第六章

第33話 咲き残る夢の半分

  汲めど尽きせぬ清らなる泉よ

  愛は枯れて、落ち葉が積もる

  水面みなもにご

  月影も映らず


  日は空を駆け、時は巡れど

  過ぎし日は戻らず

  ああ泉よ、我は嘆く

  かつての汝を知るがゆえに

        

      /湖水地方に伝わる歌 


  * * *  

 

 晴れた日の湖よりも透明な青い目をしばたたかせて、オルフェンは背の高い男を見上げた。


「では、本当にあなたは冥界の神さまなのね」

「ええ。できればずっと隠しておきたかったのですが」


 ここは死者の国。王の城。

 暗い夜を暖かく照らすランタンは、ここにはない。赤黒い夕焼けの名残なごりのような、ぼんやりとした薄明かりと影があるばかりだ。

 ドウンはつい、と口の端をつりあげた。


「オルフェン王女、私が怖いですか?」


 その酷薄こくはくな笑みを、オルフェンはじっと見つめた。


「ここに来る前にも聞かれたわね。怖くはないのか、って」


 確かに驚きはしたけれど、改めて「怖いか」と尋ねられると自分でもよく分からない。短い期間に多くのことが起こりすぎて、感情のはかりの目盛りは、もう振り切れてしまった。


 初めて出会った、親しく言葉を交わせる同世代の娘。

 初めて町で迎えた祭りの夜。

 お伽話とぎばなしにも聞いたことのない魔法。

 目の前で消えた友人―――。

 そして今、自分は生きながら『死者の国』にいる。


 頭の中がぐるぐるする。

 オルフェンはうつむいて、力なく首を振った。


「ここで初めて出会ってそのように名乗られたのだったら、きっと怖かったと思うわ。でも、まだ実感が無いの。あなたの言葉を疑うわけじゃない。けれど、わたしにはまだ、あなたが騎士のキアランにしか見えないのよ……」


 言ってから、はっと気づいたように顔を上げ、しとやかにスカートをつまんだ。


「知らぬこととはいえ、陛下に対しての無礼の数々。どうぞお許しくださいませ」


 そうして深々と頭を垂れる。

 王女らしい完璧な所作しょさに、ドウンは声を上げて笑った。

 仄暗ほのぐらい石造りの城に、冥界の主の笑い声が陰々いんいんとこだまする。


「私などに礼を尽くしていただかなくても結構ですよ。王女殿下」


 わずかに頭をもたげて自分の方をうかがい見る人の娘に、冥界の王は皮肉な調子で語った。


「あなたもご存じの通り、ここは生者の国から『安らぎの国』への通り道。日没の向こうにある国への道を見いだせぬ哀れな魂たちが彷徨さまよう場所」


 虚空を仰ぎ、芝居がかった調子で両手を広げる。


「耳を澄ませてごらんなさい。聞こえるのはしわがれたカラスの声。目をらしてごらんなさい。うごめくのは、かつて人であったことすら疑われる亡者の影。導かねばならぬ民もなく、求められることもない。このような地にあって、神だ王だなどと、どうして言えましょう」


 コツコツと硬い音を立てて靴音が響く。


「おお、女神ダヌの恩寵おんちょう厚きイニス・ダナエ。その豊かな大地。麗しき次代の女王よ。敬意を払って頂くに及ばない。どうぞあなたのしもべと思し召し、その汚れなき瞳に私の姿を映しますことをお許しください」


 そうしてひとしきり語り終えると、冥界の神は流れるようにオルフェンの前にひざまずいた。しなやかな手を押しいただき、その華奢きゃしゃな指先に口づける。


「生者がここを訪れるのは久方ぶり。まして貴いご婦人をお迎えするのは初めてのことですから、行き届かぬところが多々ありましょう。どうかご容赦を」


 オルフェンの視線が、ドウンの端正な顔から彼の膝下にある床石へと移った。

 一面に敷き詰められた、冷たい光沢こうたくを放つ黒い石。そこに金を散らした白い石が、象嵌細工ぞうがんざいくのように、複雑な模様を描き出している。

 それはあの占い師の幕屋まくやで見た模様、エレインをどこかへと連れ去った模様によく似ていた。


「こちらこそ。わたしなどに礼を尽くしていただかなくても結構ですわ、冥界の神さま」

 ドウンの口真似くちまねをして、オルフェンはついとあごを上げ、不吉な模様から目を逸らした。その青ざめた横顔に、ドウンが目を細める。


「恐れずとも大丈夫ですよ。さきほどのような魔法は、それなりの手順を踏まないと作動しませんから」

「でも、あのとき、エレインはあっという間にどこかに飛ばされてしまったわ。わたしだって、あなたが指を弾いたと思ったら、ここにいたわけだし……」

「私の方は、いつでもここに帰ってこれるよう仕掛けてあったというだけです」


 ドウンは立ち上がり、模様がオルフェンによく見えるよう移動した。


「それに、フィニ――あの占い師にとってはあっという間ということはなかったと思いますよ。あなた方が小屋に入ってから、ある程度の時間はあったでしょう。たとえば、あなたと他愛たあいのない話を交わしながら、それとなく位置を誘導したり。もしかすると、不死の乙女が砦の城にいると知ったときから、周到しゅうとうに罠を張って機会を待っていたのかもしれませんしね」

「あの魔女はどうしてエレインを狙ったの? 憎んでいるようにも見えたけれど、どうして?」

「赤き薔薇のつぼみのごとく愛らしい唇から、あふれ出るのは疑問ばかり」


 ドウンは苦笑し、呆れたように肩をすくめる。


「お疲れでしょうし、少しお休みになってはいかがですか。地上ではもう深夜を過ぎようとしておりましたよ。よろしければお部屋と、お茶をご用意いたしましょう。長話はその後で。いかがですか?」

「あなたが、お部屋に通すふりをして城に帰したりしないと約束してくださるなら、お言葉通りにいたしますわ」

御意ぎょい。王女殿下の御心のままに」


 面白い娘ではあるが、相手をする時間も惜しい。

 適当な居場所をあてがう手筈てはずを整えると、冥界の王は足早にその場を去った。

 

 姿が見えなくなると、金の娘のことはすっかり彼の頭から消え失せた。


「ここが私の帰る場所、か……」


 ひとりごちるその口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。

 うんざりするほど長い時を、ここで過ごしてきた。

 どれほど時が経とうとも、このくらき地に愛着を感じることはなかった。


「私も、哀れな亡者のひとりだ」


 赤黒い世界につなぎ止められ、彷徨い続ける魂のひとつ。いつしか自分が何者であったかすらも忘れてしまうのだろうか。いや、いっそその方が幸せかもしれない。自我を失い、ぼんやりと消滅してゆけるのなら。

 

 それでも、まだこの世界にはドウン引き留める存在があった。

 咲き残る遠い日の夢。

 それは城の奥深く、小さな中庭にある。

 回廊かいろうに囲まれた狭い空間。そこは死者の国にあっては異質な空間だった。

 ぽっかりと穴が開いたような、晴れやかな蒼天が頭上にある。

 そして一面のクローバーと、水たまりほどの泉。

 泉のほとりに咲く白い薔薇の前で身をかがめ、ドウンはいとおしげに語りかけた。


「ただいま帰りましたよ。私の姫君」

 

 それは『不死の乙女』の魂の半分と、過去の記憶そのものだった。

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