第37話 亡者の国

 サウィンの夜に行方知れずになる者は多い。

 どこそこの村では若い娘が、そちらの町では生まれたての赤ん坊が。

 お年寄りが、子どもたちが―――とあちこちで騒ぎが起こる。

 ほとんどは駆け落ちだの、畑のうねの間で眠りこけていただの。物騒なところでは人攫ひとさらいだのといった人為じんい的なものばかりである。

 だがまれに『神隠し』としか言いようのない事件もある。


(神隠し……)


 まさに、今のオルフェンの状況を言い表すのにぴったりな言葉だ。

 自ら望んだこととはいえ、神の手によって、生者の領域から遠く離れた世界に来てしまったのだから。

 後悔はしていない。

 あの場に一人で取り残されるのは怖かった。地面を走る白いひもが描き出した魔法の円陣えんじんにエレインが捕えられ、光に包まれて消えたとき、彼女の世界は変わった。

 人智を超えるものは確かに存在する。ただ自分が知らなかっただけだ。


(だって、今まで魔法使いなんて見たことなかったし)


 オルフェンが生まれたとき、宮廷には占術師はいても魔法使いはいなかった。妖精の方は、目撃談は聞いたことはあるけれど、自分とはまるで関わりのない存在だった。

 けれど、彼女がこの世に対して抱いていた認識は、たった一夜で見事にひっくり返されてしまった。

 もしかしたら、自分が見ていないところでは、世界は全く別の顔をしているのかもしれない。

 カエル・モリカの城も別の姿に変わっているかもしれない。

 見た目はいつも通りでも、家令も侍女たちもみんな入れ替わっていて、オルフェンが背を向けたら、その後ろで「うまくだましてやった」と魔物たちが舌を出しているかもしれない。

 そんな想像に取りつかれてしまった。

 このままひとり帰れば、祭りの余韻よいんが消えた後も、きっとこの疑心は残り続ける。

 だから、目の前に確実に存在している冥界の王にすがりついた。


「まさか、死者の国にまで来ることになるとは思わなかったけれど」


 ふと口からこぼれた呟きを聞く者はいない。オルフェンはぽつんと一人、小さな部屋に座っている。

 そこは、どことなくファリアスの、王宮の控えの間に似ていた。


(このお城に、お客さまが訪ねて来るなんてことがあるのかしら)


 窓から射しこむ暗いオレンジ色の光が、膝に置いたオルフェンの両手に落ちている。

 ふう、と溜め息をつくのと同じタイミングで、静かにドアがノックされた。


「姫君、よろしいでしょうか」


 ドアの向こうから若い娘の声がした。


「隣の部屋に、着替えとお湯の用意をいたしました。どうぞお越しください」

「分かりました。参ります」


 ドウンの他には誰もいないように見えたが、この城にも住むものがいたらしい。


(そうよね。王さまが一人で、ってわけはないもの。当然よね)


 明るい声音こわねがこの地には不釣り合いな気もしたが、オルフェンは素直に隣の部屋へと足を向けた。


 青い絨毯じゅうたんの真ん中にぽつんと洗面台が置かれている。金色の猫脚がついた台の上で、白い器からほこほこと湯気が立ち上っていた。


「初めてお目にかかります。イレーネと申します」


 洗面台のかたわらには尼僧姿の娘が立っていて、オルフェンを見ると人懐こい笑顔を向けた。


「こちらこそよろしく。あなたも聖女さまと同じ名前なのね」


 アンセルス、エリウの丘に建つ聖エレイン大聖堂は、大陸の聖女を奉ずる神殿だ。『イレーネ』という名は大陸のもの。文字に記したものを発音すると、ダナンでは『エレイン』になる。


「はい。本当は聖女などではないのですが、本人です」


 にっこりと笑う頬に、可愛らしいえくぼができた。


(本人?)


 言葉を失い、目を丸くしたまま突っ立っているオルフェンに、イレーネが石鹸と布を差し出した。ふわっと薔薇の香りがした。


「このたびは、大変な目にお遭いになられましたね。分からないことばかりで、さぞもどかしい思いをなさったことでしょう。私が知っていることは全て、順を追って隠さずお話しいたしますから、まずはお湯をお使いください」


 窓から見える大地はパサパサと赤茶あかちゃけて、土と空が混じり合ったような色のもやが地平線を隠している。その中に、痩せた、ひょろひょろと背ばかり高い木々のシルエットが黒く浮き上がっていた。

 水の気配はない。

 このお湯がどれほど貴重なものかは、オルフェンにも分かる。洗面器に手を差し入れるのがためらわれた。

 イレーネはその思いを察したらしく、


「こちらにご用意しましたお支度したくは、エリウさまからのお届けものです」

 

 オルフェンが脱いだ白いマントにブラシをかけながら、さりげなく言い添える。


「エリウ、さま?」

「はい。エリウさまは若草の姫の守護を務めておいでです」

「若草の姫……」


 死後にイニス・ダナエに渡ってきた大陸の乙女。彼女がダナンの人間と交流があったとは思えない。ならば、彼女の言う『エリウさま』は、神殿のある丘の妖精女王でしかあり得ない。

 そして若草の姫。若草の乙女。これらは大陸の聖女を指す言葉ではない。

 癒やしの手を持つダナンの王女、エレインの呼び名だ。


「エリウさまはオルフェンさまにたいそう感謝なさっておいでです。これは王女殿下のご厚意に対するささやかなお礼だそうですよ。だから、どうぞご遠慮はなさらないでくださいね」


 妖精女王に感謝されるようなことをした覚えはない。

 守護者としての感謝、であるならば、エレインが若草の乙女その人であるということか。


 冥界の神に次いで、伝説の聖女と妖精女王のお出ましだ。まさか、今生で自分の歩む道と遠い昔のおとぎ話が交差することになろうとは。夢にも思わなかった。

 くらり、と目の前の景色がかしぐ。

 

(わたしの人生は、これからどうなってしまうのかしら)


 ふと、女神に愛された王子と呼ばれる兄の、途方に暮れたような顔がオルフェンの脳裏をよぎった。

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