第7話 くるくるまわる

 冷たい石の壁に囲まれて、浅い夢を見ていた。

 夢の中でエレインは湖の島にいた。

 エレインは自分の親を知らない。ニムに仕える五人の女たちが彼女の家族だった。女たちは糸車を回し、糸を染め、機を織って暮らしていた。エレインの仕事は、染色に使う植物を摘むこと、織り上がった布に刺繍をすることだった。

 一番年長の女は木のこぶのように腰の丸まった、何歳とも知れぬ老婆だった。動作はゆっくりしていたが、口は彼女が回す糸車のようになめらかだった。太古の神々の話を語って聞かせてくれた。


 ――夜空にかかる月は運命を紡ぐ銀輪アランロドの糸車。

風も雲も無い夜に耳を澄ませてご覧。カラカラと回る音が聞こえるだろう。神々でさえ逃れることができない、運命の巡る音が。


 暖炉の中で薪がはぜ、暴れた。ガツン、ガツンと大きな音がした。


 ――おやおや。誰か精霊のご機嫌を損ねるようなことをしたかね。それとも警告かね。

 

 白い煙がもうもうと暖炉口から流れ出し、生木のくすぶるにおいがして、どこからか甲高かんだかい悲鳴が聞こえてきた。 


 * *

 

 そこでエレインは夢から覚めた。

 真夜中を過ぎたころだろうか。夢でいだ煙臭いにおいが鼻に残っている。

 と、また遠くから悲鳴が聞こえてきた。

 まだ寝ぼけているのだろうか、と上半身を起こして、部屋の外の気配をうかがった。

 力強い足音が聞こえる。石の壁にこだましながら、どんどん近づいてきて


「エレイン、無事か?」


 荒々しいノックの音と同時に、血相を変えたエリウが乱暴に戸を引き開けて飛び込んできた。

 一気に煙のにおいが濃くなった。


「は、はい……」

「ああ、良かった」


 エリウはエレインを抱きしめ、ほうっと息を吐いた。

 開け放たれた厚いオークのドアから、一気に音が流れ込んできた。物が倒れる音や壊れる音。尼僧たちの悲鳴。さらに女子修道院にあるまじきことに、複数の男の話し声もする。


「あの、何があったのですか?」


 夜着のまま、慌ててベッドから下りて靴をはく。背後にあの聖騎士の姿を見つけたが、羞恥しゅうちを覚えている余裕はなかった。


ぞくだ。説明しているヒマはない。とりあえず避難する。ついて来い」


 赤い髪の聖騎士、ヨハルは声を低めて語気強く言った。エリウが壁にかけてあったマントを取り上げ、手ずから着せかけてくれた。


「ほら、フードを深くかぶって。髪を隠して。よし、これでいい」


 マントにくるまれると、突然今まで感じなかった秋の夜の寒さが身に迫ってきた。


「あ、ありがとうございます」

「行くぞ」


 ヨハルの後に続いて、騒ぎの反対方向へ。庭から木戸を通って神殿の外へと抜ける。

 振り返ると乙女の塔の方角が明るい。白い煙が赤く縁取ふちどられた空にもくもくと立ち上っているのが夜目にもはっきりと見えた。


(あれは、火?)


 足が止まる。膝ががくがくと震え出す。


(なぜ? どうして? 何があったの? 一体誰が?)


 あそこには聖女さまがいらっしゃるはず。どうしてそんな場所から火が出るのか。

 我知らず、口に出して呟いていたらしい。


「だから言ったろう。賊の仕業しわざだ、と」


 ヨハルが吐き捨てる。

 彼らが狙うもの。ここ、この神殿で一番価値のある宝と言ったら、ご聖体以上のものはない。


(そんな……)


 体が勝手にふらふらと塔に向かって動き出す。


「行くな!」


 後ろからエリウに両肩を掴まれた。細いが力強い指だ。


「そなたが案じる必要は無い」


 振り返ると黒い瞳がエレインの目をのぞき込んでいた。奥に炎とはまた別の、赤い光が揺れている。その光を見ているうちに少しずつ頭が現実に追いついてきた。


「エリウさま、裸足!」


 ふと視線を落とし、声を上げる。エリウは白いガウンをまとっただけの軽装、しかも冷たい石畳を踏みしめる足を覆うものは何もなかった。


「履き忘れた。またミルトーに文句を言われるな」


 厳格な修道院長の名を引き合いにし、彼女は優雅に笑った。ちらちら映る灯影ほかげに、美しい顔がいっそう凄味すごみを帯びる。


「そんなものはどうだっていい」


 ヨハルの声がとがった。


「エレイン、お前はここから出るんだ」


 咄嗟とっさに「はい」と答えることができなかった。事が収まるまで神殿の外に出ていろということか。


「あたし、ここにいては、いけませんか? お手伝いできることは……」


 ここに来て一日も経たぬ自分にできることは少ない。何の役にも立たないだろう。むしろ邪魔になるかもしれない。


(もしかして、よそ者だから信用できない?)


 大きく見開かれた目が潤んでいるのを見て、エリウがふっと溜め息をついた。


「そんな顔をしてくれるな。なあ、ヨハル?」

「やれやれ」


 面倒臭そうにヨハルが指を鳴らした。と、一瞬でエリウの髪と瞳の色が変わった。

 亜麻色と若草色。聖女の色だ。


「どうだ? おそろいになったぞ」


 なぜかエリウの方が得意げだ。

 それから真顔になってエレインの肩を抱き寄せる。


「時間が惜しい。今ここで説明してやることはできないが、そなたの身は危うい。夕暮れに聖女と同じ髪と瞳を持つ娘が来たことは、神殿内に知れ渡っている。もし聖女本体が手に入らなかったら、奴らはどうすると思う?」


「まさか」

 ぞくっと背中が冷えた。エリウが追い打ちをかける。


「ダナンには大陸にはない秘術があるが、大陸にもダナンにはない技がある。それはそれは恐ろしい技が、な」


 もしかしたら、今宵決行に及んだのは、聖女の奪取だっしゅに失敗した時のいい保険ができたと判断したからかもしれない。


「心配はいらない。エリンの町を私以上に知る者はいないからな。心細いかもしれないが、今だけはこの男を信用して欲しい。大丈夫。外見は胡散臭うさんくさくても、そなたひとりくらいなら守れる力がある」

「誰が胡散臭い、だ。お前の方がよっぽど――」


 エリウがパチン、と両手でヨハルの頬をはたいてその先をさえぎった。


「無駄口はいらん。この子を危険にさらしたり変なことをしたら」

「しねえよ!」

「では行け」


 くるりとエリウはきびすを返し、颯爽さっそうと混乱の渦の中へと戻っていった。


「こっちだ、来い」


 他に選択肢は無かった。男に導かれるまま、暗闇の中を走る。

 聖騎士の緑のマントを常緑樹の木立に見失いそうになる。


(夜を照らす銀輪アランロドよ、どうぞお導きを)


 石の小道が土に変わった。涙がにじむ。視界がぼやける。


「あっ」


 つまずきかけたエレインをヨハルが支えた。


「大丈夫だ」


 すぐ目の前にヨハルの顔があった。昼間とは別人のようだ。人を食ったようなふてぶてしさも、ふざけた色もない。

 こくんと頷くと男の口の端が緩んだ。優しい、柔らかな表情だった。


「お前は、いつもいい子だな……」


 大きな手が頭を撫でる。


「聖騎士さま?」


 自分を見つめる目は、なぜか懐かしい色をしていた。胸が苦しくなるほどに。


「行くぞ!」


 手を引かれて、追われるネズミのように細い通路をくるくると駆け抜ける。

 町の城壁の裏手に出ると、黒々とそびえる大きな木の下に四角い影が見えた。ほろをかけた荷馬車だ。夜と同じ色の馬がつながれている。

 ヨハルはエレインを馬車に押し上げると、御者台に飛び乗った。

 荷台の中には干し草がたっぷりと積まれている。乾いた草からは、日の光の匂いがした。

 手探りで落ち着ける場所を探していると、干し草の中に硬いものが手に触れた。エレインがすっぽり入れるほど大きな箱だった。その箱に背を預け、干し草をクッションにして座り込む。

 外からヨハルの声が聞こえた。


「強行軍になる。無理だろうとは思うが、横になって少しは体を休めておけ!」


 ガラガラと力強い音を立てて馬車が走り出す。

 外の景色を見ることもできず、どちらの方角に向かっているのかも分からない。


(分からないことだらけ)


 途中で空が白み始めたが、ガタガタ揺れる荷台の上で飛んだり跳ねたりしているエレインには、それを喜ぶゆとりもなかった。

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