第31話 取り残されて
自分の想いに沈んでいたオルフェンは幕屋内の変化に気づくのが遅れた。
ぴりぴりと肌を刺す何かの前触れのような感覚に、はっと顔を上げて辺りを見渡す。先ほどと何も変わらない。向かい合う占い師とエレインがそこにいるだけだ。
ふと地面に目を落として息をのんだ。
占い師の足下、土の中から淡く発光するロープのような筋が
(何よ、あれ!)
オルフェンは反射的に
それが何を意味するのかは分からなくても、ひどく不吉な感じがした。
(このままでは囲まれてしまう)
とっさにエレインの腕を掴んで引きずり出そうと、オルフェンは手を伸ばした。
バチッ、と火花が散り、静電気のような鋭い痛みが走る。触れる寸前に弾かれてしまった。
「きゃあっ」
その悲鳴に、エレインがびくっと身をすくませた。
呆然と立ち尽くすオルフェンを見、その視線の先、自分の足下にくねる蛇に気づいて、ぎょっと表情を
占い師は指を組み、薄笑いを浮かべて乙女たちの様子を眺めている。オルフェンもエレインも気づいてはいなかったが、その姿は少しずつ変化していた。
くねる線が描く模様は、書きかけのサーキュラー・ノットに似ていた。
始まりも終わりもない線は、よく魔除けに使われる。
しかし今目の前にあるそれは、いかにも
オルフェンは歯がみした。
何とかしたいのに、体が動かない。すぐそこにエレインがいて、危険が彼女を捕まえようとしているのに。
円環が閉じる。
「あっ――」
一瞬の出来事だった。
眩い光が立ち上がり、白い円筒となってエレインを取り囲んだ。
「エレイン!」
オルフェンが悲痛な叫び声を上げるのと同時に、バサッと勢いよく垂れ幕が跳ね上げられた。
「ここか!」
灰色の聖騎士と小さな猫が小屋に飛び込んでくる。
「こいつだよ、生臭いニオイの元は!」
シャトンが牙を剥いて占い師を
「ようやくお出ましか。少々遅かったようね」
老いた占い師の口から、笑いを含んだ若い女の声がこぼれ出た。
そこにいたのは、もはや老婆ではなかった。
「お前…、フィニか!」
絞り出すようにフランが
「冥界の王みずからが地上までお運びとは、ご苦労なこと」
一足遅れて幕屋に入ってきたキアランに向けて、にっこりと笑みを浮かべる。地中深くから湧き出る泉。その水よりもずっと冷たい、
「一人の姫君を恋う二人の騎士、ねえ……。ふうん。これはなかなか面白い
フィニが、ついと片手を上げる。
「騎士道。その本分は貴婦人への忠誠、そして探求なのですって」
ひらりと白い袖が
魔女も、エレインも。
幕屋がまるごと無くなり、柳の古木の下には、魔法使いと冥界の王と人間と猫が残された。
――
「……発想が古いな」
ふん、とフランが鼻息荒く吐き捨てる。
「見かけはアレでも、人間の歳で言えば中身は相当な
キアランが同意した。
と、今度は二人の頭上にざあっと大量のどんぐりが降り注いだ。
「痛え! って、なんだこりゃ!」
「失敗。聞こえてしまいましたか」
ころころころ。
力なく座り込んでいたオルフェンの膝に、どんぐりが一つ、こつんとぶつかって止まった。
その小さなどんぐりが、彼女の気力を呼び覚ました。
オルフェンは飛び上がるようにして立ち上がると、男たちに詰め寄った。
「ちょっと! 一体何がどうなって、エレインはどこに行ったの。あの魔女は何? あなたたち、何か知っているのね。これからどうするつもりなの。ねえってば!」
「あー…。落ち着け、お姫さん。質問は一つずつにしてくれないか」
ぽりぽりと頬を掻きながら、フランがたしなめる。のん気な響きに、カッ、とオル
フェンの頭に血が上った。王女の心に行き場のない怒りがこみ上げてくる。
――まただ。
また自分だけが
置いてきぼりの孤独。何も知らされないことへの苛立ち。
めりめり、と足下に転がったどんぐりを靴底で踏みしだく。
はぐらかされて、ごまかされるのは我慢がならない。
「そんなこと、どうでもいいわよ!」
「姫、どうぞお心を
オルフェンの頭から立ち上る湯気を払いのけるかのように、キアランが優しい仕草で金色の頭を撫でる。
「ご心配なさらずとも、若草の乙女はきっとすぐに見つかりますよ。聖騎士殿の手によってね」
鋭い目で黒い騎士を見上げ、オルフェンはむっつりと口を閉じた。
「あの生臭い女は何者なんだい?」
逆立った毛を舌で整えながらシャトンが尋ねる。
「湖の女王ニムの末の妹、フィニ。いや、沼の魔女、と言った方がお前さんたちには分かりやすいか」
ピン、とシャトンの耳がフランに向いた。
「沼の魔女だって?」
にゃあにゃあと訴えるように鳴きながら、シャトンはフランの足にまとわりついた。
「ああ、分かってるよ。お前、本当にあの話が好きだな。あとでちゃんと話してやるから、伝令を頼む。至急だ」
「内容は?」
「アリルにこう伝えてくれ。エレインが沼の魔女に
「承知した!」
シャトンはぐいっと背中を伸ばすと、ひょいとフランの肩に飛び乗り、そのまま宙に身を躍らせた。
バサッ、と黒い翼が広がる。城をさして、銀色のサバ猫が黒い夜の中に溶けていく。
「んじゃ、俺も行くわ」
フランの手が腰の剣に伸びる。
引き抜かれたときには、聖騎士の剣であったはずのそれは樫の杖に変わっていた。最上級の魔法使いだけが持つことを許される杖だ。
杖の先で、トン、と地面を突く。
と、もうそこにフランの姿は無かった。
照らしてくれる蕪のランタンもない、柳の古木の下。
金の王女は得体の知れない黒い騎士と二人っきりで取り残された。
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