4月32日

サカモト

第1話 この町はときどきデジタル表示の日付けが狂う

 この町はときどきデジタル表示の日付が狂う。

 そんな日には、なぜかいつもヘンなことが起こる。だいたいは、そこまでの人生で未曾有のできごとだし、二度と起こることがなさそうな、再現性がなさそうなことだった。唯一で、行ったきりで、花火みたいなものだった。

 とにかく、たまにそういう日がある。朝起きたときは、いつもまずスマホを見て、日付が狂ってないか確認するのが日課だった。

 でも、狂った日だったとしても、あまり出来ることはない。どんなに構えてきても、その構えはかんたんに無力化されて、ぜんぜん通じたためしがない。小さな頃から、ずっとだし、馴れている。

 だから、きっと、それに対応できるような、性格になったんだろう。この町にそういう人間に仕上げられた。

 ちなみに、日曜日の今朝も、目覚めてまず、スマホを見た。

 四月三十二日と表示されていた。

 ああ、来たか。と、思っただけで、狼狽えたりはしなかった。

 昨日は五月一日だった。それが四月三十二日になっている。

 まるで四月が春を惜しんで生き返って来た感じがした。

 


 そして、いつのまにか壁があった。

 見上げるぐらい高くて、むこう側はなにもみえない。

 コンクリートで出来ていて、硬そうだった。近所でよく見る塀とはまったく別もので、壁だった。

 とにかく高い。見上げると、首がいたい。

 空は、ひどくやすい青ペンキで塗ったような青さをしていた。ちょっと、つくりものみたいで、うそっぽい青さだった。

 そういう晴れた方をした日曜日の朝。自転車にのり、釣り竿を肩にかけながら川へ向かっていた。

 森のなかの不安定な土道を不安定な片手運転でよろよろと自転車で走る。きっと、公道でお巡りさんに見られたら怒られる走り方だった。でも、森におまわりさんがいるはずもなく、とにかく、このままいかなる困難があろうとも、足をついてなるものか。と、ひっそり、孤独な挑戦をしていた。

 好きな釣り場がある川に行くため、いつものようにそこを通りかかったときだった。

 壁があった。

 いつの間にかそこに壁が出来ていた。たかい、とにかく、見上げるほどたかい。

 それで、けっきょく、とまって、足をついてしまった。孤独な挑戦はしくじって終わった。

 でも、そんなことはどうでもよかった。壁を見上げてしまった。

 壁の上には女の子がいた。

 おそらく歳は十五、六歳くらい。たぶん、歳がちかい。

 大きく、まるい目をした子だった。とにかくこれまで出会った、どんな人よりもまるい目だった。そのひとは、大きなまるい目で、まるで青ペンキで塗ったような空を見上げている。そして、こっちは、その彼女を見上げている。

 くすんだ蜜柑みたいな色のぶかぶかの上着に、えり着きの白いシャッツ。下は黒っぽい、長いスカートだった。あまり、このあたりでは、見かけないファッションだった。飾り気はありつつ、スカートなのに、どういうわけか、いつでもダッシュできそうな動きやすそうな感じもある。不思議なチューニングのかかった服装だった。あとは、手持ちランプのひとつでもあれば、そのまま、未知の洞窟探検でも出来てしまいそうだし、くせ毛ぎみの髪は背中まであって、太陽をあびて、妙につやつやしている。毛並みのいい馬みたいだった。

 壁を見上げると、そんな彼女を見上げることになっていた。

 そして、一瞬、口には白い棒をくわえていたため、ああ、タバコだ、と思ったが、よく見るとちがった。ただ、タバコではないことがわかっただけで、その正体がなにか、地面からでは、はんべつはむずかしいところだった。

 女の子がいる壁は、町の端っこにあった。

 山に囲まれた町の、森のなかにあった。ここは、あまり人が来るような場所でもないし、来るような用事もない。小さな獣もよく出る。

 といかく、この町は山ばかりで、木ばかり生えている。壁があるのは、とくに山深い場所だった。このあたりには人も住んでいない場所だった。

 なのに、そこへ、いつの間にか、壁が、ぽん、っと出来ていた。

 目的地である好きな釣り場は壁にそったもうすこし先にあった。感じのいい川辺だった。小学生の頃、ひとりで発見して以来、そこで川釣りもするし、漫画を読んだり、それに調子がいいときは活字も読む。そして、スマホの電波は届かない。

 まず誰もこないし、じっくりと、ひとりで悦に入れる場所だった。冬以外は、よく行く。ちなみに、この町の冬は、長い間外にいると、死を感じるほど寒い。

 壁は、まるで急、ぽん、と天から雲を貫いて、巨大な手が置いていったみたいに、そこにあった。なんというか、ホンキの壁に見えた。そこいらにある塀とはまったくちがう。かざりめいたものがまったくない。

 つまり、どこか刑務所の感じがある。

 刑務所をそのまま移築でもしたのか。

 そうか、そういう刑務所を急に移築するような国になったのか。

 そう思いながら、壁を見上げ直す。

 壁の上にはまだ女の子がいた。幻じゃなかったことに、ちょっと安心させしてしまう。

 歳は、やはり、同じぐらいで十五、六歳ぐらいにみえた。壁の上いたと思っていたけど、よくよく見ると壁にそってつくられた鉄製の見張り台みたいな場所にいる。

 あの子は誰なんだろう。

 町にいる同じくらいの子の顏ならわかる。なにせ、同世代と上下の年代のにんげんの母数が少ない町だった。自然といるだけぜんぶ覚えてしまう。壁の上の彼女の横顔しかみえなかった。でも、まったく見たこと無い顏だった。彼女のような、大きくまるい目をした女の子は知らない。あんなまるい目の女の子を憶えられないはずがない。それほどまるい。眸もまるくて、黒々として大きい。

 壁を見上げているうちに、首が濃くいたくなってきた。高さは三メートルぐらいある。まだまだ新品感のあるコンクリートづくりで、ゆるい弧を描いて、どこまでも続いていた。壁の向こうのあたりは、もともと、森だった記憶がある。

 いったい、これをつくるのにいくらかかったんだろうか。五億円くらいかな。

 価格も気になったけど、女の子の方も充分に気になっていた。

 彼女は壁の上に設置された見張り台みたいな場所に立っている。見上げるこっちはに気づいているのかいないのか。

 はたして、彼女はなにを見張っている。

 そして、この壁はなんだろう。

 自転車をかたわらに停めたまま彼女を見上げていた。

 その彼女は空を見上げている。そして、気が付いた。彼女が口にくわえている白い棒は、たぶんアメだった。

 と、ふいに、彼女が空を見上げたまま視線だけ、こっちへ向けた。

 あの高さから見下ろされている。きっと、こっちはツムジまでまる見えだった。あたまをかくフリをして、そっと渦を隠す。

「なんね」

 彼女が声をかけてきた。

 ああ、たぶん、敵意も興味もほぼない。そう感じた。

「ごめん、タバコ吸ってるのかと思って、つい、じいっと見張ってしまって」

 そういうと、次に彼女は顏をずらし、顏の全体をこちらへ向けた。

 まるい両目で見て来る。そして、こっちが肩にかけていた釣り竿を見た。かと思うと、薄い色の唇から棒を引っこ抜く。

「これはチョコレート。ニコチンじゃなくて、糖分」

 見誤った、アメじゃなかったらしい。そして「なるほど」と、いって、次にどう答えるか考えた後「科学の勝利って感じがするね」と、いった。

 完全に空振った回答をしていた。間違えた回答だった。

 あせったのだろう。

 けれど、しかたない、あまり知らない人と話す機会がない町だし。でも、ベストは尽くしたはずだし、どうやっても、時は戻らない。

 なら、よし、このままこのしくじりの上に、生きてゆこう。

 決めて顏をあげた。

「この壁って、なんだい」

 間があくことによる停滞をさけるため、新たな展開をこころみる。誤魔化しもあった。

「ゾンビから守ための壁」

 まるい目を向けながら躊躇なくそう答えられる。

「ゾンビ」反射的にいっていた。「ゾンビなのか」

「まあ、聞かされた方はそんなふうになると思うよ。急を狙撃されたみたいな感じになるしかないよね。どうしたよ、なぜ、撃ってくる、そんな種類の弾丸を、みたいな」

「ゾンビ、ゾンビなんだね」

「うん、この壁はゾンビから人生を守ための壁、だ」

「ですか」

 一度、受け止めて、なるべく深いところまで持ってゆき、考えてみた。

 そうか、ゾンビか。ゾンビが入ってこないようにするための壁か。

 おもえば、今日のいままで、ゾンビについて真剣に考えてこなかった自分がいた。ゾンビに対して、怠けた人生だったといえる。油断していた。

 でも、けっきょく、返しに最適したいいアイディアを含んだ回答は浮かばなかった。

「どうした」

 硬化していたところをそう問われる。

「はやくも万策尽きたんだ。つまり、自分の知性の限界と出会ってたんだ」

「反応するほうがムズいこというな。そういうの、こっちの負担がでかくなるよ」

「で、ゾンビ、いるの?」

「来るという噂である」

「いつ」

「いつか」

「どこで」

「どこかで」

 ぽん、ぽん、ぽん、と小さなラリー形式で会話する。

 勝手な感想、心地が良かった。

「いつか、どこかで」つなげて、つぶやいてみる。「歌のタイトルみたいなのがここに完成したぞ」

「そうだね」

 彼女は、興味なさげながらそういってくれた。なんだろう、妙にありがたい。

 けど、ここから先はどうしよう。がんばって、展開方法を考えた。

「きみはそこでなにやってるの」ひとまずばくぜんと聞いて、すぐ「いや、チョコ食ってたのか」と言い直す。

「んんー、まあ、チョコを食べてるのはサブだよ。チョコを食いの方はサブストーリーで、メインストーリーは見張り。わたしはここで見張りをしている。つまり、見張ってるわたしをそこに、あなたが見張っているってこと」

「見張り、なんだいそれ」

「だから、ゾンビが来ないかここで見張りしてる」

「きみが」

「わたしが」

「それはバイトなのかい」

「家業だね、これは、いわば」

「ファミリービジネスなんだね」

「まあ、あがりはないけどね。こうして見張ってることで、チャリンチャリン、小銭が入ってくるワケでもない。経済世界での輪廻には含まれてない」

「キビしい業界なんだね」

「その感想はよくわかんないけど」

 否定するでもなく、いわば、その発言もまた感想といえた。

 感想への、感想。

 もちろん、さらにその感想への感想を言うことも可能だった。そしてその感想への感想への感想だって、っと可能だ。

 いまここに、一種の無限機関の可能性が見えなくもない。

 そして、そんな可能性、べつに見る必要もない。それに、これは世界中から無理されるアイディアだった。

 そして、そこまでの考えを地面へ切り捨てて、彼女を見上げなおした。

「つまり、この壁はいつか来るゾンビから、なにかを守るためにつくられた壁で、きみはゾンビが来ないかそこで見張ってるんだね」

「そうだよ」

「チョコレート食べながら」

「うん、タバコとカン違いされるようなチョコを食べながら見張ってる」

「けど、やってきたのはゾンビじゃなくて、おれだ」

「え、なに、きみ、ゾンビなの?」

「おれはゾンビではないよ」

「証拠は」

「だって自転車のってるもの」

「自転車乗ってるとゾンビじゃないって、証拠になるの」

「なるような社会にしてゆけばいいと思うんだ」

 そう言い張ってみた。けれど、言い張ったところで、会話的には行き止まりだった。

「すごい壁だよね」そこで、別の領域へ話題を蹴り転がしにかかる。平気でそういうことをやってゆく。「しかも、おれが気づかないうちに完成してた。おれが気づかないうちに完成させるなんて、たいしたものだもの」

「よくわからないが、キミは自己評価が高いんだね」

「自分に自信を持つことで、生存率をあげているんだとおもうよ。にして、とつぜん、ここに現れたね、この壁。魔法でもつかったのかい」

「いや、狂ったように急いでつくったからね、うちの親たち。つくったっていっても手作りじゃないよ、専門業者に頼んでだよ。親方みたいな人いたもん、コワそうな。顏だけ見たら、あれは、どこかの武将の末裔だね。劇画みたいな顏してたよ」

「壁の向こうはどうなってるの」

「家があるよ、なんこか。私の家もあるし。ありがたいことに家はどれも床暖房つき」

「いいなあ、人生の成功者が住む家だよね、床暖房」

「そうなの?」

「そうか、お金持ちなのか」

「親たちがお金持ちなだけだよ、なんかいっぱい持ってる、出どころ不明の謎のマネー。そのお金でつくった壁と家々」

 いって、彼女は白い手でぺちぺちと、縁を叩いた。

「きみは最近、この町に引っ越してきたってことなのかい。学校では見ない顏だ」

「学校は行ってない」

「行かないのかい、学校へ」

「この壁のなかには頭のいい人が何人もいる。一応、その人たちから勉強は教わってる」

「なら、学校じゃあ会えないのか」

 気が付けば腕を組んでいた。その間、自転車は腰と足で支えている。

 対して彼女は飄々していた。それは、ホントに、過ぎるほど飄々としていて、これまで出会ったどんな生き物よりも飄々としていた。

 彼女をただ見ているだけで、けっして言われたわけでもないのに、ああ、きっと、たいていのことはなにもかも、平気さ、と、断言された気分になってくる。

 いや、それも幻聴だろうけど。でも、そういう気分になる。

 それから彼女がいった。「学校じゃあ出会えない人もいる世界ってのも、あるってことだね。キミにとって、その世界の住人のひとりが、わたしということになる」

 手にしていた棒付きチョコレートを口のなかに入れる。それで、一挙に食べて、棒をひっこぬいた。

「そういうともあって、ヨシッ、とするきゃないよね」

 感想みたいなことをいう。

 なんだろう、やっかいだった。狙ってないゴールを果たしたような気分だった。いま、この世界に点が入った。まったくうまくいえないけど、そんな感じだった。

 それで、つい、彼女の短い一言に聞き入っていた。

 でも、すぐに正気に返った。

「で、ゾンビって、いるの」

「うちの親たちはいると言っている、必ずいつか来る、と、くるくると、回るようにいってる」

「きみの親が、いつかくるくると回転式で言ってるゾンビのために、きみはそこで見張りをしてるんだね」

「がんばることなく見張ってるよ、せっかくの青空を眺めながらね。ねえ、この町って、空がの青さがちょっとユニークだよね」

 指摘されて、こっちも見上げた。生まれてからずっと、この町にいて、この空を見ている。「きみにはそう見えるんだね」

 見上げた空に発見もなかったんで、けっきょく、無難な答えになってしまう。

「この壁、頑丈なの?」

 コンクリートの壁にタッチして見ながらきいた。

「さあ」

「ほら、たとえば、ゾンビが大挙して来ても耐えれるのかな。わあー、ずごごごごー、ってすごい集団で、大量在庫放出、ってなぐあいに。それいけぇー、やれいけぇー、みたいな感じでゾンビたちが、でんでろでんでろと、やってきたとしても、コワれないのかな」

「え、なに、ゾンビって集団で来るの」

「実物のゾンビはみたことないけど、ゾンビの捏造映像作品とかは、そうやって来たりしてた。雪崩にように集団になって、人間の住処をどばどな襲撃してたり」

「ゾンビ捏造映像作品ってなに」

「ゾンビ映画のこと」

「そうか、じゃあ、あるのかもね、集団で、すごごごごー………も」どういう理屈で納得したのかは不明だが、とりあえず、一定の納得した様子で彼女はいう。「でも、たしかに。集団で来られて大丈夫なのかな、うちの壁?」

「耐久テストとかしたの、この壁」

「そういう情報はわたしの手元までとどていない」

「ためした方がいいじゃないかな」

 それは深く考えず放った発言だった。

「ためす」彼女はつぶやき、んー、っとうなった。「ためす………あ、ねえ、方法、いま思いついたかも、方法」

「どんな」

「ちょっと待ってて、取って来る」

 告げて、彼女は壁の上から、ひゅっと姿を消す。

 なにを取ってくるというのだろう。こっちはこっちで、具体的な情報は、こちらの手元までとどいていない。

 そして、待つこと七分。

 自転車を壁に立てかけ待つ。

 そして、あの子はもしかして、幻だったんじゃないかと思い始めた頃だった。

 彼女がふたたび壁の上に姿をみせた。そして、見張り台から「ひさしぶり」と声をかけた。

 こっちは「奇跡の再会だね」と言い返す。

 ごっこにも至らない、やり取りを経て、彼女が口を開く。

「手榴弾持ってきた」

「てりゅうだん?」

「爆弾。あのね、ゾンビの襲撃に備えて、うちの親たちが用意してたの。これをちょっと爆破させて、この壁がコワれないかためしてみようよ」

「その異常な確認方法はやらない方がいいじゃないかな」

「こんな壁そのものが異常だし、やられてもしかたない壁だよ、この壁」

「よくわかってないけど。手榴弾って、たぶん、ピンみたいなの抜いて投げて爆発させるタイプの爆弾だよね、映画で見たことある」

「さあ、やってみよう」

「それは無視なのかな」問いかけた後でいった。「止めるべきニンゲンが現場に自分しかいないって状況って、ほんとキツいね」

 せめて、その心持ちだけは伝えておく。

「ピン抜いたら三秒ぐらいで爆発だよね、きっと」

「それをおれにかくにんしても、正解はないよ。ここにはなにもない」

「ピン抜いたら、この壁ぎわに、ぽとん、と落とすから。たまご産み落とすみたいに。さあ、離れて離れて」

「もうそれは止まらないんだね」

 それもつたえ、自転車を押して、壁から離れる。二十メートルは離れた。

「さあ、自由よ」

 彼女は、そういってピンを抜く。どうかしている一言っぽいが、彼女の言い方が妙なのか、狂ったようにきこえないのがやっかいだった。

 そして、ぽとん、と手榴弾を壁際に落とす。

 手榴弾は三メートルを落下し、たまたまそこにあった石の上に落ちて強くはねた。

 はねて、そこにまた石があって、はねて、また石があって転がり、ジャンプ台的な反斜面をのぼり、飛んで、また石の上に落ちて、はねて、はねて、やがて、こちらの靴先にこつん、とぶつかった。

 目下で、手榴弾が擬人化して、やあ、と明るくあいさつしたようにきこえた。

 ぼくは、手榴弾くんさ、いま、きみにキミの元へゆくよ。

 そして天国へ連れてってあげるから。

 と。

 とっさに自転車をその場に捨て、釣り竿を抱えたまま逃げる。釣人生史上最大速度で動いた。

 我よ、光り速さで逃げよ、と。

 そして爆発する。

 投げ出した自転車が空を飛んだ。ロケット発射の状態になったのかもしれない。自転車は一瞬で彼女の頭上より遥か高い位置まで達した。車体は一度、空中で無人のまま決めポーズのようなカタチになり、さらに前輪は太陽の丸みとリンクして、後光を受けた感じにさえなかった。悟りを得ると、人は発光すると聞く。だからそうか、あの自転車はいま、空で悟ったんだな、とも思えてしまう光景だった。もはや、ありがたさ、さえあった。

 時間にして数秒だった。ほどなくして、自転車は壁の向こうへ落ちた。

 地面に落ちてガシャンとフレームがどうにかなっただろう破滅音だけがきこえた。

 爆発の音でやられたせいか、耳が痛かった。それが少し落ち着いたころ彼女へつたえた。

「壁の向こうに自転車が中に入ったんでとってください」

「ボールが入ったみたいに言ってきたわね」

 彼女はまた感想みたいなことをいった。

 そして、彼女はさらにいった。

「というわけで、きみ、いますぐここから逃げて」

 彼方へ進めとばかりに、無表情のままゆびを指す。

 三秒くらい、しっかり考えてから答えた。

「それはさすがに現実を端折り過ぎだ」

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