捕縛 三

 身体の半身を汚泥まみれにされた屈辱感のまま、彼は遠ざかる足音に向かって叫んだ。それから少しして、衛兵の階段を上っていく音が続き、最後には再び扉を閉じ錠をかける音が響いて、それで終わりだった。


 あとにはもう、何者の音さえも雷韋らいには届かず、一人そこに取り残されただけに終わった。


 くそっ、と小さく毒づく。ここまでの道すがら、雷韋は逃げ道を見出そうと注意深く辺りを見ていたのだが、思いの外、この砦は厳重な造りであった。そして雷韋が異種族だという事も手伝って、両腕を縛める縄もきつく締め上げられ、地下に通される段には、捕縛された時以上に封珠縛ふうじゅばく幾重いくえにも重ねられていた。


 雷韋は一人、己の先見の明のなさと向き合いつつ、それでも色々と思考を巡らさなければならなかった。勿論それは、ここから逃げ出す算段をする為のものではあったが、それよりも今の雷韋には気にかかる事があった。


 やはり、什智じゅうちの事だ。どうしてこうまでして自分を捕らえたかったのか、それが気になってしょうがない。第一、手配書が近隣の領地に回されるその異常なほどの迅速さが腑に落ちなかった。確かに手配書が一つの領地内だけに留まらず、近隣にも配される事はあるのだが、今回に限って言えばあまりにも早すぎる。


 昨日の今日だ。


 今の雷韋にその理由らしきものの見当があるとすれば、それはやはり、あの火の珠玉が関係しているとしか考えられない。

 あれは金品で取引出来るほど単純に扱ってよい物ではないのだ。あれさえあれば人間族にも精霊魔法エレメントアを使う事が出来るのではなかろうか。


 かつて光竜が世界の創世に発現したという神代魔法ダリタリアほど絶対的な力の具現化は出来ないが、精霊魔法は純粋にそれから派生した魔術であり、強大な力である事に変わりない。そして更に悪い事に、根源魔法マナティアほど融通の利く魔術でもないのだ。根源魔法も神代語リタから派生した魔術だが、言霊ことだまを使う事に特化している。精霊魔法の源は、意志や感情を持った特殊な存在、つまり精霊であり、彼らの扱いを少しでも誤れば世界を破壊してしまえるほどの力を有している。


 それが精霊魔法だ。


 だからこそ精霊達は『戦争』を起こすような、業の深い人間族に力を貸す事をよしとしないのだ。


 あの火の珠玉を入手した事に喜びを覚えた雷韋だったが、再び人の手に渡ってしまった事に対して、酷く不安な気持ちになっていた。多少の差異はあるにせよ、このアルカレディア大陸に於いて人間族は酷く好戦的な種族と言わざるを得ない。


 雷韋の中に、早く取り戻さなければならないと、そんな声まで上がっていた。

 汚泥の中に放り込まれた屈辱感よりも、尚それは強い思いだった。


 取り敢えず彼はその場に座り込み、考え始めた。半身が既に汚れてしまったせいで、その場にどっかりと腰を下ろす事も最早いとわなかった。


 雷韋が逃げ出す為にはまず、彼を束縛しているこの封珠縛を解かなければならない。しかしここには年代物の、半ば腐ったような、それでいて頑健な鉄柵しかなく、それでは縄を切るどころか封珠縛を外せる道具にすらならない。


 こういう時は、焦る事が一番の敵だという事を雷韋は心得ていた。腐ったような空気であっても、それを胸一杯に吸い込んで心の安定を図る。どんな場合であっても切り抜ける手札はある筈だ。時としてそれは即答と言う形にはならないが、時が来ればそれは自ずと姿を見せる。


 それが手札というものなのだと、彼は養父である盗賊組織ギルドの首領に教えられていた。


          **********


 陸王りくおうは宿で部屋を取り、寝台の足下に背に負っていた少ない荷物を放って、腰から刀を抜いてから寝台に横になった。


 ここはローラン領だ。本来、陸王が目指していた場所。


 昨日、雷韋らいさえ現れなければ、早朝には乗合馬車でなんの苦労もなく到着していた。だと言うのになんの因果か昨日から歩き通しで、さっき辿り着いたばかりだった。太陽の位置からして正午過ぎだろう。


 徹夜で歩き通しでくたくただ。このまま眠ってしまいたいと思う一方で、まだ外套がいとうさえ脱いでいない事が頭を過ぎる。


 それに何より不愉快だった。


 このまま大人しく眠れるほど陸王は冷静ではない。雷韋の事を思うと向かっ腹が立つ。

 忘れてしまえと思うも、あの少年が気になってしょうがなかった。


 何故か頭から離れないのだ。


 この領地まで来る道すがら、何度も背後を振り返った。

 もしかして、ついてきてやしないかと。


 けれどそんな事はなかった。雷韋は雷韋で、今頃どこかの領地にいるのだろう。


 昨夜現れた者達に捕まっていなければ。


 陸王はそこで、大きな溜息をついた。

 こんな事を延々考える自分が嫌だったのだ。嫌でもあり、呆れてもいた。


 雷韋が捕まっていようと何をしようと、自分には関係はない。逆に、捕まっていてくれればとも思う。


 少し痛い目に遭えばいいと思ったのだ。


 それにああいう少年は、図太い上にしぶとい。多少何かあったところで、へこたれるような人物ではないとこれまでの経験から知っていた。

 陸王はもう一度溜息を吐き出してから起き上がった。そして外套を乱暴に脱いで、寝台の脇に立てかけておいた刀を手に取る。


 刀の手入れでもしようと、寝台の足下に放った荷物を引き寄せた。

 心が乱れている時は刀の手入れが一番だ。この作業は、いつだって陸王を心地のよい無心に導いてくれる。


 そうして刀の手入れが終わったら、食事をして少し休もうと思った。

 ついでに、本当に雷韋の事など忘れてしまおうとも思う。


 悪い事をすれば必ずばちが当たるものだと考えて。そうでなければやってられない。こっちは金をられたのだから。

 陸王は大きな溜息をついて、荷物の中から手入れの道具を取り出していった。

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