第一章

第3話 幸せの黄色いかぼちゃプリン

 ――むかし、昔のお話です。

 

 ある男が女神の娘である女王と結婚して王になりました。そして二人の間には輝くばかりに美しい女の赤ちゃんが生まれました。

 女神に仕える僧たちが祝いの角笛を吹き鳴らし、城からの知らせを受け取った者たちが次々とお祝いに訪れました。

 聖樹の賢者がお姫さまの額に手をかざしておごそかに告げました。


「その魂がいつも清らかであるように」


「私はこの子に知恵を贈ろう」と、ハシバミが言いました。

「私は愛に満ちた心を贈ります」と、リンゴの木が言いました。

「私は金色に輝く笑顔を贈りましょう」と、エニシダの花が言いました。


 猫妖精ケット・シイはしなやかな身のこなしを。

 人魚メロウは心をとろかす歌声を。


 小さな王女さまはたくさんの贈り物のおかげで、世界で一番幸せな女の子になるはずでした。


 さて、国中が喜びに包まれているとき、たった一人だけ不機嫌な顔をしている者がいました。それは年老いた変わり者の沼の妖精でした。

 深い泥の底で眠っていた彼女に角笛の音は聞こえず、このすばらしい知らせをわざわざ届けてやろうという親切な者もいなかったのです。

 もし、沼地のあしに巣をかけるヨシキリがおしゃべりでなかったら。もし、そのおしゃべりが偶然沼に住むナマズの耳に入らなかったら。ナマズがわざわざ泥に潜って妖精に教えてやらなかったら。話はもっと違うものになったでしょう。

 ともあれ、彼女は招かれもしないのに城にやって来て、シラカバのゆりかごを覗き込んでこう言いました。


「おやまあ、可愛い女の子だこと」


 その声はヒキガエルのようにしわがれて、たいそう気味悪く聞こえました。


「それじゃあ、あたしもこの子に贈り物をやろう。いつまでもこの美しい魂がこの世で輝き続けますように」


 王さまと女王さまは、ほっとしてお互いに顔を見合わせました。どんなひどいことを言われるかと、びくびくしていたのです。もしかしたら、気まぐれな妖精も赤ちゃんのあまりの愛らしさに機嫌を直したのかもしれません。

 そんな風にみんなが思っていると、


「さあ、これで入り日の向こうに行く道が閉ざされてしまったよ。この子の魂は永遠に『安らぎの野』にたどり着くことができないのだ。ああ、おかしいねえ」


 魔女は耳障りな笑い声を上げると、ぴゅうっと窓から夜の空へと飛んで消えてしまいました。

 こうして、お姫さまは、生まれてすぐに不死の呪いをかけられてしまったのです。


 * * *


 そこまで読んで、シャトンはぱたんと本を閉じた。

(まったく、もう。ゆっくり本も読めやしない)

 物語の世界にひたることができない。彼女の邪魔をするのは、同居人が唱える珍妙ちんみような呪文だ。


「……ル・オ・イスィーーク……、ナーレ・オ・イスィーク」


 ケイドンの森に、ひとりの若い隠者がいた。名をアリルという。

 古ぼけた灰色のローブに身を包み、フードを目深まぶかに被った青年隠者は、かまどに向かって両手をかざし、何やらぶつぶつとつぶやいている。

 火に掛けられた鍋はぐらぐらと煮立ち、噴き上がる蒸気でふたがコトコト踊っている。


「大丈夫なんだろうね」


 本をきちんと棚に戻し、お行儀よく長椅子に座り直すと、シャトンは一心不乱に怪しげな呪文を唱えるアリルに問いかけた。

 ぴたり、と呪文が止まる。

 厚い手袋を両手にはめて鍋を竈から取り出し、そうっと蓋を上げる。

 と、白い蒸気の塊がアリルの端正な顔を直撃した。


「ぶっ!」


 思わず、アリルは蓋を放り出して顔を背けた。ゴトンゴトン、と木の蓋が床の上で跳ねる。


(あーあ……)

 シャトンは呆れたように溜め息をついた。


「火傷をするんじゃないよ」

「はい、大丈夫です」


 透明な声が答えた。

 鍋の中には白い布にくるまれた丸い塊がほこほこと収まっている。それを両手でそうっと抱え上げて調理台に置き、慎重に布の結び目をほどく。中からベージュ色をした丸い物体がごろんと転がり出た。

 ふう、と額の汗をぬぐうと、アリルはにっこりとシャトンに向かって微笑んだ。


「これでよし。あとは冷めるのを待ちましょう」


 手順は間違えなかった。途中、不測の事態も起こらなかった。爆発もしなかった。

 ほんのり青臭くも甘い香りが成功を物語っている、はずだ。 

 傍らの椅子に腰をかけ、かくんと首を背もたれに乗せて一息つく。ぱさりとフードが落ち、くすんだ銀灰色の髪がこぼれた。一応束ねてはいるが、乱れて首筋に張り付いている。形の良い額から吹き出した汗が頬を伝い、ぽたぽたと床にしたたり落ちている。

 ぐったりと目を閉じて天井を仰ぐ青年に、シャトンは声をかけた。


「窓を開けてもいいかい」


 部屋の中が蒸し暑い。


「はい、お願いします」


 ぽん、と音を立てて窓が外側に開き、閉じ込められていた湯気が嬉しそうに逃げてゆく。庵の中に涼しい風が吹き込んできた。


「やれやれ、半日仕事だったね」


 シャトンは窓辺から降りると、テーブルの脚に体をすりつけた。


「たかがプリン一つ作るのに、大げさなこった」

「たかがプリン、じゃありません。スペシャル・パンプキン・プティングです」


 一音一音に力をこめてアリルは反論した。


「農家の方々が心をこめて育てたカボチャと小麦。愛情を注いで育てた鶏や牛からとれた卵と牛乳。これは言ってみれば、みなさまの汗と涙と愛情の結晶。あだやおろそかに扱ってはならないのです」


 カボチャの頭を落として種をくりぬき、十種の具材を練り込んだプディングベースを詰め、じっくり蒸した自信作。皮ごと食べられて無駄がない。

 野菜嫌いのお子さまにもご満足いただけるよう、ハチミツたっぷりのスイーツ仕立だ。


「ふうん、シナモンを使ったね」


 くんくんと鼻をうごめかし匂いを嗅ぐと、シャトンは横を向いて「くしゃん」とひとつ可愛いくしゃみをした。

 窓際の一番陽当たりのよいところに、鉢植えのハーブたちが行儀よく並んでいる。その中にはシナモンやバニラ、ジャスミンといった南国出身の若苗が交じっている。珍しくアリルが自らの特権を駆使くしして手に入れたものだ。

 この島には向かない植物たちを見守り、日々の生育状況を彼に報告するのは彼女の役目だった。


「ええ。あなたにはとても感謝していますよ、僕の天使」


 床に座り込んで、相棒の白い小さな両手を握りしめる。その手はビロードよりもなめらかで柔らかい。


「ああ…、このしっとりと柔らかな中にも弾力のある感触。クセになってしまいます。というか、一度握ったらもう放せません」


 頬ずりしようとしたところに、シャトンがパンチを繰り出した。


「痛っ!」


 爪がアリルのあごをかすめた。つうっと一直線に血がにじむ。


「ああもう、うっとうしい。さっさとその暑苦しいマントを脱いで汗をお拭き」

「はいはい。手厳しいですねえ」

「はい、は一回」

「……はい」


 しぶしぶながらも素直に返事をし直して、アリルはローブを脱いだ。

 下に着ているのは薄茶のシャツと黒っぽいズボン。シンプルな普段着だ。ローブは先々代の遺品である。これを脱いでしまうと、隠者のイメージからはほど遠い平凡な青年に戻ってしまうのが不本意だった。


(せめてこの庵の中では隠者気分を味わっていたいんだけどな)


 四代目『惑わしの森の隠者』、アリル。性別、男。二十一歳。独身。恋人なし。

 相棒の名はシャトン。性別、女。六歳。独身。右に同じ。


 淡いしまの入った長いしっぽをくるりと足元に巻いて上品な姿勢で座っている彼女は、一見いっけんいたって普通の白っぽいサバ猫だが、実は神話時代の獣、伝説の魔法動物である。

 魔力を持ち人間の言語を解する。ただし、彼女が発する音声を言葉としてを聞き取ることのできる者はほとんどいない。

 三代目がアリルを後継者に指名したのも『シャトンと話ができるから』というのが大きな理由であった。


「で?」


 しなやかにジャンプして小さなテーブルの向かい側、専用の椅子に座るとシャトンは相棒に問いかけた。


「これからこの大きなカボチャはどこに行くんだい? アタシの分も当然あるんだろうね」


 テーブルにはラベンダーの花で染めたクロスがかけられ、銀色のミルクピッチャーに秋スミレが飾られている。


「やだなあ。もちろんありますよ」


 アリルは口をとがらせた。白いカップに熱い紅茶を二、三滴垂らし、ミルクをたっぷり注ぐ。


「この僕が、あなたの分を忘れるはずがないでしょう」


 猫舌の彼女のため、ミルクはぬるめに。自分のお茶はミルクなしで。

 カップと揃いの白い皿の上には、黄色いお月さま。

 その上にとろりと白いクリームを垂らす。お月さまにひとひらの雲がかかった。


「しっかりと泡立てた卵に、ミルクとカボチャのペーストを混ぜて蒸し上げました。夕べさんざん練習して、その中で一番出来のよかったやつです。さっき作っていたのはデニーさんにお渡しする分です。今日の午後に、湿布薬と咳止めの薬を取りにいらっしゃる予定なので」


「あの人にはいつも世話になっているからね。そのお礼ってことかい」

「そういうこと。さあ、どうぞ召し上がれ」


 皿を勧めてから、思い出したように付け足す。

「あ、もちろん失敗作もきちんと再利用しましたよ。カボチャのポタージュ、カボチャのクリームサラダ。カボチャのクッキー。味は僕が保証します」

 当分の間、食卓にはカボチャ料理が並ぶことになりそうだ。


「あんたも、すっかり質素な生活が板についたねえ」


 ネコ族に出来得る最上のマナーでミルクを飲み、ふわふわプディングを味わいながら、しみじみとシャトンが呟く。


「もともと向いていたんでしょう」


 にこっとアリルが笑った。


「お代わりもありますから、遠慮なくどうぞ」

 


 ぽかぽかと日の照る小春日和。

 追憶が二人を無口にする。


  ―― チチチ……。


 出窓に置かれた木彫りの小鳥が、来客を告げた。


「客のようだね」

「そうですね。デニーさんかな」


 ことん、と椅子をひいて四代目が立ち上がる。

 時の流れは偉大だ。ひとり嵐の中に取り残されて途方に暮れていた子どもは、もういない。


(だけどねえ)


 シャトンは小首をかしげる。

 目の前に開けた新しい世界に瞳を輝かせ、きびきびと立ち働く利発な男の子は、なんというか、こう。残念な方向に育ってしまっていた。


(のんき者になってしまったというか、若さがなくなったというか)


 物語の中では王子さまとか騎士とかいった若い男たちが、名誉や姫君の愛を勝ち取るために戦っている。

 戦う相手は敵対する部族だったり恋敵だったり化け物だったり、とさまざまであるが、彼らは怯むことなく戦って最終的に勝利を収め、めでたしめでたしで終わるのがお決まりだった。

 彼と同じ年代の人間の男とは付き合いがないので、シャトンにはよく分からない。

 目の前にいるこの人物は、確かに、正真正銘、ダナンの『王子』であるはずなのだが。

 しばらく考えて、彼女はボキャブラリーの中からぴったりの言葉を見つけた。


(ああ、そうか。こういうのは『ご隠居さま』というんだったね)


 ご隠居さま。

 『隠者』よりもしっくりくる。シャトンはひとり頷いた。


「四代目、いるかい?」

 聞き慣れたお得意様の声がした。


「いらっしゃい、デニーさん。お待ちしていました」


 森の奥で鹿が鳴いている。

 恋人を呼ぶ、切なげな雄鹿の声だ。

 自然界は恋の季節であるらしい。

 しかし、哀しいことに、ふたりには全く関わりのないことであった。

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