第六章

対 一

 結局、陸王りくおうは昨夜、神経がささくれ立って眠れなかった。寝台の上から陸王は明けたばかりの空を眺めていた。

 昨日の夕方、すが雷韋らいを振り払い、宿を取ったところまではよかった。だが、問題はそのあとだった。


 エウローン領にも手配書はばらかれているとは思っていたが、宿の客の複数人が陸王をちらちらと窺ってきたのだ。けれど手配書には帯刀の文字がある。なのに陸王は帯刀していなかった。正確には外套がいとうの背に隠していただけなのだが、手配書の人相書きだけでは決定的な証拠にはならない。人相書きなど、案外いい加減なものだからだ。


 だから食堂にいる間中、ずっと見張られていた。陸王も殺気立った視線に晒されるのが嫌で、食事を早々に済ませて部屋に入ったが、一階の食堂が閉まるまで扉の向こうに人の気配がずっとあったのだ。もしかしたら泊まり客の中に、昨夜、扉に張り付いていた者達がいるかも知れない。


 それを思うと、眠るどころではなかった。それどころか、刀の手入れさえ出来なかった。

 押し入られる可能性があるからだ。


 ある程度覚悟はしていたものの、流石に賞金が銀貨一〇〇枚ともなると、皆、目の色が違う。

 一睡もしていないが、眠気はなかった。


 街の目覚めを促す一時課いちじか(午前六時)の鐘が鳴れば階下の食堂は開くが、三時課さんじか(午前九時)にならなければ城門は基本的に開かない。例外は外から来る早朝の乗合馬車が到着する時だ。その時ばかりは城門が開くが、出て行く事は出来ない。


 食欲はなかったから食堂が開いても階下したに下りるつもりはなかったが、三時課までには城門に辿り着きたかった。朝一で街を発ちたいからだ。

 しかしそうすれば、昨日の三人組の男達のように、陸王を追ってくる者は必ずいるだろう。それを撒くのが面倒極まりない。


 いっそのこと蹴散らしたかったが、大勢の目がある場所で大立ち回りをすれば必然的に衛兵の目にもつく。それだけはまずい。どうあろうがけなければならない事だ。

 陸王に喧嘩を売ってきたのはエウローン領領主ではない。グローヴ領領主だ。


 グローヴ領に辿り着ければ、大手を振って立ち回れる。


 昨夜からぴりぴりしていたせいで、まだどうやって自分の冤罪を晴らすのかに思い至らなかったが、どうせなら真っ正面から切り込んでもいいと思い始めていた。売られた喧嘩を買うまでの事だ。什智じゅうちを脅してでも自分にかけられた賞金を取り下げさせる。


 そこで、ふと思った。乗合馬車の中で雷韋に刀を奪われなければ、こんな事にはならなかったのだと。それを思うと、簡単に刀を奪われた不甲斐ない自分にも苛立った。

 そうして悶々としていると、一時課の鐘が鳴り始めた。街中の人々が起き出す時刻だ。同時に宿屋も機能し始める。と言う事は、陸王も逃げ出す算段を立てなくてはならなかった。


 とは言え、すぐに動く必要はない。城門が開き、市が立つ三時課までまだまだがある。


 それを思い、高ぶった気持ちを鎮める為に陸王は刀を手に取って、鞘から刀身をすらりと引き抜いた。

 窓から差し込む朝の陽を浴びて光を弾く刀身に目を止めながら、我ながらよく手入れされていると思った。


 これまで雇われ侍としてこの刀にどれほど血を吸わせたか分からないが、刃毀はこぼれした事は一度もない。それどころか、自分が次にどう動くのかを知っているかのように、戦場いくさばではよく立ち働いてくれた。立ち回りで身体が疲弊ひへいしていても、何故か刀を振るう力は失われなかった。そのお陰で何度生命いのちを救われたか分からない。


 神剣『吉宗よしむね』。


 神をもほふれると言われている剣だ。

 いつ、どこで、誰によって、どうして創られたのかは知らないが、陸王が日ノ本を離れる際に守り刀として渡されたものだ。


 神剣故か、吉宗には意志がある。持つ者を選ぶのだ。そして離れれば、耳鳴りに似た音を陸王に届かせて『呼ぶ』。

 陸王が吉宗を渡された時「引き抜いて神意を確かめろ」と言われた。「神意に沿わなければ刃は抜けぬ、神意に沿えば刃を抜く事が出来る」と。


 そして陸王は吉宗の刃を引き抜いた。

 陸王は吉宗に選ばれたのだ。


 雷韋が刃を引き抜こうとして引き抜けなかったのは、吉宗の神意に沿わなかったからだ。

 つまりこの刀は陸王にしか扱えない。陸王以外の者には従わない。陸王が次にどう動くか分かっているかのように刃が走るのは、吉宗の能力ちからにあるのかも知れなかった。



「神意か……」



 刀身を目にして心の波が落ち着いた為か、そんな言葉が自然と口をついて出た。そう言う口元には、微苦笑が浮かんでいる。


          **********


 三時課の鐘が鳴り終わり、暫くしてからの事だった。広小路ひろこうじの商店が開いて露店が立ち並び、それが延々と続いて大広場の市場に繋がる。正午を知らせる六時課ろくじかの鐘が鳴るまでは、広小路も市場も人々で混雑する。


 買い物客だけではなく、行商人や商隊がそのまま広場に店を開く事もあるからだ。

 だから必然的に市場はごたごたする。


 陸王は朝一の乗合馬車に乗る事を諦めて、市場に身を投じていた。


 その陸王のあとをつかず離れず、四人ほどの男達があとをつけてくる。どれも傭兵崩れのような風体だ。彼らの様子を窺うに、共に手を組んでいる様子はない。誰もが賞金を独り占めしたいのだろう。その全員から逃れるのは骨が折れる事だったが、上手く市場の人混みを利用して逃げ出すしか手はない。


 露店を覗く振りをして男達の様子を時折窺った。

 傭兵崩れと言えばごろつき同然で、短絡的な行動に出やすい。彼らが剣を抜くかどうか注視していたが、流石に人で賑わう市場で剣を抜こうとする者はいなかった。その代わり、じりじりと距離を詰めてくる。それに気付いて、陸王は急いで男達から距離を取った。


 背後に神経を集中して、人波を潜るようにして歩く。


 と、いきなり目の前に、皮鎧に身を包んだいわおのような身体の男が現れた。陸王も背は高いが、現れた男は更に高い上背だった。身体の幅など筋肉で脹れ上がって、陸王の倍近くもあろうか。



「兄ちゃんよぉ、背中に刀隠してねぇか?」



 胴間声どうまごえで言って、ぬっと手を伸ばしてくる。だが陸王は、さっとその手から逃れた。男は陸王を捕まえ損ね、全く関係のない女の腕を掴んで引っ張っていた。急に引き摺り寄せられた女が驚いて悲鳴を上げる。

 途端に周囲の人々の視線がその場に集中した。



「こんな女じゃねぇ。手前ぇだ、若造!」



 男が怒号を上げて再び陸王に掴み掛かったが、陸王はそれもさらりとける。しかもそれだけではすませなかった。陸王は半身を翻すようにして男の背後に回り込むと、流れるような動きで男の延髄に手刀を叩き付けた。巌のような男はくぐもった呻き声を上げると拍子抜けするほど簡単にその場に崩れ落ちる。


 男が倒れると同時に人波が割れた。

 それに合わせて陸王は頭巾を目深まぶかに被ると、人波の中に隠れるように割り込んでいった。


 男が倒れた事に気付いた人々の中からどよめきが上がり、近場にいた者達が集まり始めて陸王の歩みを止めようとする。

 それにしても、背後にばかり集中していたせいで、男が一人いつの間にか回り込んでいる事に気付かなかった。不覚中の不覚だ。


 軽く騒ぎになっている場所に行こうとする者、騒ぎに巻き込まれるのを倦厭けんえんして遠ざかろうとする者に分かれて、大広場の一角は騒然となる。

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