第10話 聖なる盗み

 乙女の塔、聖女エレインが眠る部屋。

 空っぽのひつぎが一つ、ぽつんと取り残されている。金銀宝石で飾り立てられた、目がくらみそうなほど華やかな棺である。

 装飾過多なため分かりづらいが、模様の中に百合の花が幾つも潜んでいる。


「――で、この箱だけが残った、と」


 腕組みをして棺を眺めていたエリウがぽつりと言った。

 青、赤、緑。

 彼女の漆黒の髪に、薔薇窓を通して差し込む光が映り、揺れている。


「ま、盗まれなくてよかったじゃないか」


 聖女の棺を箱扱いする。

 この場には神殿長と修道院長もいたが、彼女の物言いをとがめだてることはなかった。


「で、何を盗まれた?」

「この棺のレプリカと、中に納められておりました聖遺物の花嫁衣裳が一式」


 グエン神殿長が静かに答える。

 婚礼を控えた乙女がそこで眠っているかのように、ふうわりと永遠の寝床に横たえられたそれは、最もよく知られた聖女の遺品であった。一般の礼拝者たちにも公開され、訪れる者たちは必ずここで祈りを捧げてゆく。


 ――むべきかな、癒やしの乙女。

   尊ぶべし、その御業みわざ

   清麗なる魂よ。

   御身おんみよりあふれるその慈愛もて、我らを苦しみから救いたまえ。



 聖女の力にあやかりたい者たちが、すがる思いで指を組み、一心に聖句を唱える。閉じた目から涙が頬を伝ってほとほとと冷たい石の上に滴り落ちる、そんな光景も珍しくはない。


 そんな、この神殿の『心臓』とでもいうべき聖遺物を失った。

 だが、老神殿長はいたって平静であった。その挙措きょそには動揺など微塵みじんも感じられない。


「怪我をした者はおりません。建物や調度品の損傷も軽微けいびなものでありました」 


 修道院や聖堂内で、煙玉けむりだまの残りかすが幾つも見つかった。他に屋内で火をいた形跡はない。神の家を本気でそこなう気が無かったことがうかがえる。

 何年も前から入り込み、ここで聖女の墓所に奉仕しながら周到しゅうとうに機会を待っていたのだろう。


 聖なるものを盗み出す行為は大陸各地で横行していると聞く。

 聖職者自らが盗みに手を染めることもあれば、金銭で依頼された俗人が行なう場合もある。『聖なる』という冠言葉がつけられた盗みは、成功すれば神々や聖人の御心に沿う行為だと声高こわだかに主張され、正当化される。そうして堂々と神殿や修道院に迎え入れられ、うやうやしくまつられて、善男善女ぜんなんぜんにょの崇拝を集めるのだ。

 聖女の遺物がこんな辺鄙へんぴな島に納められていることを、海の向こうの聖職者たちはずっと忌々いまいましく思っていた。


 ――大陸のものは大陸に。


 の人々にとってそれは当然のことわり


 ――聖女の御霊みたまを、故郷の地にお戻ししなくては。


 今まで手をこまねいていたのは、盗み出す隙がなかったからだ。


「思ったより早く動いてくれたな」

「あの娘の到着は、前もって神殿内に周知してありましたからな。聖廟の守りが一層固くなる前に、とあちらも焦ったのでしょう」

「どこの手の者だ?」

「さあ、そこまでは断言いたしかねます」


 単なる無法者の仕業ではあり得ない。確かなのはそれだけだ。

 それまでエリウとグエンのやりとりを黙って聞いていたミルトーが、ひっそりと口を挟んだ。


「尼僧が二人、行方が分かりません。賊にさらわれたか、あるいは―――」

「その二人が手引きをしたということだな。分かりやすいことだ。身元は?」

「対岸の、スキミアの出だと聞いております」

「やはり大陸の者か」

「申し訳ございません。わたくしの監督不行き届きです」


 頭を垂れる修道院長に、エリウはひらひらと手を振った。


「構わない。そそのかす者はどこにでもいる。大陸にも、ここ、イニス・ダナエにもな。向こうは向こうの正義とやらにのっとっての行動なんだろう。とりあえず守るべきものは守れた。それで十分じゃないか。しかし、まあ、そうだな……」


 少しあごに手をやって考える仕草をする。


「ご聖体も奪われた、と、被害届を出しておくか」


 そのうち、どこかの組織が名乗りを上げるだろう。

 ちっぽけな島の神殿から聖女さまのご意志によって、聖遺物を救出した、と。


「あれを丸ごと持っていってくれてよかったではないか。これでたとえ、行方知れずになったとしても、こちらが責任を問われることはない」

 エリウは笑った。不敵な笑み。黒曜石こくようせきの瞳の奥に赤い火が揺れている。

 その表情が不意にゆるんだ。


「ふふ……」

如何いかがなさいました?」


 ミルトー修道院長がエリウを窺う。


「あいつを思い出した。赤毛の墓泥棒」

「ああ。あの時は驚きましたな。あなたさまが気づいて下さらなければ、あやうくあの方を罪人として裁いてしまうところでした」


 グエン神官も顔をほころばせる。いつも難しい顔を作っているミルトーまで、くすくすと忍び笑いを洩らした。

 当時は笑い事ではなかった。

 汚らしい風体ふうていの墓荒らしの少年に、高位の聖職者でさえ立ち入りをためらう聖廟の奥深くまで侵入され、あまつさえ清らかなるご聖体にまで手を触れさせてしまったのだから。


「不思議ですな。どのような魔法も、祈りでさえも効きませんでしたものを……」

「とんでもないやり方であの娘をこの世に引き戻してくれた。まあ確かに、お寝坊な恋人を目覚めさせる定番のやり方ではある」


 それぞれが遠い目をして不思議な巡り合わせを思った。


 ふと空気が動いた。

 微かな気配にエリウが顔を上げる。


「エリウさま」


 音もなく、ふわりともう一人の乙女がエリウの背後に現れた。


「イレーネか。あの男は今どうしている?」

「モリカの町に向かうようです。砦の城にアリル王子が滞在しておられますので」

「ああ、あの子のところか」

「四代目惑わしの森の隠者、ですな」


 グエン神殿長が付け足す。


「大丈夫でしょうか、あの方は……」


 言いさして口をつぐんだのは修道院長のミルトーだった。その言葉の先を読んで、エリウが笑う。


「平気平気。あの王子、悪運だけは強い。初陣ういじんをしくじって以来ぱっとしないし、若年寄りとか、森のご隠居とか、さんざんな言われようだが。あの青年も確かに『女神ダヌに愛された者』ではあるのだ」


 エリウは彼女の懸念けねんを軽くいなし、またイレーネの方を振り返る。


「ご苦労。すまないが引き続きあの子の様子を見守ってやってくれ。ときどきこちらに報告を入れるのを忘れないように」

「はい」

「では、行きなさい」


 エリウが右手を上げるとイレーネの姿が消え、そこには一匹の白い蝶が舞っていた。

 蝶はしばらくその場を漂ってから、空気に溶けるように消えて見えなくなった。

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