第38話 金のオルフェン

 中庭の小さな泉の傍で、冥界の神がフィドルを弾いている。

 フィドルからこんな綺麗な音が引き出せるとは知らなかった。

 弦と弓のれる音もしない。雑味のない、純粋な音色。


(この人が奏でる音色は、どうしてこんなに切ないのだろう)


 ふと弓が止まる。 


「少しは落ち着かれましたか、姫君」


 邪魔をしないよう隠れていたつもりなのに、気づかれてしまった。


(もっと聴いていたかったのに) 


 真っ白なドレスに身を包んだ黄金の髪の娘は、軽やかな足取りで緑に埋もれる敷石を踏んで歩み寄った。

 漆黒を身にまとう神の御前で、しとやかにお辞儀をする。


「陛下におかれましては、私のわがままからなる急な来訪をお受け下り、ありがとうございます。また、先ほどはたいそうお見苦しい姿をお目に掛けましたこと、せつにお詫び申し上げます」


 完璧で、しかしよそよそしい仕草と口調に、ドウンがいぶかしげな顔をした。


「どうかしましたか?」

「どうか、とは。何がでしょう」

「いえ、人というのは不思議ですね。今のあなたは近寄りがたい感じがしますよ。そのドレスのせいでしょうか」


 オルフェンが身に着けている白いドレスは、エリウからの贈り物である。

 真珠のような光沢こうたくのある布は軽くて柔らかく、身じろぎするたびにふわりと揺れる妖精のドレス。

 美しく、着心地が良く、しかも動きやすい。

 デザインも風変わりだった。

 袖は中ほどからぱっくりと割れて、手を動かすたびにしなやかな腕があらわになる。歩くと左の腰骨のあたりで結んだ金色の帯が流れ、たなびくドレスの裾から健康な肌の色がちらちらとのぞく。

 王宮の女官たちが見たら、ショールやらマントやらを持って飛んで来そうだ。

 誰がどう仕立てたものか。不思議なことに、このドレスには、どこにも縫い目が無かった。


「ふうん……」


 ドウンは顎に手をあて、値踏みをするかのような目で王女を眺めた。

 その顔にふと意地悪な笑みが浮かぶ。ドウンはゆっくりと身をかがめると、乙女の愛らしい耳に唇を寄せて囁いた。


「私があなたに贈るなら――」

 口調が変わる。


「そう、もっと違うものにしたいな。どうも私の好みに合わない」


 男の手が頭上に伸ばされるのを感じて、オルフェンはびくっと身をすくめた。

 指先は彼女の髪をかすめ、すぐに離れる。


「この髪飾りも、ね」


 その指に、一匹の白い蝶が捕らわれていた。


「不法侵入者かな。どうしようねえ」


 蝶は羽をつままれたまま、ぴくりとも動かない。ドウンは蝶を目の高さに持ち上げて、からかうような声で物騒なことを言った。


「握り潰してしまおうか」

「だめ!」


 オルフェンが勢いよく跳ね上がり、ドウンの腕に飛びついた。


「そんな残酷なことしないで!」


 ぎゅうっと腕にしがみつく少女を見下ろし、冥界の王はほがらかな笑い声を上げた。


「ほんの冗談ですよ。この子を殺したら、私がエリウに殺される」


 ぱっとドウンが指を離す。解放された蝶は何事もなかったかのように羽ばたいて、少し離れたところで少女の姿に変わった。


「非礼をお許しください」


 尼僧姿のイレーネは、平然と微笑んで軽く頭を下げた。


「けれど、私にはここにいる資格がありますよ。死者の魂ですから」

「そうだね。あなたはここで迷っている魂たちとは全然違うけれど。でも歓迎するよ、大陸の聖女どの。憂鬱な影どもには飽き飽きしているんだ」


 憂鬱な影、と聞いてオルフェンはあたりを見回した。


「さすがに、城の中庭にはいないかな」


 くつくつとドウンが笑う。


「亡者たちは、この城には近づいてこない。ずうっと飽きもせず、何もない荒れ地をうろつき回っているよ」


 無関心の中に、軽蔑の色が混じっている。

 オルフェンの眉が曇った。


「私の領土が次の世への単なる通り道だということは、知っているだろう。健全な魂は向かうべき場所を知っている。ゆえにここを素通りしてゆく。ただ、生きていたころの世に強い思いを残す者たちだけが『安らぎの野』からの呼び声も聞かず、かといって元の世界にも戻れずに彷徨さまよっている」

「それは、どうにかしてあげられないの?」


 ドウンが目を伏せて、ゆるやかに首を横に振る。


「無理だね」


 その声はひどく優しげで、しかし取り付く島もなかった。


「彼らは自分の心の声だけを聞いている。外の景色は見たかい?」

「窓から、少しだけ」

「そう、それじゃ分からなかったかな。あれは彼らの心そのものだ。前の世からの思いにとらわれ、それが報われないことに絶望して、神々や運命を呪っている。この地も昔はここまでひどくはなかった。導きの声を拒む者たちが、この世界をこのような姿に変えてしまった。情けをかける気にもなれない」

「でも、それなら」


 オルフェンは、ぎゅうっと両手を握りしめた。


「彼らがあなたの領土を荒らしているのなら、よけいに何とかしないといけないわ」


 爪が柔らかな手のひらに食い込む。その激しさに、ドウンは驚いたように目をしばたたかせた。紫の目が、オルフェンの顔を覗き込む。


「なぜあなたが、そんなことを気にするの? 私の領地がどうなろうと、あなたには関係ないだろう。ああ、それとも影の方を心配しているのかな。あの中に身内がいるかもしれないからね」

「そうじゃない、そうじゃなくて!」


 伝えることのできないもどかしさに、オルフェンの語気が荒くなった。が、冥界の王は楽しげだった。


「ようやく、調子が戻りましたか」


 ぽん、と軽く金の頭に手をのせる。


「そうやって向きになっている方が、ずっとあなたらしい。チャーミングですよ。金のオルフェン」

「あっ」


 すっかりカエル・モリカの、砦の城と同じ調子に戻っていた。


(わたしったら、なんて無作法な)

 オルフェンの頬がかっと熱くなった。


「そうだ。亡者どもなどより、もう少し面白いものをお見せしましょう。気に入っていただけるかどうかは分かりませんが」


 ドウンは中庭の隅に向けて、高く指笛を吹き鳴らした。

 その音を合図に、もっそりと何かが立ち上がった。とぼとぼと、力ない足取りでこちらに近づいてくる。


(オルフェンさま、用心なさってください)


 イレーネがそっと耳打ちをする。オルフェンは動くものに目を向けたまま頷いた。

 いきなりこちらに襲い掛かってくるような気配はない。目をらしてじっと見つめるうち、おぼろけだった輪郭が次第にはっきりとしてきた。


(ヤギ、かしら)


 それは、二匹いた。


「さあ、お前たち。祝福されしダヌの娘、金の王女にご挨拶なさい」


 ドウンの足元にぐったりと座り込んでうなだれた冥界の獣たちは、オルフェンが今までに見たことのない姿をしていた。

 大きさはヤギと同じくらいだが、犬にも見えたし、豚にも見えた。

 近くで見ると、二匹の体の色や模様、耳の形などには少しずつ違いがある。

 しかしどちらも同じほど痩せこけて、みすぼらしい。

 ひどく年老いているのか、やまいのせいなのか。黒っぽい体毛はまだらに抜け落ち、皮膚病にかかったキツネを思わせた。


(冥界の獣、精霊のようなものなのかしら)


 地に投げ出した前足に顎を乗せ、獣たちは憐れみを乞うような目でオルフェンを見上げる。

 怖くはないが、どう接してよいのか分からない。

 扱いに困って、オルフェンはかたわらのドウンを振り仰いだ。


「この子たちは?」

「女神ダヌの一族と戦い、敗れた者たちです。かつて英雄と呼ばれし者の成れの果てですよ」


 オルフェンが息をのむ。見開かれた青い瞳が、さらに大きくなった。


「あなたもご存じでしょう。にし世に、ダナン全土で繰り広げられた神々のいくさのことを。カエル・モリカ、ヒースの野の伝説を。敗れた者たちの多くは力を失って忘れ去られ、消えてゆきました。私とこの者たちは、数少ない生き残りなのです」


 冥界の王は自嘲じちょうぎみに笑う。


「戦の後、私は――、なぜか私だけが消えずに残されました。そして与えられた居場所がここ、生者の国と日没の向こうの国の狭間はざまだったのです」


 生者の国の王女は身じろぎもせず、死者の国の王の語りに耳を傾けた。


「安らぎの国への旅路を見いだせぬ魂が宿る国。その『宿屋の主人』というお役目を頂戴しました。いさぎよく消えることのできなかった敗残者と、生の国に未練を残すみじめな死者の魂たち。皮肉なものですね。ある意味、これ以上似合いの取り合わせはないのかもしれません。私がどうしてもあれらを好きになれないのは、同族どうぞく嫌悪けんおというものなのでしょう」

「そんなこと……」


 ドウンの瞳の奥に、また、面白がるような光が戻る。


「お優しい姫君、少しは私どもを哀れと思し召しですか? ならば、束の間の夢ではありますが、ここにいらっしゃる間、この獣たちをあなたの従者としてやってください。そうして願わくば、彷徨さまよう灰色の影たちにも慈悲深き救いの手を」


 冥界の神の苦しみも、この獣たちの思いも、自分には理解することなどできない。

 はなから期待などされていないのも分かっている。自分は何の力も持たない、生身なまみの人間の小娘に過ぎないのだから。

 ドウンが言うように、ここに住まうものたちにとって、オルフェンの来訪はサウィンの夜が見せる束の間の儚い夢だ。


(それでも、何かはしなくちゃ)


 自分にできることは何だろう。

 オルフェンは、二匹の英雄たちの前にしゃがみ込んだ。


「わたしを助けてくれる?」


 獣たちの喉から、弱々しげな、肯定とも取れる音が漏れた。


「あなたたちを、何て呼べばいいのかしら?」


 獣からの返答はない。代わりにドウンが答えた。


「何とでも、お好きなように。元の名はとうに失われました」


 冥界の王は腕を組み、楽しそうに成り行きを見守っている。


「それじゃ、地上世界にいる騎士と同じ名で呼んでもいい? わたしが知る限り、とても頼りになる人たちなの」


 獣たちがちらりとドウンの方を見た。

 

「姫君のよろしいように」

 

 ドウンが頷く。

 冥界の神の許しを得たオルフェンは、そうっと両手を獣たちの前に差し出した。


「それじゃね、真っ黒なあなたはキアラン。赤い色が混じっているあなたはフラン。そう呼ぶことにするわ」


 そばで聞いていたイレーネは思わず噴き出した。視界の端でドウンが硬直するのが見えた。


  ――キアラン。

  ――フラン。


 獣たちは「くうん」と甘えた声を出し、差し伸べられた手のひらに鼻面はなづらをこすりつけた。彼らの愛情と忠誠の表現を、王女さまは「汚い」と払いのけることなく受け入れる。


「気に入ってくれたのかしら。嬉しいわ。どうぞよろしくね、キアラン、フラン」


 ドウンは呆気にとられ、目を丸くしたまま、木にでもなったかのように突っ立っている。

 イレーネはまだ、こみ上げる笑いを押さえることができない。。


「一本取られましたね、ドウンさま」

「あ、ああ。まったく、驚かせてくれる。とんでもない王女さまだ」


 オルフェンはひとしきり新しい従者の毛皮をいてやると、元気よく立ち上がった。

 毛まみれになったドレスを、毛まみれの手でつまみ、ドウンに向かって頭を下げる。


「それでは、陛下。わたしはこれから亡者の様子を見て参りますね」

「あ、ああ。お気をつけて……」


 冥界の王は、そう答えるのが精一杯だった。


「キアラン、フラン、ついてらっしゃい」


 すっかり毒気を抜かれたドウンをよそに、少し活力を取り戻したキアランとフランを連れて、オルフェンは子鹿のように軽やかさで中庭から出て行った。


「お待ちください、殿下。私も参ります」


 イレーネが後を追い、あとにはぽつんとドウンだけが残された。

 途方に暮れた顔をして、白い薔薇を見下ろす。


「あなたの血族はどうなっているんですか、エレイン」


 白い薔薇は何も言わず、そっと頭を揺らした。

 

 * * *


 城が遠くなる。埃っぽい乾いた空気が体を包む。

 ようやくオルフェンは歩をゆるめた。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。

 口の中がカラカラだ。今になって身体が震えてきた。


「驚きました」


 小走りに追いついてきたイレーネが、息を弾ませて言う。


「あんなに堂々と神と渡り合う人間を、初めて見ました。さすがは王女さま、ですね」


 堂々と? そんなことはない。


「怖かったわ」


 声がかすれた。


「でも、怖いって認めてしまったら、心がくじけて、動けなくなるもの。虚勢きょせいを張ってでも、平気なふりをしなきゃいけないときもあるのよ」


 自分に言い聞かせるように、一語一語、みしめながら言葉を吐き出す。オルフェンの足元で、二匹の獣が気遣うように、くうんと鼻を鳴らして体をすり寄せた。


「それで、これからどうなさるのですか?」


 こちらの方が楽だから、と蝶の姿に戻ったイレーネがオルフェンの右肩に止まる。


「ここで迷っている方々とお話しをしてみる」

「亡者と、お話しですか。できるのでしょうか」

「試してみる価値はあると思う。どのくらい前かは知らないけれど、みんなダナンに生きていた人たちで、わたしはダナンの王女なのだもの」


 きっと前を見つめて、オルフェンは頷いた。


「やってみる。片っ端から捕まえて話しかける。次の世への道を見つけてもらう」


 と、さっそくふらふらと揺れる影を見つけ、駆け出す。

 影の動きはのろい。オルフェンと二匹の従者たちは、やすやすとその行く手に回り込んだ。


「すみません。少しお時間をいただけないかしら」


 むき出しになったオルフェンの腕にうっすらと鳥肌が立っているのに、イレーネは気づいた。 


(これがダヌの娘。ダナンの王女、金のオルフェン)


 そうして、改めて彼女の勇気に敬服した。

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