした。
ただでさえ、夢子ちゃんのしたくは遅いのだ。
たっぷり時間をかけて更衣室を出ると、従業員と雑談しはじめたところで手が止まってしまう。
水商売には不向きなシングルタスクだ。
長期的従事者の後頭部にある“第三の目”もない。
サクッと着がえおえ、持ち物確認や売上確認を済ませた嬢たちはソファーに沈み、いつも、夢子ちゃんを待っていた。
疲れたし、おなかも空いたし、何より眠い……。
皆、早く帰りたいのだ。
だが、送りは自宅の方向ごとに便が分けられていた。
夢子ちゃんと同乗する嬢たちはとばっちりだ。
その日も、ようやく持ち物確認を済ませてもらい、連れだって店を出た……はずだった。
夢子ちゃんは夜ごと何かしら忘れ物をした。
あまりにも忘れるので、あるとき、辛抱たまらなくなり
「毎回忘れるよね」
と指摘すると
「毎回じゃないですよぉー!」
と反論してきやがった。
だが、同乗する嬢たちの圧力もあって、たいした物でない場合は、取りに戻るのを諦めてもらうことにした。
キャッシャーに預けていた財布を忘れたとき、夢子ちゃんは
「大丈夫です!」
と強く唇を結んだ。
『大げさかよ。実家暮らしで余裕だろーよ』
私は心の中で皮肉った。
折に触れ、夢子ちゃんは講釈を垂れた。
「好きなことができれば名誉もお金も要らない!」
自活していれば言えない台詞だ。
夢子ちゃんは月数万円を家計に納めるだけで自室をキープしていた。
一人暮らしの経験はない。
健在の両親が冷蔵庫を満たし、食卓を整え、掃除洗濯をし、年中行事や煩わしい近所づき合いをも担ってくれる……。
それでいて、両親を愚痴るものだから“果報者”と言う表現がぴったりだった。
庇護者への感謝はない。
庇護されている自覚が、ない。
本人は一人前のつもりだ。
当時で私より年上の四十路。
『危機意識ねーな……』
窓外のLEDの帯に目をやりながら、私は心の中でつぶやいた。
一人暮らしの私にとり、財布を忘れることなど言語道断だった。
「スマホは?」
ソファーから起きあがった嬢が訊く。
隣で鞄の中を探る夢子ちゃん。
「ない!ない!……あっ!キッチンだ!」
思いだして取りに走る。
「ありました!」
一服したときにでも置き忘れたのだろう……。
「スマホ持った?」
「財布は大丈夫?」
いつからか、誰かしらが、必ず夢子ちゃんに確認させるようになった。
「あっ!あとで売上(LINEで)送ってください!」
ある夜は店を出しな、店長の仕事を無駄に増やしていた。
当日の売上は詳細が記されたリストで確認できた。
キャバ嬢は税法上個人事業主扱いなので、売上は自己管理が当然だ。
疲れていてメモを取るのが面倒なら、写真を撮ってあとでゆっくり確認すればいい。
そう何度も伝えたが、夢子ちゃんには馬耳東風だった。
「私ってぇ、接客業が向いてると思うんですよぉー」
なかなかどうして、厚かましい。
それは周囲の人間が決めることだ。
とうてい、感情労働に向いているとは思えなかった。
案の定、姉さんたちを煩わせ、たいした指名も取れなかった夢子ちゃんは、早々に撤退した。
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