第15話 青い波音

 砦の城は、コーンノート最後の王の居城として知られている。

 西にカエル・モリカの町。背後は絶壁。その崖の下には瑠璃紺るりこんの波が渦を巻いている。

 この一帯の海はモリカ岩礁がんしょうと呼ばれている。海の側からこの岸壁を仰ぎ見ると、無数の岩の柱がそびえ、その上に薄いカーペットのような地表がかぶさっている。嵐でなくとも、夜や霧の日に、うっかり陸地に近づきすぎて座礁ざしょうした船は数知れない。

 城壁の東端には高い塔があり、それが航行する船に危険を知らせる灯台となっている。頂上の火を絶やさないこと。これが砦の城主に課せられたもっとも重要な仕事だった。

 海面に目を移すと、折れた柱のような岩が無数に突き出しており、晴れた日には数多あまたの白い鳥たちがその上で羽を休めているのが見える。この鳥たちの中に、海の神マナナン・マクリールの娘が紛れ込んでいて、気に入った男を連れて行くという。

 いつ何時であっても気を抜くことを許されない、船乗りたちにとっては油断のならない難所なんしょであった。

 

 『砦の城』という名の由来は、先史の昔にさかのぼる。

 すぐ近くにある、だだっ広いヒースの野原。

 伝説によると、ここで神々と妖精たちが激しい戦いを繰り広げたという。

 その戦の勝者が大地の女神ダヌがひきいる一族であった。以来、この島はダヌの島――イニス・ダナエと呼ばれるようになった。

 敗北した種族は地下深くに潜ったとも、海を越えて落日の向こうの国へ逃れたともいわれている。

 ここ、砦の城は敗者の本拠地であった。

 ヒースの野で馬のいななきやら大勢の者たちが走り回る足音が聞こえただの、崖下に無数の小さな鬼火おにびが揺れているのが見えただの。土地柄、怪しげな噂には事欠かない。


 恐ろしげないわくはあれど、この城のめぐりの景観は美しい。

 今の季節は寒くなる一方だが、春から夏にかけては渡り鳥よろしく、詩人やら画家といった芸術を志す者たちがこの城を訪れる。

 もっとも、怪異を求める物好きは冬の時期をこそ狙ってやって来る。

 城下の小さな町で、十一月のサウィンの祭りが盛り上がりを見せるのはそういった者たちが集うためでもある。

 砦の城のラウンジは、訪れる客人たちが、滞在中心地よく過ごせるよう工夫がらされていた。

 高い天井には柔らかな色彩の絵が描かれている。部屋の隅の燭台は、蝋燭ろうそくを乗せる台座の飾りは可愛らしいガラス細工の花だ。

 暖炉の上にはドライフラワーや木の実をあしらったリースが飾られ、ほのかに芳香を漂わせている。大きな窓はたっぷりと陽光を取り入れて、冬でも昼間は春のような暖かさだ。


 細やかな刺繍ししゅうに彩られた布張りの椅子にちょこんと収まったエレインは、得体の知れない居心地の悪さを覚えていた。


(ここには来たことがない、よね)


 妙に懐かしい。

 その懐かしさがエレインを不安にさせる。

 この部屋を出て右に行くと、階段があって、二階の『階段の間』には泉の妖精の像がある。そこの縦に細長い窓からは中庭の林檎りんごの木が見えるはずだ。


(お城の中がどうなっているかなんて、全然知らないのに)


 おとぎ話のお城と、ごちゃまぜになっているのだろうか。

 その中で、壁に掛けられたタペストリーだけが目新しく映った。

 振り子を手にした時のおきなを中心に、四季の精霊が織り込まれている。大陸から伝わった構図で、特に珍しいデザインでもない。

 しかし、このタペストリーには。その感覚にエレインはほっとした。


(いろんなことがありすぎたから、混乱しているのかな)

 

 イニス・ダナエの中心にある湖の島を経ったのは、二週間ほど前のことだ。

 東をめざし、ダナンと大陸をつなぐ海の玄関口、エリンへ。丘の上にある聖女をまつる神殿で、黒い髪の妖精女王に会った。

 その夜いきなり火事に遭い、顔を合わせたばかりの聖騎士に連れられ、馬車に揺られて惑わしの森、隠者の庵へ――。

 ダナンの上にジグザグの線を描いて、今、この城にいる。

 

「どうした?」

 ぼうっとしていたところに声をかけられて、びくっと身をすくめる。

「落ち着かないか?」


 フランは柔らかな長椅子の座り心地を存分に味わっているようだ。頭の後ろで指を組み、ゆったりと背もたれに体を預けている。

「はい」


 背筋を伸ばしたままエレインが素直に頷くと、フランはにっと笑った。


「気楽にしてろ。今回は身なりもちゃんと整えたし、いいところのお嬢さんに見えるぞ。小さな館だし、堂々と客をやってりゃいい」


 少々的外れではあったが、気遣いが嬉しい。エレインの肩からふうっと力が抜けた。


「こんなに待たされるとはな。あいつならすぐに出てくると思ったんだが」


 この男も不思議だ。会って間もないのに、もう何年も前からの知り合いに思えてくる。

 聖騎士の装束に身を包んだ男の正体は、鉛色の髪の青年隠者が教えてくれた。


『ついでに言うと、あちらが三代目隠者、フラン。僕の師匠でもあります。あなたには何と名乗ったか知りませんけど』


 そういう青年自身はダナンの王子だった。

 この聖騎士さまもまだ裏に何か隠していそうだが、不思議と腹は立たない。騙されたという気も起こらなかった。

 少なくとも自分に向けられる眼差しは真っ直ぐで、裏に悪意を秘めているようには見えない。こうしてそばにいると、何が起こっても任せておけば大丈夫だと思わせてくれる。

 それとも、詐欺師に騙される人は、みな、こんな風に思い込まされてしまうのだろうか。


 ざあー…ん、ざあー…ん。

 黙って座っていると、崖に打ちつける波の音だけが耳に響く。時を忘れそうになる。

 コンコン、と控えめなノックの音がその沈黙を破った。


「よろしいでしょうか」

「どうぞ」


 柔らかな男の声にフランが答える。

 開きかけた扉の隙間から小さな生き物がするりと入り込んで、迷うことなくエレインの方に走り寄ってきた。


「あら、シャトン?」


 にゃあ、とエレインの顔を見つめて挨拶をすると、軽やかに膝の上に飛び乗り、猫の習性のままに二、三度足を踏み踏みするとくるりと丸くなって収まった。のびやかな知己ちきの姿に、心がなごんだ。


「おや? この小さな貴婦人レディーは、そちらのお嬢さまとお知り合いでしたか」


 シャトンに続いて、黒い装束に身を包んだ騎士が姿を現した。

 さらさらと背に流れ落ちる髪は濃く淹れたコーヒーの色。物憂げなアメジストの瞳に、長い睫毛まつげが影を落としている。

 この世のものとも思われぬ美青年だった。

 金の首環トルクが、全身の黒の中で浮き上がることなく、しっくりと馴染なじんでいる。

「げっ!」

 一目その姿を見るなり、フランが立ち上がった。

 青年がおや、と軽く目をみはる。


「これはこれは。客人のお一人はあなたでしたか」

「お前がここにいると知っていたら、来なかったよ」

「ご挨拶ですねえ」


 ふう、とわざとらしい溜め息をつくと、青年は背後に控える給仕係に目配せをした。給仕係の娘がテーブルの上に茶器を置いて下がると、慣れた手つきで客人のためにお茶を淹れ始めた。


「エレインお嬢さま、ミルクはいかがなさいますか。砂糖もございますよ」

「あたし…、いえ、私の名前をご存じなんですか?」

「ええ、当然でしょう」

「でも、初対面だと思うんですが……」


 青年は、ああ、と思い当たったように微笑んだ。


「亜麻色の髪の姫君、この姿でお会いするのは初めてでしたね。今は流れの騎士をしています。名は、キアランとお呼びください」


 湖の島で会ったことがあるのかもしれない。妖精女王ニムとの面会を求めて緑玉ジェイドの島を訪れる騎士も珍しくはなかったから。

 と、エレインが記憶をたどろうとすると、足下にその騎士がひざまずいた。

 左手を胸に当て貴婦人への礼をとる。

 洗練された優雅なしぐさに気後れして、とっさに身を引こうとしたが、その前に手を取られてしまった。


「その桜貝のようなドレスも良くお似合いです。若草色の瞳と相性もいいですし。余分な装飾がないのがまたいい。あなたの可愛らしさを損ないませんからね」

 キアランはエレインの手を押し戴いて軽く口づけし、にっこりと微笑む。エレインが頬を染めた。

 ケッ、とフランが吐き捨てる。


キアラン、かよ」

「そういうあなたはフラン、でいいのかな。今度は聖騎士ですか。まったく、何度転職すれば気が済むのだか」


 ドキドキする胸を静めようと空いた手でシャトンの背を撫でながら、エレインは男たちの間に視線をさまよわせた。

 仲がいいのか悪いのか。少なくとも息はぴったりだ。多分ずっと前から互いをよく知る間柄なのだろう。


「人間にはいろいろ都合というものがあるんだ。それより、あいつはどうした」

「殿下ですか? あなたの弟子だそうですが、この城の中であいつ呼ばわりはいかがなものかと」

「で、何かあったのか?」


 キアランはわざとらしく視線をフランからエレインに移した。痛ましげな眼差しでエレインの瞳を覗き込む。


「聖都では大変な目に遭われたとか。火事に盗賊、おまけに他国の間諜かんちょうが何人も紛れ込んでいたそうですね。御身おんみがご無事で何よりでした」

「あ、ありがとうございます……」


 エレインの左手は、まだキアランの手にとらわれたままである。どうしていいか分からずにおろおろしていると、シャトンが前足で払いのけてくれた。


「で、それがどうしたって?」

 苛立いらだちを隠そうともせず、語気を荒くしてフランが先を促す。


「その件で、殿下に黒幕容疑がかかっていまして。今、取り調べが行われております」

「何だって?」


 気色けしきばむフランを横目で見て、キアランがくすっと小さく笑った。


取調官とりしらべかんは殿下が最も苦手とする貴婦人レディーです。心配はいりません。そろそろ進退きわまった殿下が、こちらに救けを求めていらっしゃるでしょう」


 ぴくっとシャトンが耳をそばだてた。

 足音が近づいてくる。二人分。一人はすたすたと、もう一人はよたよたと。

 ほどなく、人間たちの耳にもその音は届いた。


「ほら、ね」


 足音は客間の前で止まった。

 ギイ……。

 きしんだ不気味な音を立てて、ゆっくりと扉が開かれる。扉にもたれかかるようにして、せいこんも尽き果てたといった風情の王子が、よろめきながら部屋の中へと足を踏み入れた。


「お待たせ、した……。キアラン、僕にも何か飲み物と食べ物を……」


 そうして言いも果てず、ばったりと絨毯じゅうたんの上に倒れ込んだ。

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