第5話 聖女の守護者

 アンセルス、エリンの町。

 エリウの丘に建つ聖エレイン大聖堂は、今日も多くの信者を迎えてにぎわっている。

 だが、限られた者しか立ち入ることを許されぬその深奥部しんおうぶは、期待を含んだ静かな緊張感に満ちていた。


 乙女の塔の地下、聖なる墓所。

 ひたひたと裸足の足が石の床を踏む。


「エリウさま」


 老神官は、せわしなく行ったり来たりを繰り返す背の高い女性を目で追いながら、ひっそりと声をかけた。


「もう少し落ち着いてくださいませ」

「これが落ち着いていられるか、グエン」


 エリウと呼ばれた女性は、きっ、とその神官を振り返った。長い黒髪がふわりと流れる。


「あの子が帰ってくるのだぞ。ああ、何年振りだろう」

「そうですなあ。かれこれ十年以上…いや、もう二十年近くになるでしょうかな」

「十八年だ」


 指折り数えるグエン神官に声を被せ、きっぱりと訂正する。

 今日は待ち人が到着する予定の日だった。

 待ち人は『湖の島』からやってくる。


「かわいそうに。あのようなじめじめとした辛気しんき臭いところに十八年だぞ。よくぞ我慢したものだ」


 エリウの遠慮のない言いざまに、神官は苦笑した。


「またそのようなことを。閑静かんせいで心地よく、住みよいところでございますよ」


 エリウは軽く鼻にしわを寄せた。


「お前もあそこで修行をしたのだったな。世捨て人と変人しかいなかっただろう。若い娘が暮らすところじゃない」


 *


 その湖を空をゆく鳥の目で見たならば、巨大な銀色の蛇が深緑の宝玉を抱いているように見えるであろう。ただし、晴れていれば、の話である。

 『貴婦人の湖』と呼ばれるその湖は、一年を通じて霧がかかっている。湖の主はニムという。水の精霊たちをべる妖精女王だ。

 湖の中央にある緑玉ジェイドの島はいにしえより修行地として名高く、この地に満ちるエネルギーと遙か遠い世から蓄積される豊かな智を求めて、各地から多くの宗教者が訪れる。

 ダナン全土、そして大陸からも。

 しかし、ニムの許しが無くば、何人なんぴとたりともこの魔法の地に立ち入ることはかなわない。

 あがめる神は問わない。資格ありと認められた者の前にだけ、島から迎えの船が現われる。

 外界からの訪問者たちはお互いに交流を持たず、各々おのおのが志のままに師を得、それぞれの場所で課せられた勤めに励む。師と仰ぐ者は人とは限らない。人でないものであったり、自然そのものであったりすることもある。

 そもそも、の島には天を突く尖塔せんとうを持つ神殿も、大勢の人間を収容する礼拝堂もない。祭壇は必要な場合にのみ森の木立の間に作られ、用が済めばすぐに取り払われる。多くの人間を抱え、それでも島の静寂が破られることはなかった。


 一方エリンは、若々しい活気に満ちた町である。

 ただし、人が住むようになったのはせいぜい百年かそこら。聖ヨハネスによって大陸から新しい宗教がもたらされ、丘の上に聖女のための霊廟れいびょうが置かれてからのことである。

 エリウの丘も太古から妖精たちがり所とする土地であったが、ヨハネスは妖精たちを追い出すような真似まねはしなかった。一説によるとイニスダナエの出身であったという彼は、新しい宗教を布教するために既存きぞんの神々を排斥はいせきするより、共存の道を選んだ。

 人が増え、聖堂の周囲に次々と宗教施設が建てられ、町ができ、小さな丘がすっぽりと人間の営みにおおわれても、妖精たちの住処すみかは残った。


 丘の上から東の方を望むと海が見える。なだらかな半円を描く湾にダナンで最も大きな港があり、そこから丘のふもとまで馬車が三台は並んで走れるほどの広い道が伸びている。その道は海の向こうからやってきた人や物を運んでくる。港の賑わいはそのままこの町に持ち込まれた。人の営みが生み出すエネルギーは、人には預かり知れぬことではあったが、人ならぬものたちの力となった。

 

 *


「あの馬鹿が――」

 エリウが小さく舌打ちをらした。


「あの馬鹿が、あんなことをしでかさなければ。あの子はもっとおだやかに目覚め、ここで娘らしく楽しい時を過ごすことができたであろうに」

「それは……」


 老いた神官は続く言葉を持たなかった。彼女の『時』に対する感じ方は人とは違う。あの一件がなければ、自分が『目覚め』に立ち会うことはできなかったはずである。

 エリウの言う『穏やかな目覚め』はいつ訪れるとも知れない未来にあり、そのときすでに自分は落日の彼方に旅立っているであろう。


 会話が途切れ、二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。

 と、静かな足音がして


「ご到着です」


 けわしい表情をした尼僧がその沈黙を破った。


「来たか!」


 エリウの表情がぱあっと明るくなる。身をひるがえしてそのまま駆けて行こうとする背中へ、尼僧が声をかけた。


「せめてくつをおきくださいませよ。あなた様には必要なくとも、人の女子おなごは裸足でそこらを歩き回るものではないのです」

「分かっている!」


 遠くから返事が返ってきた。神官は苦笑し、尼僧はやれやれといったふうに首を振った。そうして二人は顔を見合わせて頷くと、ゆったりとした足取りで後を追った。

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