第6話 エレイン

「ここが、エリンの町……」


 目の前に城壁じょうへきがそびえている。少女はぽかんと口を開けて、てっぺんを見上げた。

 少女の名はエレイン。湖の島から馬車で約一週間の旅路を経て、ようやくここにたどり着いた。

 彼女をここまで送り届けてくれた男は『沈黙のぎょう』のため、言葉を発することができない。道中宿を取ったり、物を買ったり。外の人たちと交渉するのは彼女の役目になった。

 エレインは湖の島以外の世界を知らない。彼が同行者に選ばれたのは、彼女を外の世界に早く慣れさせるためだったのだろう。四苦八苦するエレインを、男はにこにこと見守っていた。


 夕刻。

 せっかちな秋の太陽は西に傾き、エレインがぼうっと壁を眺めている間にも、人の流れはとどまることなく門の中に吸い込まれていく。

 同行者は道の端に馬車を止めてエレインを見守っていたが、そばに寄るとその肩を軽く叩き、今来た道を戻るというジェスチャーをした。彼の役目はここまでだった。


「ありがとう。みなさんによろしく」


 去っていく後ろ姿に声をかけると、男はひらひらと手を振った。

 馬車が遠ざかってゆく。ここからは本当に一人だ。


 風がしおの香りを運んでくる。初めてぐ匂いだ。

 慣れ親しんだ土地とは何もかもが違う。


(もう少し、きちんとした格好で来ればよかったな)


 エレインは自分の格好を見下ろして溜め息をついた。

 とりどりの色糸で刺繍ししゅうほどこした青いワンピースは湖の島では十分可愛らしく見えたが、門を守る衛兵の方がずっと華やかだ。どちらにしろほこりよけのマントに隠れて見えはしない。何を着ていようと大して変わりはないのだが、十七、八の娘にとっては大問題だった。

 ごそごそとポケットを探る。その中にあるのは聖地への通行手形。聖エレイン大聖堂の神殿長から彼女に宛てられた直筆の手紙だった。


(これがあれば、何も心配することは……)


 このまま突っ立っていてもどうにもならない。

 自らの心を励まし、意を決して壁に向かって歩き出そうとしたところへ


「エレインさん?」


 誰かに名を呼ばれた。


「お待ちしていました」


 はっと声のした方を見ると、ひとりの少女の姿があった。尼僧が着る灰色のケープをはおっている。

 もちろん初めて見る顔である。首をかしげると、尼僧は頬をほころばせ、ゆっくりと門をくぐってエレインの方へと歩み寄った。

 聖職者に敬意を表して、門衛たちがすっと頭を下げる。


「その亜麻色の髪と若草色の瞳で分かりました。エレインさんですよね。ようこそ聖女の町へ」


 湖の島に同じ名の女性がいなかったので忘れていた。

 癒しの聖女エレインと同じ色の髪と瞳を持って生まれた女の子は、たいてい『エレイン』という名を授けられる。エリンの町にも何人のエレインがいることか。


「イレーネです。あなたをお迎えに来ました」


 若い尼僧はそう名乗ると、にっこりと笑った。

 亜麻色より少し濃い金の髪。緑がかった青い瞳。笑うとふっくらとした頬に愛らしいえくぼができる。エレインとさして変わらない年頃に見えた。


「ようこそ、エリンへ。神殿長さまと修道院長さまがお待ちかねです」


 イレーネの後をついて、くねくねと細い石畳の坂道を登る。大聖堂は神殿の敷地の真ん中、丘の一番高いところにある。高い丘ではないが、石造りの家々が立ち並ぶ中をうように続く小道は、頭がくらくらするほど長かった。

 みぞおちを圧迫されるようなに不快な感覚を覚え、エレインはイレーネの背中だけを見つめて歩いた。


「みなさま、あなたの到着をとても楽しみにしていらっしゃるんですよ。今朝はもう、夜が明ける前から気もそぞろで」


 歩きながらイレーネは小鳥がさえずるような声でほがらかに話し続けた。

 話す言葉に微かながら耳慣れないアクセントが混じる。この少女は遠方、もしかしたら大陸の方から来たのかもしれない。

 途中、小さな井戸で喉を潤し、一息ついてから、また丘の頂上を目指す。


 二つ目の城壁が現れた。人の背丈ほどの低い石垣だ。


「こちらです」


 イレーネが小さな木の扉を示す。ここが聖女エレインの御座所、大神殿への入り口。無事目的地にたどり着いたようだ。

 門番はいない。関係者だけが使う通用門なのだろう。

 イレーネに促され、恐る恐る扉の中へと足を踏み入れる。と、いきなり視界が開けた。

 淡い朱に染まった空が頭上に広がる。

 やっと深呼吸ができる。

 胸いっぱいに空気を吸い込むと、甘酸っぱい林檎りんごの香りがした。


「こちらが乙女の塔。聖女様のご聖体が安置されています。礼拝堂は一般の方にも開放されています。神殿横の建物は修道騎士の方々のお住まいと鍛錬所たんれんじょ。その向こうが女子修道院です。お部屋は修道院の中にご用意しましたから、あとでご案内しますね」



   正しき者の眼は ただ真実を見

   その美しき唇は 愛を語る

   幸いなるかな 祝福を受けし者よ

   はかなき命と引き換えに

   気高き薔薇ばらの冠を受けたまえばなり

   ああ 高きところにおわす御方よ あわれみたまえ

   き道を歩む者が 暗き道に迷わぬように

   聖なる炎よ 行く手を照らしたまえ

   おお 清らかな薔薇よ

   荒れ野に咲く 誇り高き薔薇よ

   我ら迷い子のしるべ



 古風な旋律が聞こえてくる。清らかな歌声は尼僧たちのものだ。

 最後のフレーズで四つの音が和声となって重なり、薔薇のつるが絡み合うような、聴く者を天上に誘うような調べとなった。

 白い薔薇は聖女エレインに捧げられた花である。イニス・ダナエでは古くから『清らかな魂』とともに『死』を象徴する花でもある。

 聖なる癒やし手、聖女エレインの遺体は生前と同じ姿を保ち続けていると聞く。死後いくらも経たないうちに彼女が列聖れっせいされた所以ゆえんでもあるのだが、大地の女神ダヌの島に暮らす者たちからすれば、土に還ることができないというのが幸せだとはどうしても信じられない。

 確かに他の者とは違うのだとは分かるし、神に選ばれたあかしなのだろうが、もし自分が同じ身の上になったら、それを神の祝福だと心から喜べるだろうか。

 ちょうど入り日の刻限、空が朱に染まる。

 肉の器をこの世においたまま、聖女の魂は落日の向こうの国で薔薇の花に囲まれて安らいでいるのだろうか。


 石畳を踏み、歩を進める自分の足を眺めながらエレインが思いに沈んでいると、対面から駆け寄る者があった。


「待ちかねていたぞ、私の可愛い子!」


 背の高い女性である。古びた皮のマントを軽くはおったその肩に波打つ髪は漆黒。うっすらと細められた瞳も闇の色だった。すらりとした長身にまとう不思議な空気はどう表現したら良いのだろう。頭皮がぴりぴりとする緊張感。ある種の危険をはらんだ威厳いげんとでもいおうか。

 若草色の目をぱっちりと見開いたまま瞬きすら忘れたようなエレインに、黒髪の女はにっこりと微笑んだ。


「ようこそ、エレイン。私はエリウだ」


(エリウ、妖精女王の?)


 やはり、という思いと、まさかという驚きが交錯こうさくする。


 エリウの丘も緑玉ジェイドの島も、日頃から人と人ならぬものがともに暮らす場所だ。だが彼女があの島で暮らしていた間、妖精の気配を感じはしてもその姿を目にすることはまれであったし、まして女王がこのように気安く人に姿を見せることはなかった。


「あ、あの。初めまして」


 とっさに気のいた言葉も思い浮かばず、エレインはひょこっと頭を下げた。

 エリウは満面の笑みを浮かべて、力強い両腕でエレインを抱きしめた。突然の出来事にエレインは呼吸を忘れた。


「ああ、どれほどこの日が待ち遠しかったことか!」


 薔薇の香りがする。心が真っ白になり、体からふわあっと力が抜けていく。

 かたわらでイレーネがくすくすと笑った。


「まるで妹を甘やかす姉のようですね」

「そうか。この子が本当に妹だったらよかったのに」


 身を離すとき、エリウの胸からまたふわりと薔薇の香りが漂った。


「では、あちらで待っている」


 現われたとき同様、あっという間にエリウが去ってしまうと、イレーネに連れられてまた石の回廊を歩いた。

 石造りの建物の内側はどこも静かであった。湖の森も静かだったが、その静寂とはまるで性質が違う。

 わずかばかりの荷物を自分の居室に置き、朝と夕に皆が集まって食事をとる食堂の前を通り、すれ違う尼僧や神職の者たちと笑顔で無言の会釈えしゃくを交わし――。

 目に映る景色はどこもかしこも整然として似通っていた。


(町の小道と同じだ) 


 同じ場所をぐるぐると回っているようで、エレインは酔いに似た目眩めまいを覚えた。


 どこをどう通ったのか。気づくと、いつの間にか礼拝堂の中に立っていた。

 がらんとしたひとのない空間。正面に祭壇があり、両手を広げ微笑む聖女の像がロウソクの灯りに照らし出されている。夕焼けの名残なごりと昇り始めた満月の光が、薔薇窓を通って石の床に淡い彩りを落としていた。


「湖の島より、ご到着です」


 イレーネの声がふわあんと周囲の石壁に反響する。

 広間の中心に緑の色石でクローバーが描かれている。その上に三つの人影があった。


「ご苦労でした。あなたはもう下がってもよろしいですよ」


 小柄な人物が声を発した。年をとった女性の声だ。イレーネが一礼して礼拝堂から退出してゆく。エレインは急に心細くなった。


「亜麻色の髪と若草の瞳を持つ乙女よ、ようこそおいでなされた」


 中央の人物が、ゆっくりと口を開いた。エレインの不安を察してのことだろう。口調は穏やかで、幼な子に対するかのようだった。


「私はこちらの神官にして神殿長、グエンと申す者です」


 背の真ん中まで届く長い白髪と口元を覆う豊かなひげ。老いてはいるが、細められた優しげな眼には若々しいきらめきがある。

 大陸風の裾の長いチュニック、赤い肩布ストラ。金属製の額飾りには、女神ダヌを表す渦が彫り込まれている。手にするのはこれもダナンの賢者と同じく、先がぜんまいのように渦を巻く木の杖であった。そのよそおいの中に、ダナンと大陸の調和があった。


「こちらが修道院長のミルトー」


 グエン神殿長が心もち顔を右に向けると、先ほどの女性がひそやかに頭を下げた。イレーネと同じ灰色のケープをはおり、フードを被っている。せぎすで首が鶴のように細い。


「そしてこちらが、聖騎士ヨハル」

「よろしく。愛らしい聖女さま」


 背の高い男が、腕組みをしたままエレインに向けて軽くウィンクをした。赤い髪は短く、髭はきれいに剃り落とされている。琥珀色の瞳がいたずらっ子のように輝いていた。

 神聖な場にそぐわない行為をとがめるかのように、修道院長が視線を走らせこほんと一つせきをする。男は肩をすくめたが、まるで恐れ入ってはいなかった。

 聖騎士とは修道騎士とは異なり、世俗にあって高位の聖職者を守る任を負う。

 チュニックは修道騎士と同じく灰色で丈が長く、胸にはサークルと十字を組み合わせた模様が白く染め抜かれている。深緑のマントに留められた金のヒイラギの飾りが聖騎士の印だ。

 だが、この出で立ちそのものが、どうしてだかこの男には似合っていないような印象を受けた。

 長旅をねぎらう言葉と、湖の島の近況についての会話がひとくさりあって、それで最初の面談は終わりだった。


「手紙では詳しく知らせることができなかったが、そなたにはこれから大切なお役目をお願いしたいと思っているのだ。しかし今宵こよいはここまでにしよう。夕餉ゆうげをとり、湯を使って休みなさい。分からないことがあれば、イレーネが教えてくれるだろう。遠慮せずに頼りなさい。しばらくここで暮らしてみて、不都合やつらいことがあれば言いなさい。望みに沿うよう計らうゆえに。よろしいかな?」


 神殿長は最後に確認するかのようにエリウの方をうかがった。エリウが鷹揚おうように頷く。

 エレインはひっそりと頭を垂れた。


「どうぞよろしくお願いいたします」


 明日からは今までと違う生活が待っている。

 清潔なシーツにくるまって眠りに落ちれば、夜はあっというまに更けてゆき、朝日と共に新しい日々が始まる。


 ―――はずであった。

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