護る者、滅ぶ者 八

 槍は什智じゅうちの腹に斜めに突き立ち、グローヴ領主は両眼をかっと見開いて、口から血泡ちあぶくを吹いていた。


 雪李せつりは、ととと、と足下を蹌踉よろめかせる。見れば、雷韋らいが雪李の腰にしがみついていた。



「雪李! あんた、何やってんだ。什智は殺しちゃ駄目だ。生け捕りにして国に裁いて貰わなきゃ」



 雷韋がそう伝えた時、雷韋の薄い藍色に染められた瞳と雪李の深紅の瞳が、真正面からぶつかり合った。


 紅い瞳に感情はなく、酷く平坦で、それでいて残酷だった。

 その瞳に、雷韋は身体の芯からぞっとする。素早く雪李から距離を取った。


 知らず、雷韋の呼吸は上がっていた。恐怖の為だ。生物が本能的に危険な生き物を判別するように、雷韋もまた雪李をそう判別していた。


 危険な生き物だと。


 雷韋の藍に染まった瞳も染色を無視するように、警戒色の黄色に変じている。



「雷韋」



 雪李は無感情に少年の名を口にした。そうして、鈍色の槍を逆手に手の中にあらわす。その口元は笑っていた。

 その笑みを目に止めて、雷韋は火影を召喚すると、何故か己の両二の腕を切りつけた。


 傷口から真っ赤な血がゆっくりと流れ出したかと思えば、次の瞬間には赤い筈の血が真っ黒に変じた。しかも、ただ血が流れ出しているのではない。ほとんど吹き出していると言っていい勢いで流れ落ちていく。同時に、雷韋の足下が蹌踉よろめいた。


 少年は固く目を瞑って一度頭を振ると、すぐに雪李に黄色い目を向ける。

 すると雪李は、心地よさげに目を瞑って、大きく息を吸い込んでいるところだった。まるで花園で、花々の香りを胸一杯に吸い込むように。



「あぁ、いい香りだ。人間の血なんかとまるで違う。引き込まれそうに甘い匂いがする」



 雪李はうっとりとした口調で呟く。まるでとろけるような口振りだった。



「きっと君のはらわたはその血と同じくらい温かいだろうね。心臓を抉り出して囓ったら、どんな歯触りだろう。常に鼓動を刻む心臓は、強い弾力があるのかな?」



 おぞましい事を口にして、もう一度雷韋の血の匂いを吸い込み、目を少年に向けた。

 真っ赤な瞳が凶暴な色をたたえている。


 それをまともに見た途端、雷韋は身体の底から震えを起こした。恐ろしすぎるのだ、雪李の紅い瞳が。


 雷韋の本能が激しい警鐘を鳴らし、その場から一気に走り去れと言っている。なのに、それに従う事が出来なかった。恐ろしさに射竦められてしまっているのだ。奥歯が鳴り、全身が激しく震えを起こして、指の一本も動かす事が出来ない。


 魔術を使う事も、火の珠玉を使う事さえも頭には浮かばなかった。


 その間中、腕からはぼたぼたと真っ黒に変色した血が流れ落ちている。両腕の真下には、早くも真っ黒い血溜まりが出来ていた。



「ねぇ、雷韋。僕のものになってよ。生きたまま食べてあげる。そうして永遠に僕の中で生きるんだ」



 なんでもない事を言うように言いながら雪李は近づき、雷韋に槍が振り下ろされる。

 その時、白い刃が走った。同時に甲高い音。


 雷韋の前に身体を滑り込ませるようにして、陸王りくおうが割り込んでいた。



「サルガキ、何してやがる。逃げやがれ!」



 陸王が怒声を雷韋に浴びせかける。

 その途端、雷韋の身体はぴたりと震えを鎮めた。何故だろうか、雷韋は突然現れた陸王の存在に無性にほっとしたのだ。



「り、陸王」



 身体の震えは治まっていたが、声は未だに震えている。

 それを耳にして、陸王はもう一度怒鳴り声を上げた。



「逃げろ!」



 怒鳴って、陸王は雪李の槍を弾き返した。



手前てめぇもとうとう本性現しやがって」



 そう。雪李の中には、もう理性はなかった。什智を見た瞬間に、理性が消し飛んだのだ。あまりもの怒りによって。だから手にした輝く光の槍が、血を腐らせたような鈍色にびいろに変じたのだ。


 雪李はもう、堕天使ではない。魔族に転化したのだ。



うるさいよ……」



 言う雪李の口調は、酷くつまらなげだった。


 陸王はその雪李を真っ向から睨み据える。未だ黒い瞳で。


 陸王にも雷韋が流す真っ黒な血の匂いは感じられていたが、それに構う事はなかった。今はただ、雪李を殺す事しか念頭にない。


 雪李を睨め付けると、彼の真っ赤な瞳は燃え始めていた。狂気に全てを明け渡して。


 その気配を雷韋も感じていた。雪李がどんどんおかしくなっていくと。



「陸王……」

うるせぇ。さっさと逃げろと言っている!」



 その言葉を聞いて、雪李はくっと笑った。



「ねぇ、知ってる?」



 やけに楽しそうな雪李の声。それが陸王にかけられた。


 陸王は何を言い出すのかと内心で訝った。けれども、雪李の一挙手一投足に全神経を集中する。

 雪李は何を思ったか、槍を持った腕を力なく降ろし、そして言うのだ。



「影香と一つになって、かつての記憶が全て戻って分かった。鬼族おにぞくはね、魔族の餌なんだよ。でも魔族に襲われた時は生きる為に戦わなきゃならない。その時、鬼族はどうすると思う? 血を流して戦うんだよ。魔気まきに侵されても倒れないように、真っ黒に濁った血を流しながら。今の雷韋がそれさ」



 雪李は楽しくてたまらないという風に口にする。


 魔気とは、魔族が発する瘴気しょうきの一種だ。人族ひとぞくは長い時間魔気に晒されると、心身共に変調を来す。身体が思うように動かなくなったり、酷い時には精神に異常を来す。そして魔族に喰らわれるのだ。


 だが、魔気は目に見えるものではない。心身に変調を来して、初めて人は魔気に晒されている事に気付くのだ。



「知ってるかい? 雷韋は鬼族だ。それも鬼族の中の王族である夜叉族。どうやら雷韋は開眼していないようだけど、開眼していたら魔族だって敵わないかも知れない。でもね、魔族にとっては恰好の獲物なんだ!」



 最後の一言と共に、雪李は槍を振り上げると陸王に叩き付ける。

 だが、陸王とて黙って打たれるわけではない。吉宗の刃で冷静に受け止めるが、内心では衝撃を受けていた。


 雪李の語った言葉に心底ぞっとしたのだ。


 雷韋の種族。魔族にとってのその存在意義に。

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