第3話『何かやりたいことあったら、教えといてな』
「私の面倒ばっかりで、ごめんなあ」
晩年の母は、事あるごとに謝った。
「若い頃は好きにさせてもらったからね。親孝行だと思ってよ」
思えば、二十代、三十代の頃は恋愛や仕事に必死だった。しかし、四十代になり、父親が死んで、自分も若くないと思うと、生活に起きる変化の方がストレスに感じた。
東洋水産の株式を相続してから、穏やかな日々が続いた。食べ物は、毎月の株主優待。東洋水産と言えば、赤いきつねや緑のたぬき、マルちゃん正麺などのイメージが強いが、冷凍食品やチルド食品、チンするご飯、ハムやソーセージなども手掛けていて、それだけで三食が賄えた。果物や生野菜は、スーパーに買いに行った。
また、ご厚意なのか、はたまた大株主であるからか、社内誌に私の小説や、コラムなどを掲載してくれた。広く世の中に出ていくものではないが、約五千人の社員の方々に、自分の文章が読まれていると思うと、満足感があった。
食べるにも困らず、好きな書き物をしながら、私の人生は、満たされた気持ちで緩やかに終了するのだろう。
「何かやりたいことあったら、教えといてな」
ふと、母との会話を思い出した。あの時は、なんて答えたっけ?思い出そうとしていると、相続代理人がやってきた。ちょうど六十歳の誕生日。母が遺してくれたのは、予想外のものだった。
「六十くらいになったら、畑仕事でもしながら、好きな物でも食べながら、書き物をして、ゆっくり過ごしたいかな。農業なんてやったことないから、自信ないけど」
小麦畑を相続した。農作業の世話人まで手配してくれた。僕は気が向いた時に手伝う。収穫された小麦は、東洋水産に送られ、それを原料として、私専用の赤いきつねが作られる。そのための専用工場も作られ、SDGsの取り組みの一環となるらしい。
小麦畑の前で、母との会話を思い出す。全てを覚えている訳ではないが、小説のアイデア、未来の空想など、出鱈目な話も沢山した。
「また、ご連絡差し上げます」
一礼して、相続代理人は去った。またってことはまた来るのだろうか。楽しみのような、怖いような気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます