第四章

第21話 恋のお話はいかが?

 夕刻。

 ひとりぼっちの食事を終えてから、オルフェンは兄の居室を訪ねた。

 扉を軽くノックすると、兄が顔を出した。疲労の色が濃い。


「やあ、オルフェン」


 快活な口調を装っても妹の目はごまかせない。部屋の空気もどんよりとよどんで、重い。


「ちょうどいいところへ。もし時間があるなら、エレインを見舞ってやってくれないか」

「あの方は、まだ?」

「うん」


 部屋の奥では、赤い髪の聖騎士が難しい顔をしてカップの底を覗き込んでいる。


「年も近いし、きみがそばについていてくれれば安心できる」


 客人との話はまだ終わらないようだ。


「分かりました。聖騎士さま、不足があれば何なりとおっしゃってくださいね」


 オルフェンは物分かりよくそう言うと、フランに向かってしとやかに頭を下げた。

 彼は少しだけ顔を上げてオルフェンを見た。

 微笑もうとしたのだろう。頬がわずかに引きつった。


 エレインは目覚める気配がない。ベッドの上で眠っている姿は、どこにでもいる普通の娘に見えた。

 オルフェンはその顔をまじまじと見つめた。不作法なのは承知の上だ。

 悲しい夢でも見ているのだろうか。頬に涙の跡がある。袖口でそっと拭ってから、起こさないように気を付けてベッドの端に座った。

 この少女に、何があるというのだろう。

 聖都での騒ぎは噂ほど大規模なものではなかったらしい。なのに、聖騎士を護衛につけてまで、この娘を避難させなければならない理由とは。

 わざわざ兄を頼ってくるというのもせない。どういう関わりがあるのだろう。

 エレインの足元でシャトンが丸くなっている。すうすうと寝息が聞こえてくる。

 シャトンが普通の猫ではないのはオルフェンも知っている。

 人の言葉も分かるし、字も読める。空も飛べると兄から聞いていた。大きさまで変わるというのは知らなかったから、少し驚いたけれど。

 それより、兄だけでなくこの少女もシャトンと話ができるということに驚いた。

 あの赤毛の聖騎士も、怪しげな黒い騎士にもシャトンの言葉が分かるらしい。


「ずるいわ。兄さまも、聖騎士さまも、キアランも」


 そっと手を伸ばしてシャトンを撫でる。しなやかな毛並みが手のひらに心地よい。


「どうしてわたしだけ、あなたの言葉を聞くことができないのかしら」


 シャトンが薄目を開けて、音のない声でにゃあ、と鳴いた。

 他の者に苦も無くできることが、自分にだけできない。屈辱に似た苛立ちと疎外感。


「わたしも、あなたと話ができたらいいのに」


 シャトンはころんと上を向いた。気持ちよさそうにグルグルと喉を鳴らしている猫を見て、オルフェンはくすっと笑った。

 嫌われてはいない。それだけでも良しとしよう。

 ふとベッドの隅に放り出されたままの本が目に入る。

 『若草のエレインまたは不死の王女の物語』。

 何気なく本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。


「このお話の最後は、ここが舞台なのよね……」


 シャトンのしっぽがぱたぱたと毛布を叩いた。


 ――重傷を負って動けなくなった敵の兵士を王女が見つけて看病する。その優しさに兵士は敵国の女性と知りつつ恋心を抱くようになる。しかし、彼女が不死の乙女であると知った兵士は、彼女に酷い言葉をぶつけ、傷が癒えるやいなや自国に逃げ帰ってしまうのだ。

 その後、王女は同盟のため、父の命令で西の国の年老いた王と結婚する。

 そうして、ある風の強い日。

 林檎の花が舞い散る木の下で忽然こつぜんと姿を消してしまった。


 もちろんこれは物語である。幻視の翼に導かれた詩人たちによって、ふんだんに脚色がなされている。しかし、かくとなる部分には事実が含まれている。


「ねえ、シャトン。知ってる? 不死の王女さまが行方不明になった林檎の木は、この城の内庭にあるのよ」


 ぴくっとシャトンの耳が動く。

 オルフェンはその耳の後ろをこりこりと掻いてやった。


「王女さまの父君、クネド王は私たちの二百年前のご先祖さま。王女さまの名前は系図にもちゃんと載っているし、本当に自分の命の輝きを他人に分け与えることができたそうよ。その力は大陸の聖女さまと同じよね。不思議ね。海の向こうとこちらで、同じ時期に同じような癒やしの力を持つ人間があらわれるなんて。しかも名前まで同じなんですもの」


 シャトンがふわあ、と大きなあくびをし、前足を投げ出してくるんと寝返りを打つ。

 その愛らしい仕草に、オルフェンは声を上げて笑った。

 白かったエレインの頬に赤みがさしている。もうシャトンの温もりがなくても大丈夫だろう。

 オルフェンは猫の小さな額にこつんと自分の額を当ててからそのまま膝に乗せた。

 シャトンはおとなしくオルフェンの膝の上で丸くなった。


「彼女は重傷を負った兵士たち、医師や賢女たちがさじを投げるような重い病にかかった者たちでも癒すことができた。だから、クネド王の軍は無敵だった。戦場で倒れた兵士が、次の日にはまたケロッとして戦場に出てくるのですもの。敵はさぞ恐ろしい思いをしたでしょうね。今のダナンがあるのは、彼女のおかげと言っていいのかもしれない」


 そこまで話して、オルフェンは口をつぐんだ。

 人語を解する猫は、どうしたの? とでも言いたげな顔で黙りこんだ姫君を見上げ、しっぽの先を振って先を促す。


「あのね、わたし、少し心配なことがあるの」


 にゃあ? とかすれた声でシャトンが鳴いた。

 オルフェンの耳には「何が?」と尋ねたように聞こえた。


「兄さまのことよ。兄さまが陰謀を企てた、なんて。そんな噂、どこから出てくるのかしら。たまたまこの城を任されたからって、宮廷から追い出されたわけじゃないのに。お父さまがはっきり否定して下さらないのもよくないんだわ。少し頼りなく見えるかもしれないけれど、兄さまはとても優秀なのに」


 砦の城の主としてふさわしい人物を、とカエル・モリカから要請があったとき、王はすぐに王子を指名した。人々は首をかしげた。

 ゆくゆく国を背負うことになる王子に経験を積ませようという意図があったのかもしれない。だが、なぜ砦の城なのか。たまたま空きがあったから、で片づけてよいものか。

 この城は所有者がころころと変わる。そして城主には、何故か短命の者が多い。

 それはもう、いつからとも知れぬ昔からのことで。ゆえに何か変事があると、人々は必ずこの地に残る伝承や歴史を引き合いにして囁き合うのだ。

 いわく、敗残者の地。

 太古の戦地跡であり、コーンノート王が非業ひごうの最期をげた場所。

 そして背後に控えるモリカ岩礁がんしょうでは、人間の男を白い波の下に引き込もうと、海神マナナン・マクリールの娘たちが待ち構えている。

 この地に満ちる負の力を打ち払う器量がなければ、不運に見舞われるのだ、と。


「巡り巡って、今この一帯はミース王家の所領になっているのだけれど。王都のファリアスには領地を持たない叔父さまや従兄弟いとこたちが王宮住まいをしているのよ。兄さまじゃなくてもいいと思うの」


 たとえ指名されたとしても、彼らが首を縦に振ることはないだろう。都から離れるのを嫌がって、何やかやと理屈をこねるに決まっている。

 城を任されるということは、その地の領主になるということでもある。財産を築くチャンスでもあるのだが、いかんせん、ここはあまりにも条件が悪すぎた。

 土地の広さの割に実入りも少ない。大した港もないくせに、岩礁地帯をようするために、船の航行の安全に責任を負わされる。

 華やかな都からはほど遠く、おまけに不吉な因縁いんねん話までついている。

 うまみがないどころの騒ぎではない。他の者たちが保身に走る気持ちも分かる。

 シャトンは、ごろごろと喉を鳴らしながら、彼女にしては注意深く話を聞いていた。


「兄さまも何もおっしゃらない。ぼんやり王子と言われても、若年寄りと呼ばれても、かえってそんな風に思われるのを歓迎しているみたい。お二人とも何を考えていらっしゃるのかしら」


 金色の目がじっとオルフェンを見つめる。


「今でも、ダナン古来の伝統に従って、わたしが女王になって、ふさわしい人物を夫に迎えればいいっていう話があるし。もしかしたら、これからわたしにも弟か妹ができるかもしれない。お父さまもお母さまも、まだお若いんですもの。だから、お二人がお歳を召す頃にその子が大人になるから、王位を継ぐにはちょうどいいんじゃないかって言い出す人がきっといる。そうしたら、兄さまはどうなるのかしら」


 気を回し過ぎだとは分かっているのよ、と口の中で不満そうに呟く。


(このお姫さんは、良い人だね)


 シャトンは感心した。少々きつい物言いをするときもあるが、一途に兄を慕う心にはいつわりがない。


(よくもまあ、こんな真っ直ぐに育ったものだ)


 自分の評価がひそかに上がっていることも知らず、オルフェンはぎゅっとシャトンを抱きしめた。


「そうよ!」


 いいことを思いついた、とオルフェンの顔が輝く。


「兄さまにカリスマ性がないんだったら、そういう人を周囲に配置すればいいのよ!」

「にゃ?」


 突然話が別の方向に飛んだ。

 猫に説明をしているのか、自分に言い聞かせているのか。王女は熱をこめて語る。


「幸いここには人材が集まっているじゃない」


(人材……?)


「まずは、シャトン。あなたでしょ。それからあのキアラン。得体は知れなくても、彼の気品は本物よ。見た? あの金の首環トルク。間違いなく名家に伝わる家宝級。あれを身につけても浮いて見えないって、すごいと思うわ」


(そんなものかねえ)


 オルフェンはひょいとシャトンの両脇を抱えて、正面から視線を合わせた。


「右にキアラン、膝の上にあなた。そして、左にはこのエレインさんに座ってもらいましょうよ」


 左、と言えば、お妃の席になる。

 シャトンがぴん、と耳を立てた。


(本気かね?)


「この方、聖騎士が護衛につくくらいだから、特別な人なんでしょう? どうして兄さまに保護を求めて来たのかは知らないけれど、これを機に二人には恋に落ちてもらいましょうよ」


 枯れかけた兄と違って、妹の方は年齢相応、まっとうな育ち方をしているようだ。

 エレインを起こしてしまわないよう潜めていた声が、少し大きくなった。

 それに気づいてオルフェンは慌ててベッドの方を振り返った。彼女の眠りが安らかであるのを確認すると、シャトンに向き直って小声でまくしたてる。


「ちょっと影が薄いのが気になるけれど、そこらへんの占い師かなんかに、クネド王の娘の生まれ変わり、とか触れさせて」


 占い師を持ち出すまでもなく、正真正銘、本物のクネドの娘なのだが。

 シャトンの言葉はオルフェンに届かない。説明するすべがない。


「ね、シャトン。いい考えだと思わない?」

「う~、なあ~…」


 語尾を低く下げて、やんわりと否定したつもりだったのだが、


「まあ、賛成してくれるのね。嬉しいわ。ぜひ協力してね。ね?」


 全く逆の方にとられてしまった。しかも、自分まで巻き込まれてしまった。

 こちらの意図が通じないというのは不便なものだ。シャトンは横を向いて、ふっと息をついた。


「それじゃ善は急げ、よね」

(なんで、アタシまで)


 オルフェンはシャトンを両腕で抱きしめ、すくっと立ちあがると、続きの間へ。兄の書斎へと駆け込んだ。


「兄さま!」


 その勢いにぎょっと男二人が振り返る。


「わたし、当分の間この城にいることにしましたから。それから聖騎士さま」

「お、おう」


 たじろぐフランにオルフェンは極上の笑顔を向けた。


「どうかゆっくりと滞在なさってくださいね。兄も私も、精一杯おもてなしさせていただきますから」


 自分たちが知らない間に、隣の部屋で何があったのか。男たちが目でシャトンに問いかける。

 シャトンは元気な王女さまの腕にぶらんとぶら下がったまま、

「にゃあ」

 と猫語で答えて目を逸らした。

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