第22話 死者の王

 白い蝶を見送った後、ドウンはひとり風の中にいた。

 岸壁に巣があるのだろう。海鳥の声がやけにやかましい。

 日が西に傾いてゆく。

 空が赤く染まり、カエル・モリカの町が黒いシルエットの中に沈んでゆく。

 あの夕日が向かう方角に、生あるものたちの魂が帰る場所がある。


 彼のべる領土は、生あるものたちの世界と『安らぎの園』の狭間はざまにある。冥界、あるいは『死者の国』と呼ばれる異界である。

 かつて、自分にはもっと違う役割があったはずなのだが。あまりに遠い昔なので思い出すことができない。

 女神ダヌ率いる神々に敗北をきっしてから、彼と彼を取り巻く世界は一変した。共に戦ったものたちは神としての姿を失ってちりぢりになり、消息も知れない。なぜ自分だけが存在を許されたのか、その理由を彼は知らない。

 女神の思し召しとやらは分からない。

 ダヌの支配下にあって彼の領土として定められた、死者の国。

 この地に光が差すことはない。細かい砂埃のようなもやの中に、ぼんやりと荒野が広がるばかりだ。

 葉を落とした木々の梢から聞こえるのは、ワタリガラスのしわがれた鳴き声だけ。

 地を動くものといえば、次の世への道を見い出せずさまよう亡者のみ。

 そんな無表情な赤茶あかちゃけた世界に、一人の娘が現れた。

 名をエレインという。

 己の正体すら定かでないうすぼんやりとした亡者の中にあって、彼女は明らかに異質だった。まばゆい命の輝きに満ちあふれていた。

 彼女が歩むと、その跡に柔らかな緑が芽吹いた。

 彼女が触れた枯れ枝は蕾をつけ、愛らしい花を咲かせた。


 ―― 奇妙な娘だ。


 ドウンは自分の心が動くのを感じた。

 その感情は、変化のない世界でゆるゆると、永遠にも近い時を過ごしてきたドウンにとって不可解なものだった。が、決して不快ではなかった。

 夜の眠りの間に生者の魂が彼の領土を訪れることは、ままある。しかし長くとどまることはない。ふいと消えれば、ああ地上に朝日が昇ったのだと分かる。。

 しかし、地上の時間にして二百年近く、彼女はここに留まった。

 その娘が何者で、どういう経緯いきさつでここに来たのか。そのようなことはどうでもよいことだった。娘がときおり地上のことを語る、その声を聞くのは心地よかった。歌うのを聞けば、胸に優しいさざ波が立った。

 何の前触れもなく、エレインが地上世界に呼び戻されたとき、冥界は深い喪失感に包まれた。

 そのとき、ドウンは初めて自分の心を知った。


 ―― 退屈。


 彼はとうに、冥界の神という地位にいていたのだ。

 延々と黄昏の中にまどう亡者たちの『番人』、という役割に。

 思いがけず与えられ、すぐに取り上げられた束の間の夢。

 その夢は、彼に失っていた感情を思い出させた。失ったままの方が幸せだった――と彼は思った。

 どういうわけか、彼女の魂の半分は冥界に留まった。地上の事情など知るよしもない。しかしその輝きは間違いようもなく、彼女の一部であった。

 取り残された魂の半分は白い薔薇となり、彼女の過去の記憶と共に彼の領土で眠っている。その傍らで乾いた風が、干からびた木の葉が、彼女の名を呼びながら哀しい歌を歌っている。その歌を聴き続けるのは苦痛だった。

 耐えきれず、生者の世界にさまよい出た自分がここにいる。


 空が紫色に沈んでゆく。

 彼はヒースの野から砦の城へと足を向けた。

 町の家々に灯された明かりが、暖かな星のようにまたたいている。

 城内のあちらこちらで、細い松明たいまつを手にした従者見習いの少年たちが忙しげに歩き回っているのに行き会う。少年たちは手際よく、松明の火を石壁に掛けられた燭台に移してゆく。

 夕闇の中、ぽつりぽつりと増えてゆく火は、さながら闇から湧き出す小さな命の光だ。

 このような辺鄙へんぴな地でさえ、どこもかしこも生者の活気に満ちている。

 うるさいほどに。


 中庭に回って林檎の木の下に立ち、王子の居室を見上げる。

 今、手を伸ばせば届くほどの近さに、彼が求めてやまぬ乙女がいる。

 彼が生者の運命に関わることは許されない。しかし彼女の魂の半分は彼の領土にある。もし彼女が本心から望めば、ここから連れ去ることができるだろうか。

 そもそも、なぜ自分は彼女と出会ったのだろう。

 そこにどんな意味があるというのか。

 出会いさえしなければ、このような迷いとは無縁でいられたはずだ。

 じわじわとやってくる消滅のときを待つことができたであろうに。


「女神のなさることは、分からぬ」


 空を仰いだまま目を閉じる。階上からこぼれ落ちる優しい光が、閉じたまぶたを通って彼の心の奥底を照らした。

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