第9話 くるみのパンケーキをどうぞ

 小鳥のさえずりが聞こえる。

 まばゆい日の光をまぶたに感じてエレインは目を覚ました。


「ここは……」


 寝不足のせいでしぱしぱする目をこすり、仰向けのまま天井を見上げる。古びたむき出しのはりがその目に映った。

 穏やかな朝。

 霧に包まれた湖の島ではない。旅の途中立ち寄った、牛や鶏の声で一日が始まるにぎやかな村の家でもない。もちろんしんと静まり返った修道院の一室でもない。あの居室には一晩といなかったから、天井の作りなどまるで覚えていないけれど。


「目が覚めたかい?」


 少し開いたドアの陰から、女の声がした。


「は、はい」


 反射的に振り返り、姿の見えない相手に返事をする。


「それじゃ、朝ごはんを用意したから、椅子の上に置いてある服に着替えておいで。男物で申し訳ないが、うちには若い娘さんが着られるようなものがないのでね」

「分かりました。ありがとうございます」


 ぱたん、とドアが閉められ、声の主がドアから離れていく気配がした。若いのか年をとっているのか、声からはさっぱり分からない。

 エレインは指を組んで大きく伸びをすると、周囲を見渡した。

 ここは客用の寝室だろうか。それともこの家の主のものか。窓からたっぷりと太陽の光が差し込んで、明るく、暖かい。

 木の壁にはドライフラワーの束が幾つもぶら下がっていて、優しい香りを漂わせている。隅には姿見の鏡が立てかけてあった。

 修道院の石の部屋よりは狭いが、ずっと居心地が良い。


「よいしょ、っと」


 体のあちこちが痛む。ひどく揺れる馬車の中でほとんど一昼夜を過ごしたせいだ。

 そうっとベッドに座り、床にきちんと揃えられたサンダルに足を入れる。自分でベッドに入った記憶はないから、誰かが運んでくれたのだろう。


(もしかして、聖騎士さまが?)


 頬がかっと熱くなった。なんて畏れ多いことだろう。気づかずに眠りこけていたなんて、まるで子どもみたいだ。


(仕方ないよね、あの状況じゃ)


 ふるふると首を振って自分に言い訳をし、サンダルをいて立ち上がる。

 すぐ脇に木の椅子があって、きちんと畳まれた衣類がのせられていた。若草色の布を広げてみると、言われた通り男物のチュニックだった。たんぽぽの花のような黄色い糸で、繊細な植物の模様が織りこまれている。

 一目見れば分かる。かなり高価なものだ。少し心がひるんだ。

 ためらいながら、白いラシャ織りのシャツに袖を通す。肌に心地よい。

 ズボンの丈はさすがに長いので、ふくらはぎに革紐を巻いて調節する。頭からチュニックをかぶると、長い裾にすねが半分隠れた。

 もともとこういうデザインなのだろうか。腰から下は両脇が縫われていない。動きやすいのは確かだ。

 歩いてみると裾がひらひらする。なんだか楽しい。

 二、三度鏡の前でくるくる回って、はっと我に返り、急いで髪を後ろでひとつに束ねると、おずおずとドアを開いてそっと隣の部屋をのぞいた。


「あの……」


 おずおずと顔をのぞかせたエレインに、六つの目が向けられた。


「おや、可愛らしいじゃないか」

「よかった。なんとかなったようですね」

「ふうん。その格好もなかなかいいな」


 三様さんようの評価に頬を染めるエレインに、ほっそりとした青年が近づいてきた。


「初めまして、エレインさん。ようこそ惑わしの森へ。僕はアリル。この庵の四代目を務めています」

「あ、あの、お世話になります」


 深々と頭を下げてから、改めて主を見上げ、きょとんと首をかしげた。

 くすんだ灰色の髪を後ろでひとつに束ね、瞳の色と同じ藍色のチュニックを着たその人物は、まだ若かった。


「あの有名な、森の隠者? 真っ白な、胸まで届く髭のあるおじいさんだとばかり……」


 それにアリルという名には聞き覚えがある。どこで聞いたのだったか。


「ああ、それは初代のイメージですね」


 青年は苦笑して、ちらと背後をうかがった。一瞬、鉛色の髪が陽の光に反射して白銀に輝いた。


「ついでに言うと、あちらが三代目隠者、フラン。僕の師匠でもあります。あなたには何と名乗ったか知りませんけど」

「だから、『赤毛のフラン』はあそこでは禁句なんだってば」

「それは自業自得でしょう。よりによって初代神官の幼名を名乗るなんて」

「俺の兄貴の名前がヨハルだったんだよ」

「あなたに兄弟なんていたんですか」

「いたら悪いか」

「てっきり木の股から生まれたのかと」

「言ってくれるじゃねえか、おい」


 仲の良い師弟の心温まる会話を、エレインは呆然と眺めていた。


(聖騎士さまが、隠者?)


 こちらも『隠者』という言葉の響きとは程遠い。


「そして、あちらが僕の同居人、シャトンです」


 日当たりのよい窓際のチェストの上で、白っぽいグレイに縞の入った猫が「にゃあ」と鳴いた。


「どうぞ、こちらへ」


 身動きもままならないエレインを、アリルが自然な仕草しぐさで食卓にエスコートする。

 庵の中は暖かく、美味しそうな匂いに満ちていた。

 テーブルの上にかけられたクロスは、森の紅葉を切り取って広げたかのよう。その上に銀色のナイフとフォークが置かれている。

 貴婦人のように椅子を引いてもらって、エレインは席に着いた。


「あまり食材のストックがなかったので、これぐらいしかできなくて。クルミのパンケーキです」


 アリルがエレインの前に皿を置いた。

 鮮やかなクロスに白い皿が映える。皿の上には四つ折りにした薄いパンケーキが三枚重ねられていた。

 クルミをってあらく砕き、泡立てた卵に小麦粉を合わせた生地の中に混ぜ込む。それを鉄板の上に流して、丸く形を整えただけの素朴なケーキ。

 だがよく見ると、三角にたたまれたパンケーキは一枚一枚色が違う。


「シナモンとカカオで、少し変化をつけてみました」

「これは全部アリルさんが?」

「はい。夜中に誰かさんが腹が減ったと騒ぐので」


 そこにもうひと手間。

 エレインの目の前で、アリルがとろりとした金色のハチミツをかけ、赤いクコの実を飾った。


「きれい」


 思わず溜め息がれた。早く食べたい。でも、食べるのがもったいない。

 素直な賛辞さんじに、アリルは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。お口に合うといいのですが」


 なんて贅沢な朝ごはん。まるでお姫様になったかのような気分だ。

 アリルがれてくれたお茶を一口飲んで、温かいパンケーキにナイフを入れる。


「よろしければ、こちらもどうぞ」


 刻んだパセリを浮かせたタマネギのスープ。

 ジャガイモのオムレット。

 次から次へと、魔法のように取り出される料理にエレインは目をみはった。


「あの、こんなにたくさん?」

「ええ。誰かさんがパンケーキだけでは足りないとおっしゃるので」


 前髪をかき上げながら、アリルが横目でじろりとフランをにらんだ。睨まれた当の本人はどこ吹く風といった顔であさっての方を見ている。


「俺としてはチーズと干し肉の切れ端で十分だったんだが。作るにしてもブラウンブレッドあたりで。あと欲を言えば、生命の水ウィスキーの一杯もあれば――」

「お酒をたしなむ習慣がありませんのでね。それに、人間が調理したものを野生動物に食べさせてはいけないって教えてくれたのはあなたでしょう。だから気をつけてるんですよ。ぼくの留守中に間違いが起こらないよう、ここにはハムもチーズも置いていません。もちろん、砂糖もね。ミルククリームもヨーグルトもないから、ブラウンブレッドも作れません」

「食いもんくらい、自分ちの台所から持ってくればいいだろう」

「嫌ですよ。明け方に厨房ちゅうぼうをあさるなんて」

「あ、あの……ごめんなさい」


 思わず謝罪の言葉が口をついた。青年が驚いたようにエレインを見る。


「なぜあなたが謝るんですか。悪いのはこの男なのに」

「指をさすな。師匠をつかまえて、この男呼ばわりかよ」

「師匠と呼ばれたかったら、もっと師匠らしくしてください」


 ふう、と窓際から聞こえよがしな溜め息が聞こえた。


「放っておきな。この二人はいつもこんな感じなんだから」

「はい」


 と返事をして、何気なく声の主の方を振り返って気が付いた。


(あれ?)


 声の方向には誰もいない。というより、正確には人がいない。

 窓際のチェストの上で、箱座りをした猫が大きなあくびをした。


「先に食事を済ませておきなよ。込み入った話はそれからでも遅くないだろう?」


 猫だ。猫がしゃべっている。けれど確かにこの声はさっき寝室で聞いたのと同じ声だ。


「はあ、そうですね。では、いただきます」


 もう何に驚けばいいのか分からない。

 遠慮の無い会話を交わす仲の良い男たちを眺めながら、エレインは幸せな気持ちで朝ごはんをいただいた。


 くるみのパンケーキは、今までに食べたものの中で一番美味しい、と思った。

 飲み込むのももったいない。もっとゆっくり味わいたいのに、ケーキはふんわりと柔らかく、甘くとろけてあっという間になくなってしまう。


(こちらがシナモン)


 癖のある香りと、ピリッと舌に残る刺激。何かにたとえようにも、今までに食べたことのあるものの中にこれに似たものはなかった。


(こちらがカカオ)


 香ばしい苦みがある。

 カカオはチョコレートの材料になるのだそうだ。

 チョコレートなんて高価なもの、滅多めったに口にする機会はない。この前食べたのはいつだっただろう。


(あれ?) 


 ケーキが刺さったままのフォークを手に、ふと首をかしげる。


(あたし、チョコレートなんて食べたことあったっけ) 


 不意に、小さな木箱が脳裏に映った。

 赤いリボンがかけられたその箱を、誰かが手のひらにのせて自分に差し出している。

 これはいつの記憶だろう。

 リボンが解かれ、箱の蓋が開くと、黒くて丸いお菓子が三つ並んでいた。


(お父さま?)


 なぜ、そう思ったのだろう。

 あの手は父のものなのだろうか。

 分からない。自分は家族を知らない。出自も定かでない、湖の貴婦人の拾いっ子だから。

 ほろり、と涙が一粒こぼれ落ちる。一度流れ始めると、もう止めることはできなかった。


「どうしたんだい?」


 シャトンがチェストから下りて、軽やかにエレインの膝に飛び乗った。心配そうに少女の顔を見上げる。

 ――と、傍らでずっと続いていた大人げないやりとりが、ぴたりとやんだ。


「だ、いじょうぶ、です。ごめん、なさい」


 しゃくりあげながら、エレインは何とか声を絞り出した。


「ちょっと、いろいろ、思い出して…。そうしたら、こうなっ、て、しまって」

「かわいそうに」


 濡れた頬にざらりと猫の舌が触れた。


「短い間にいろんなことが起こりすぎたね。食べたらもう少し休んだ方がいい」


 うん、うん、と無言で頷きながら、エレインはぎゅうっと猫を抱きしめた。


 * * *


 ――ぱたん。


 食事を終えたエレインがシャトンを腕に抱いたままドアの向こうに姿を消すと、男ども二人は腹の底から息を吐き出した。


「この世で最強の武器は乙女の涙だというが、ありゃあ真実だな」


 ぼそりとフランが呟く。


「アレをやられるともう手も足も出ないどころか……頭の中が真っ白になっちまう」


 その言葉にアリルは深々と頷いた。


「不本意ですが、激しく同意します」


 しばし沈黙が落ちた。

 隣の部屋からは何の音も聞こえてこない。

 代わりに、窓から日差しと楽しげな鳥たちの声が居間に入ってくる。師匠と弟子はそれぞれに異なる思いを胸に抱いて、鳥たちのおしゃべりに耳を傾けた。


「あいつな……」


 先に沈黙を破ったのは、三代目の方だった。


「道中、何も聞かなかったんだ。何がどうなっているのか、とか、これからどこに行くの、とか……」

「これから自分はどうなるのか、とか?」

「うん。いつもそうだ。だから、こっちの都合ばかり優先させちまった」

「仕方ありませんよ。まずは身の安全の確保が第一です」


 がしがしと髪をかき回す師匠を見て、ついついかばうようなことを言ってしまった。

 長い付き合いになるが、こんなに落ち込む姿を見るのは初めてだ。言わずもがな、という気はしたがアリルはそのまま続けた。


「彼女が落ち着いたら、きちんと謝って、いろんなことを説明したらいいんですよ。何からどう話したらいいのか、僕も一緒に考えますから」


 白い頬に伝った涙が脳裏によみがえる。綺麗な涙だった。


(まるで、人形のような)


 ふとそんなことを思い、アリルは軽く首を振った。

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