第20話 誓いと禁呪
三代目森の隠者の話は、本当に長い物語になった。
途中、何度もフランは過去の記憶に沈み込み、その度に語りは中断された。
沈痛な面持ちで黙り込む師匠を見ているのが苦しくて、アリルは席を立った。お茶を淹れてもらおうとキアランを探す。しかし、姿が見当たらない。自分で淹れることにした。
湯と茶菓子を持って部屋に戻り、テーブルの上に散らかした書物を棚に片づける。テーブルには青いクロスをかけた。
後から気づいたのだが、皮肉なことにその布には白い薔薇が――聖女に捧げられた花が刺繍されていた。
「どうぞ」
ひと言だけ添えて、そっと湯気の立つカップを差し出す
カモミールとレモングラスをメインにしたハーブティーと、オーツ麦のビスケット。傍らにカシスジャムの小瓶を置いた。
フランはテーブルに肘をついて指を組み、そこに額をつけたまま微動だにしない。
森の庵ではのらりくらりとはぐらかされたが、こうしてすっかり聞き出すと、聞いてしまったことを悔いる気持ちも湧いてくる。
(話が大きすぎる)
それはアリルの想像をはるかに超えていた。
――癒しの聖女と、不死の乙女。
まだ理解が追いついていない。
頭の中を整理しようと、アリルはカップに口をつけた。
* * *
あの夜。
コーンノート王の病室から湖の島へと、マクドゥーンは飛んだ。
エレインが身体に負った傷は、医術を修めた者たちによる手厚い看護と自らの癒しの力で徐々に回復していった。だが、心の傷はそう容易に癒えるものではなかった。
もう少し。笑顔が戻るまでもう少し。
皆が祈る気持ちで見守っていた、そんな折。エレインの魂に再び深い傷を負わせる出来事が起こった。大魔法使いマクドゥーンにも、どうすることもできない不幸な巡り合わせだった。
傷ついた魂は肉の器を離れ、死せる者と同じように他界へと
それでも器はやはり不死のまま。魂をつなぎ止める緒が切れることはなかった。
大陸の聖女イレーネと不死の王女エレイン。
この二人の少女を言葉の力を借りて巧みに重ね合わせたのは、大陸の神官ヨハネス。大魔法使いの兄、ヨハルだった。
双子の共時性、とでも言おうか。
いつ醒めるとも知れぬ眠りについたエレインの体を抱いて途方に暮れるマクドゥーンの前に、永遠の眠りについて久しいイレーネの体を抱いたヨハネス神官が現れた。
何十年かぶりに再会した兄弟は、二人の乙女のために、人ならぬものの力を借りることにした。
妖精女王エリウの守護のもと、ヨハネスが彼女の住まう丘の上に霊廟を建てた。ここが後の時代まで聖地として多くの巡礼を集める『聖エレイン大聖堂』となる。
そしてマクドゥーンが湖の貴婦人ニムの力を借り、持てる魔法の力すべてを注いでイレーネの肉体を土に還した。
これで聖女の棺が空になった。
空になった棺に、ヨハネスがエレインを横たえた。
癒やしの手を持つ乙女の器は、可憐な姿のままここで眠り続けることになる。
霊廟に聖女の名を刻む。
大陸から伝わった共通文字で記すと、ふたりの乙女の名は同じ
ヨハネスが『イレーネ』の名をわざわざダナン風に『エレイン』と読み替えたのも、より二人が混同されやすくなるよう意図してのことである。
この秘密を知る人間は少ない。
マクドゥーン、ヨハネス、代々の神殿長と修道院長。それだけだ。
彼らは
人の憎しみによって傷ついた哀れな少女の魂が、人の清らかな心によって癒され、いつの日か深い眠りから目覚めるように、と。
* * *
「まさか、とは思いましたが。では、確かにあの娘は、史書に記された伝説のエレインなのですね」
ダナンの王子のつぶやきに、過去にマクドゥーンであった男は、うつむいたまま微かに頷いた。
クネド王の娘。癒やしの手を持つ王女。
その
正史は彼女の足跡を、林檎の花が咲く季節にコーンノートの王と婚約したという記述で締めくくる。
詩人はうたう。彼女は永遠の眠りを眠る、と。
――心から王女様を愛する者のみが、己が身と引き換えに呪いを解くことができる。
この贈り物が、エレインを救うはずだった。
(せめて、俺があんな誓いを立てていなければ、もう少しマシだったかもな)
遠い記憶が、かつてイニス・ダナエ最大の魔法使いと
彼女が生まれた頃、フランは湖の島にいた。不死の王女の存在すら知らなかった。
小船から降り、初めて島の地を踏んだ時、彼の耳に届いてきたのは預言の巫女の甲高い声だった。
巫女は彼を見るなり大きく目を見開いた。恐ろしいものを見たかのように体を強張らせ後じさりする彼女の唇から、あの言葉が滑り出た。
『この者は愛する女を死に至らしめる』
人のものとは思われない鳥肌の立つような声に、その場にいた者がぎょっと凍りついた。後にも先にもあれほど恐ろしい思いをしたことはない。
その時からフランはマクドゥーンという名で呼ばれることになった。
間を置かず、マクドゥーンとなったフランは、『女を愛さない』という誓いを立てた。まだ子どもだったから、その重さに気づかなかった。
そもそも湖の島で修行する者はみな、何らかの禁忌を自分に課している。生涯異性を愛さないという誓いを立てている者も珍しくはない。魔力だけがやたらに強い、心の幼い子どもには、その誓いが意味するものなど理解の外にあった。
何年かの後、青年マクドゥーンは、いとも
しかし、エレインは生きている。自分もまた死ぬこともなくここにいる。
お互いを
……カチャン。
カップが皿に触れる微かな音と甘いジャムの香りに、フランははっと現実に帰った。愛弟子がすっかり冷めてしまったお茶を淹れ直してくれる。
「聖女イレーネのご聖体を土に還すために魔力をすべて使った、って言いましたけれど」
ようやく顔を上げたフランとアリルの目が合った。
「師匠は今でも魔法が使えますよね」
その問いに答える前に、フランは身体をほぐすため、うーんと伸びをした。
両腕を上に伸ばしたまま答える。
「ああ。そのずっと後にな、ニムにしごかれたんだ。死んだ方がマシってくらいにな。まあ、死ねないんだけど」
「師匠も、死にたいなんて思ったことがあるんですか」
「まあね」
エレインの体を棺に納めた後、魔法の力を失ったマクドゥーンは隠者となった。
体も心も相応に老いてゆく。庵を二代目に任せてからはダナン各地を巡る旅に出た。
途中で行き倒れることを望んでいなかったと言えば嘘になる。あの無茶な放浪は『死』を願う心がさせたことだった。
自分の前に次の世への道が開かれることはないと分かっていても、望まずにはいられないほど疲れていた。
この世で自分が為すべきことはもうない。できることは何もなかった。
枯れ枝と変わらぬ姿になって
「とまあ、こんなところか……」
ひとくさり語り終えて、ようやく人心地のついたフランはビスケットに手を伸ばした。
「あれ?」
アリルがまた、素朴な疑問を差し挟んだ。
「まだ不死の呪いが解けていないということは、誰も心から彼女を愛する男性が現れなかった、または、彼女が愛を返さなかった、ということですよね」
フランの手がぴたりと止まった。
「それなら、どうして彼女の眠りを覚ましたんですか。呪いを解く方法は他にはないのでしょう。眠ったままの方が良かったんじゃないですか?」
あまりに無邪気な問いだった。
(そこを突かれると、痛い)
大魔法使いマクドゥーン、一生の不覚。
「ねえ、師匠?」
アリルに悪気はない。その悪気のなさがフランを追い詰める。
「あの、さ……」
何とか勇気を振り絞る。最低限の説明は必要だ。これ以上自分の傷を広げないためにも。
「お前、さっき魔法使いはみんな長寿なのか、って聞いたよな」
「はい。聞きましたけど」
それが何か? と首をかしげる。
「不老不死の薬なんてのはない。魔法使いだって人間だ。若死にするやつだっている」
「それじゃ、師匠はどうして……」
言いかけて、アリルははっと思い当たった。
「まさか、あの……」
シャトンの好きなあの物語。
――いつの日か、心の底から王女さまを愛する者が現れて、
その人が呪いをその身に引き受けてくれるでしょう。
そして、王女さまがその人を心から愛するようになれば、
二人は次の世への道を見出すことができるでしょう。
「そのまさか、だよ! あの
やぶれかぶれの気分でフランはまくし立てた。顔が赤い。
「でもな、肉体は年をとる。だから
「水をぶっかけた…って、若返りの水を、ですか?」
湖の貴婦人ニムには、九人の妹がいるという。変若水の管理を任されているのはその内の一人だ。もちろん、滅多なことで人間の手に入るものではない。
マクドゥーンは、使用を許された特別な人間だった。
約束の期日が過ぎても現れない魔法使いを探しに出た妖精が見つけたのは、ぼろ布にくるまれた行き倒れの老人だった。
このままでは死んでしまう、と慌てた妖精は、加減を忘れて、ありったけの変若水を彼の上に注いだのだ。
「そのせいで、赤ん坊になっちまった。記憶までまっさらになっちまって、踏んだり蹴ったりだったぜ。そんで、墓荒らしの夫婦に拾われて、何も知らずに成長して、若気の至りで妙な功名心を起こして、聖女の墓に忍び込んで、で、それで……」
「それで?」
「……うっかり起こしちまったんだよ」
「うっかり、って、どうやって?」
「聞くな!」
その
不死の呪いを受けた、ということは、フランがエレインを心から愛しているという
(師匠の愛は報われていない、ってことで……)
耳の先まで真っ赤になって、むっつりとフランは黙り込んでいる。ふてくされた少年のようだ。人知れぬ苦悩を抱える師匠にかける言葉は見つからなかった。たった一言を除いては。
「お茶、おかわりしますか?」
この件に関して、アリルはこれ以上追及しないことにした。
それが、今、彼にできる精一杯の思いやりだった。
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