第32話 異界へ
柳の下に大量のどんぐりが散らばっている。沼の魔女の置き土産だ。
「なるほど」
キアランは身をかがめて、その中に紛れていた赤いリボンを取り上げた。
フランが作った
役目を果たし終え、守護の力はもう残り香すら感じられない。
彼女が白い光の円筒に包まれて姿を消した後、フランの行動には迷いがなかった。
シャトンに託した弟子への伝言は、
――森の庵で待機。俺からの連絡を待て。
ただこれだけ。
うろたえる様子もなかった。これから自分の為すべき事が分かっていた、ということだ。このような事態を想定して既に手は打ってあったのかもしれない。
(ひとまずは、マクドゥーンの勝ち、ということか)
ふたりの魔力がぶつかるようなことになれば、もしかして――と期待していたのだが。さすがにそれは甘かったようだ。
自分の欲しいものは、また手の届かぬところに行ってしまった。
ならば、もうこの地に用はない。仮の姿を脱ぎ捨て、本来あるべき場所に戻る
キアランは踵を返し、その場を立ち去ろうとした。
「……待って」
と、背後からマントの裾を掴まれた。振り返ると、顔色を失った少女が木の実の中に座り込んでいる。
(ああ、まだこの娘が残っていたか)
確かに美しいが、それ以外は特にどうということもない人間の娘。相手をするのも面倒だが、仕方ない。
「どうしました?」
キアランは目を細め、柔らかな声で尋ねた。
金の娘は真っ直ぐにそのアメジストの目を見返した。
オルフェンは何度か口をぱくぱくさせて、ようやく声を絞り出した。
「わたしも、わたしも連れて行って」
思いがけない言葉に、キアランは目を
「連れて行く、とは。どこへですか?」
「あなたも、これからどこかへ行くんでしょう。シャトンが特別な猫だってことは知っていたけれど、聖騎士さまもただの人間じゃなかったのね。魔法使い、しかもかなり強い」
オルフェンは
それで? とキアランは首をかしげて続きを待った。
「そうよ。兄さまは『師匠』と呼んでいた。あの方は先代の森の隠者なのね。兄さまが使っている城と森の庵をつなぐ通路は、あの方が作ったもの。そんなことができる魔法使いなんて、今まで会ったことがない。王宮にはいないし、わたしは知らない。そうして、あなた」
「私、ですか」
「ええ。キアラン、あなたは沼の魔女を知っている。お互いに面識がある。そんな風に見えたわ。そんなあなたが、シャトンの声が聞けて、聖騎士さまとも昔からの友人みたいに親しげなあなたが。あなただけが、普通の人間だなんて。あり得ない」
「あなたが何者かは知らないけれど、どうか連れて行って。こんなところに置いていかないで。わたしを一人にしないでよ!」
マントを握る手が震えているのに、キアランは気づいた。
そうして思い出した。彼女だけが何ひとつ知らなかったことを。
フランが、クネドの治世にその名を
エレインが『不死の乙女』その人であること。
そして、キアランが冥界の王、ドウンであること。
(だからどうだ、ということもないのだけれど)
舌打ちしたい気分だった。
こんなつまらぬ人間の娘に、いつまでも構ってはいられない。
一瞬、さまざまな考えがドウンの頭の中を廻り、彼は舌打ちの代わりにひとつ溜め息をつくと、身をかがめて娘の前に顔を近づけた。
唇をきゅっと引き結んで、真っ直ぐにこちらを見上げるちっぽけな娘。
(他者に屈することを知らぬ王の娘。この娘を我が領土に連れて行ったら、どんな反応を見せるだろう)
明けもせず暮れもしない単調な日々。
赤茶けた薄暗がりの世界。
荒涼とした大地にうごめく灰色の亡者の影。
それとも―――。
(面白いな)
彼は死者の王。生者の運命に関わることは許されぬ。
しかし、それが何だというのだ。
「私が怖くないのですか?」
気遣わしげな表情を作って尋ねる。
「あなたは、私が何者か知らない、とおっしゃった。そんな正体も分からない男に、自分の身柄を預けようというのですか。ダナンの王女たるあなたが?」
「それは……」
青い瞳が、わずかに伏せた
「あなたをこんな場所に一人で置いていくなんてことは、しませんよ。きちんと砦の城までお送りします。それとも森の庵へ?」
「どちらも、嫌!」
言わせも果てず、
「それだと、わたしは何も知らないままで終わってしまうもの。兄さまはきっと、のらりくらりとはぐらかすだけで、何も教えてくださらない。わたしをファリアスに帰そうとするに決まっている。わたしは、きちんと知りたいの。あなたたちが何者で、一体何が起こっているのか。だって、友だちが目の前で消えてしまったのよ。ここまで見てしまったのに、中途半端なところで放り出されるのは、絶対に、嫌!」
揺らぎが消えた。青い目をしたダヌの娘は、生来の魂が持つ激しさのままに大地を踏みしめて立ち上がった。
「仕方ありません」
(したり)という胸中を、渋々といった顏の裏に隠す。
「ひとつ確認いたします。私の行くところに共に行く、と。それは本心からおっしゃっているのですね」
生者の魂を肉の器ごと冥界へ。
そのために必要なものは本人の意志。心からの強い願い。
オルフェンの言葉が、ドウンの
「ええ、本心よ。これからあなたの行くところに、わたしも一緒に行くわ」
自分の言葉が意味するところを、彼女は知らない。
キアランは皮肉な笑みを浮かべ、騎士の作法に
「……では、お望みのままに。失礼」
オルフェンの身体をすっぽりと黒いマントの中に包み込み、
「退屈なところですが、私の領地にご案内いたしましょう」
布越しにそう囁くと、地上の王の娘を死者の国へと連れ去った。
* * *
影が薄いというのは王子としては失格かもしれないが、楽でいい。
ほどよい眠気を感じたアリルは、家令に後を任せ、客に混じって湯を使うと自室に戻った。
広間から聞こえてくる音楽は、さながら心地よい子守唄だ。
(僕がいなくても十分楽しそうだし。いいだろう)
アリルの夜は早い。森の生活で、すっかり早寝早起きの習慣が身についてしまったせいだ。
抜け出して町に
「さて、と」
窮屈な上着を脱ぎ、椅子に掛ける。略装とはいえシワになっては困る。ぽんぽんと軽く
ドン!
勢いよく何かが窓にぶつかってきた。
夜中に、こんな高い所から出入りする者は限られている。
ドン! ドン!
繰り返される衝撃に、慌てて窓に駆け寄る。
「シャトン、ここの窓は外開き……」
が、ひと足遅かった。派手な音を立ててガラスが飛び散り、木の窓枠は不自然な格好にひしゃげて内側に開いた。
とん、と軽やかな音とともに、シャトンが床に降り立つ。そうして彼女はベッドに飛び乗ると、いつものように身づくろいを始めた。
城の者たちは自分の仕事で手一杯。王子の居室から少々物音がしたくらいでは、様子を見にも来ない。
ひゅううっ、と冷たい夜の風が部屋の中を吹き抜けてゆく。
全身が
おそるおそるガラスの欠片を踏みしめ、王子自らガタガタと鳴る窓枠を苦労して収めたが、遮るもののなくなった窓から遠慮なく吹き込む風は防ぎようがなかった。
寒さに固まる体を励ましてやっと毛布にくるまると、アリルは腹の底から深い溜め息を吐き出した。
「シャトン。出入りはドアからって、前にお願いしましたよね」
「ああ、すまないね。急いでいたものだから」
「何をそんなに急いでいたんですか」
顔を洗う前足を止めて、シャトンがしなやかな身のこなしでベッドから降りた。
「そうそう、聞いておくれよ。大変なんだよ」
言いながらアリルの足の間を8の字を描いて
「沼の魔女がね、あの娘をどこかにやっちまったんだよ」
「誰が? あの娘って、どこかにって、どういうことですか」
「エレインだよ。あの子が消えちまった。あたしゃ、この目ではっきり見たよ。沼の魔女が手を振ったとたんに、いなくなっちまった。それで、フランがあんたに伝えろって言うから急いで戻って来たのさ。森の庵にいてくれ、とさ」
シャトンが興奮のままにまくしたてる言葉の端々を、アリルは頭の中で整理してつなぎ合わせた。
エレインが沼の魔女とやらに
フランは捜索に向かうつもりなのだろう。
この城には戻らない。
――ということは。
「オルフェンは、オルフェンはどうしたんです。あなたと一緒に戻って来たのですか?」
「いや。あたしがあっちを出た時にはまだそこにいたよ。男たちと一緒に、川べりの木の下に」
当然、フランはすぐにエレインを探すべくその場を
すると、オルフェンはキアランと二人で残されることになる。
キアランが傍についているなら、砦の城まで送り届けてくれるだろうけれど。
(あの妹が素直に帰って来るとも思えない―――)
アリルはまだキアランの正体を知らない。
彼が冥界の王ドウンだということを。
(どうしてこんなことになるのだろう)
望みはいつだって、ひっそりと心穏やかに暮らしたい、たったそれだけなのに。
「仕方ない。何かあったのなら、今から現場に行っても間に合わないだろうし。キアランが何とかしてくれることを祈りましょう」
開き直った王子は、ぼやきつつもきちんと上着を着て、裏に毛皮をあしらった温かなマントをはおった。
手袋をした手で、家令に宛てて置き手紙をしたためる。
自分が森の庵に出かけること。
オルフェンも帰りが遅くなるかもしれないが心配はいらないということ。
(事実と異なる部分が少しあるけれど、それはそれとして)
風で飛ばないよう重しを乗せ、
「行きますよ、シャトン」
相棒に手を差し伸べる。シャトンがその肩に飛び乗った。そうして二人は、森の庵に続く道への入り口――すなわちクローゼットの扉を開き、奥へと足を踏み入れた。
サウィンの夜
異界へと続く道が開ける
しかし、ほとんどの人間は気づかない
蕪のランタンが照らす街角に
夜は更けてゆく
朝日が昇れば
何事もなかったかのように
生者たちの営みは新しい明日へと続いてゆく
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