第39話 夜が明ける前に

 ――また、あのオバケのところに行っても知らないよ!


 シャトンの忠告は予言となって的中した。

 引きが強いのか弱いのか。アリルは今、白いもやの中で、白い娘と並んで座っている。目を楽しませるものは何もない。濃く淡く立ちこめる靄を眺めながら、ぼんやりと娘の話に耳を傾けていた。


(どうして、こんなことに……) 

 抱え込んだ膝に顔をうずめる。


 娘の頭は悲しみに占拠せんきょされていた。

 断片的な出来事を、思いつくまま泣きじゃくりながら語るので、初めのうちは何の話をしているのかさっぱり理解できなかった。

 気が進まないながらも、なだめて、何度も聞き返して、ようやく相手が失った恋を嘆いているのだと分かった。

 しかし、分かったところでどうしようもない。アリルにとっては一番苦手な分野である。どこかで聞いたような、通り一遍の慰めを口にするのが精一杯だった。


「それは、きっと相手の器が小さかったんですよ」

「ウツワ?」


 涙に濡れた顔で、白い娘はきょとんとアリルを見上げた。幼い表情だった。

 アリルは言葉を探した。


「ええっと。つまり、あなたの愛を全部受け入れるだけの心の広さがなかった、ってことです」


 娘はしばらく考え込んで、小さな声でまた「ウツワ」と呟いた。


「初めて会ったとき、あの人は困っていたの。生まれた家を出て、新しく自分の居場所を見つけなきゃいけないのに、どうしたらいいのか分からないって。身を立てるにも、取り柄がないし、知らない土地でやっていく自信もない、って」

 アリルは黙ったまま頷いた。


「どんな取り柄があったら身が立てられるの、って聞いたら、手っ取り早いのは剣とか弓だって。今の世はどこもかしこも戦さだらけだから、それが得意だったら、どこかの領主に雇ってもらえるって。だから、お手伝いしたの」

「お手伝い、ですか……」


 何をどうしたというのだろう。こんな儚げな娘に荒事あらごとの手伝いができるとは、到底とうてい思えない。


「そうしたら、ミースの王さまの目に留まって、身を立てることができたの」


 ざわ、とアリルの胸の奥で風がざわめく。


「よかったですね」


 奇妙な違和感を覚えつつそう返すと、娘の顔が輝いた。


「そうなの! あの人も、とっても喜んでくれたわ」

  

 ―――ミースの王さま。

 

 ウィングロットやアンセルスなど、領主の呼び名は正式には「公」である。ただし、領民たちが昔ながらの習慣のままに「うちの王さま」と呼ぶことはよくあることだ。

 しかし、ミースを本拠地とするアリルの父を「ミースの王」と呼ぶことはない。すでに「ダナンの王」という呼称は定着している。


(この子は僕よりずっと年上なのか)


 人間の生き霊だったとしたら、本体はゆうに百歳は超えているだろう。


(まあ、生きている人間だとは思わなかったけれど)


 膝の上で頬杖ほおづえをつき、小さく溜め息をつく。そのまま少し首をかしげて、隣りに座る娘をじっくりと観察した。

 この娘が何ものであれ、彼女が語る恋人との昔話が「ミースの王さま」に関わることならば、アリルとも関係がありそうだ。再びここに来てしまったことにも意味があるのかもしれない。


「それで、あたしも嬉しくなって。もっと頑張ろうって思った。王さまや他の人たちに誉められるようにしてあげたいなって」


 あふれていた涙は消えて、淡い水色の瞳がきらきらとしている。対照的にアリルの心には暗雲が立ちこめてきた。


「誰もあの人に勝てない。傷一つ負わせることもできない。イニス・ダナエで一番勇敢で強いのは彼だ、って」


 彼女の言葉ひとつひとつが、アリルの心に刺さる。

 胸の中のざわめきが大きくなってゆく。


 ―――誰も勝てない。

 ―――傷も負わない。

 ―――イニス・ダナエ最強の。


(彼女は、誰のことを言っているんだ?)

 じわり、と嫌な汗がにじむ。

 

 オルフェンがどうなったのか。今どこにいるのか。

 そのことだけが心配で、シャトンの制止を振り切って砦の城に戻ろうとした。


(結局、またここに来てしまった訳だけど)


 オルフェンの動向が分からなくなったのは、『不死の乙女』を狙った大がかりな魔法が使われて、その場に彼女が立ち会ってしまったからである。


 その魔法を使ったのは誰だった?


(いや、まさか。そんなことは―――)


 やけに心臓の鼓動がうるさい。もともと白い視界がさらにぼやける。

 娘の声が遠くなったり近くなったり。アリルは軽い目眩めまいを覚え、頭を抱え込んだ。

 娘の潤んだ瞳は過去だけを見つめている。アリルの混乱になど気づきもしない。


「王さまはとても親切にしてくれた。だけど、あっという間に死んじゃった。あの人は悲しんで、ミースを出て行こうとした。でも周りの人が放してくれなくて。女神のご加護がある者をよその国に渡せないって、次の女王さまのお婿さんに決めてしまったの」

 

 ―――つながった。

 

 アリルは目を閉じ、天を仰いで深い息を吐いた。


「あの人は人間だから、人間の女の人と結婚するのは自然なことだし。寂しかったけれど仕方ない。あの人はあたしのことを好きって言ってくれた。お仕えする相手が王さまから女王さまに代わっただけで、きっと何も変わらないって信じてた。でも、あの人は変わってしまった。王さまになって、女王さまとの間に子供が生まれて……」

 熱っぽさが消えて、娘がまたしんみりとうつむく。

 話がぐるっと回って、また元のところに戻りそうな気配がした。


「あの、ひとつうかがってもいいですか?」

 勇をして、アリルは話をさえぎった。


「なあに?」

「その、あなたの恋人のお名前を」

「あら、まだ言ってなかったかしら」


 驚いたように大きな目を丸くして、娘は恥ずかしそうに白い頬を赤らめた。

 唇が動く。アリルの耳はその声を聞き取ることができなかった。が、目がその動きを読み取った。

 

 ―――クネド。


 * * *


 エリウの丘の聖域からは、地下にある『妖精シイの国』に通じる道があるという。

 そして『妖精の国』は『死者の国』につながっているという。

 再びエリウにまみえたフランは、そのルートから冥界を目指した。


 地上と地下。

 あの世とこの世。


 今夜ならば、サウィンの夜なら、異界への扉が全て開いている。並の生者でも「うっかりと」別の世界へと踏み込むことができる。

 しかし、フランの歩みはさっぱりはかどっていなかった。

 往年の魔法使いマクドゥーンならば、道行きはこれほど困難なものではなかったはずだ。


「くそっ、前に進めやしねえ」


 一歩足を踏み入れると、そこには地上世界の戯画ぎがのような光景が広がっていた。

 茅葺かやぶきに白壁の小さな家々がごちゃごちゃと立ち並んでいる。みな同じようなデザインなのに妙にちぐはぐな感じがするのは、それぞれが好き勝手な方を向いて建てられているからだ。

 人間の家と同じく、戸口にはランタンが飾られている。ただしそのランタンはかぶではなく、大小さまざまな動物の頭蓋骨ずがいこつで作られていた。

 鳥、リス、熊、トカゲ、人間。

 ランタンの中で鬼火が揺れる。

 魚の骨一本一本に蝋燭ろうそくを刺した飾りが吊るされているのを見て、フランはうなった。何をどう考えて作ったのか理解に苦しむが、大層な労作であることは認めざるを得ない。


 狭いながらも目抜き通りらしきものがあって、広場をした場所がある。

 そこに集まった姿形もさまざまな妖精の国の住民たちが、ドラムの音に合わせて、てんでばらばらな踊りを踊り、歌い、奇声を上げている。おもむきは多少異なれど、サウィンのどんちゃん騒ぎはどこも変わらない。

 勢いに任せ、これからエリウの町にり出そうとするものたちもいて、流れに逆らって進むのはひと苦労だった。

 人間よりもずっと寿命の長いものたちの中には、昔のフランを見知るものがいた。そのものたちは、彼の姿を認めると気安く声をかけてくる。


「よおう、マクドゥーン」

「珍しいじゃねえか」

「松葉の酒があるぜ、一杯やってけよ」


 袖やマントの裾を引っ張られ、いちいち誘いを断るのに骨が折れた。

 中には夏の羽虫のようにか弱いものもいるから、力で押しのけるのもためらわれる。このままでは手がかりを失ってしまいそうだった。


  ―― 白い薔薇

 

 エリウが教えてくれたのはそれだけだ。

 冥界には命の輝きを宿す薔薇が咲いている。その香気こうきはエリウの丘まで届く。香りをたどれば薔薇に行き着く。

 

 今、フランの〈鼻〉はかすかな薔薇の香りをとらえている。エリウの聖域で純粋なその香りを嗅ぎ覚え、慎重に追ってきた。

 しかし異界はさまざまな臭いに満ちている。一瞬でも気を抜けば、香気がかき消されてしまいそうだ。

 フランの腰丈ほどしかない小妖精が三人、踏み台に乗って大きな釜をかき回している。あの大釜は一体何を煮込んでいるのか、強烈な臭いがする。中身についてはあまり追及しない方がよさそうだった。

 ただでさえ、さまざまな力が干渉し合って空間がひずんでいるのだ。

 船酔いのように頭がくらくらするところに、この悪臭は耐え難かった。

 しかし集中力が途切れたら、それで終わりだ。

 一刻も早くここを通り抜けなくては、と気ばかりが焦る。


「困っているね、マクドゥーン」


 頭の上で人間めいた声がした。


「話は聞いた。お駄賃だちんをくれるんなら助けてやってもいいよ。ドウンの国まで案内してやろうか」


 雑音を耳に入れないように努めていたが、これは無視することができなかった。


「本当か、カラスのおばば」

「わしらは人間と違って、嘘はつかんよ」


 一羽のワタリガラスが、ふんわりとフランの頭に止まった。

 ワタリガラスというしゅは他のカラスたちよりも体が大きい。頭上のカラスは、そんなワタリガラスの中でもさらに体躯たいくが一回りほど大きかった。それが頭の上で座っているのに、まるで重さを感じない。どのみち、正体は本物のカラスではあるまい。


「どうだい、急ぐんだろう? こんなところで足止めを食ってちゃ、いくら秋の夜長とはいえ、夜明けまでに帰って来れやしないよ」

「それは有り難い申し出だ。助けてやる代わりにお前の首を寄越せ、とか言い出すんじゃなければの話だがな」

「はは、懐かしいねえ。昔は人間どもが先を争って御馳走ごちそうしてくれたもんだ。それも捨てがたいけれど、道案内程度でそんな大層なものは要求しないよ」


 カカっと笑って、カラスはくるりと首をかしげた。


「そうだねえ、わしらは光り物が好きだからさ。ちっちゃいのでいいから、ひとつおくれよ」

「光り物、って。俺がそんなものを持っているように見えるか?」


 自分でも全く期待せずに、フランは自分が着ているものをごそごそと探った。上からカラスが興味津々、こちらは期待に目を輝かせながら覗き込む。


「ん?」


 上着の内ポケットに手応えがあった。冷たくて小さくて、丸いもの。


「何かあったのかい?」


 ポケットの中から出てきたのは、銀色のメダルだった。


(ここで出てくるのか)

 フランは呆れた。


 危難から救ってくれるお守り。

 以前オルフェンが林檎のパイに隠した占いのチャーム。あの時はしょうもない遊びだと思ったものだが。


(占いも馬鹿にできねえな)

 心の中でそう呟き、カラスに見せる。


「こんなものでいいのか?」

「いいねえ、いいねえ。上等だよ。おっと、もちろん前払いで頼むよ」


 フランが親指でピンとメダルを弾く。跳ね上げられ、くるくると回るメダルをカラスは器用にくちばしで挟んで受け止めた。


「ついておいで」


 二、三度力強く羽ばたいて、カラスは大きな翼を広げて空へと浮かび上がった。かと思うと、ひゅうっと降下しながら、ガアガアとがなり立てた。


「どいたどいた。マクドゥーンさまがお通りだよ!」


 乱痴気らんちき騒ぎの喧噪けんそうの中に、その声ははっきりと響き渡った。


「この鋭いくちばしで土手っ腹に穴を開けられたくなかったら、そこをどきな!」


 風圧で小さなものたちが吹き飛ばされる。カラスは低空飛行のまま、お構いなしに妖精たちの群れに突っ込んでゆく。祭りを楽しんでいたものたちが、悲鳴を上げてわらわらと逃げ惑った。

 フランの前に道が開ける。


「なんというか、すまん!」


 キイキイ怒る小さなものたちに謝りながら、フランはカラスの後を追った。

 カラスは迷いなくひとつの方角をさして飛んで行く。

 その姿を見失わないよう、フランは走る。


 ――どうか間に合ってくれ!


 ただ、それだけを祈りながら。


 * * *


 秋の終わりの日暮れは早く、夜明けは遅い。

 しかし、決して忘れてはいけない。

 どれだけ夜が長くても、必ず朝はやって来る。

 

 サウィンの夢は一夜限り。

 東の地平線から太陽が顔を覗かせるとき、

 すべての扉は閉ざされる。


 異界に踏み込み、夜を明かせば

 二度と元の世界には帰れない。

 同じ場所に帰れても、同じ時には帰れない。

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