第2話 アリル

 ―― ダナン暦689年 ――


 今日は彼の初陣ういじんになるはずだった。

 海を越えた向こう、北の国ノヴァークと組んだウィングロットの領主がついに王に反旗はんきひるがえしたという一報いつぽうがもたらされたのだ。


 大陸の西の沖にある小さな島国ダナン。またの名を、イニス・ダナエ。

 『女神ダヌの島』という意味を持つこの島は、くちばしを大陸の方に向け、翼を北の方角へと広げた鳥のような形をしている。

 穏やかな気候。手つかずで残る太古からの森。

 そして今もなお、地母神ダヌを中心とする昔ながらの自然神への信仰が根強く残っている。小さいながらも風土に恵まれ、北の大地では望めない豊かな実りがあった。

 大陸の北方から伸びる半島の先から、飛び石のように連なる小島を辿たどって船を進めると、イニス・ダナエの北端、ウィングロットに着く。ノヴァークはウィングロットを足掛かりに、この島を手に入れようと常に機をうかがっていた。それは歴史書が示すとおりである。


 ここ数年は特にその兆候ちようこう顕著けんちょであった。

 度重なる北方での小競こぜり合いは、燃え上がる寸前に鎮圧ちんあつされてはいたが、小さな火種を残したままいつまでもくすぶり続けた。いつ国を挙げての戦さに発展するか、民人はびくびくとおびえながら暮らしている。別の土地に移り住むことを真剣に考える者も出始めた。

 少年の父は自国の独立を守るため、ひいては民の暮らしを守るため、自らが動くことを決めた。それがミースの、ダナンの王としての務めであると。

 目指すはウィングロットの本陣。標的はその領主。戦車は伴わない。ひきいるのは騎馬で構成された隊のみ。

 予想通り、ミースの要職を占める重鎮じゅうちんたちは難色を示した。

 いわく、これがきっかけとなり本格的な戦さになれば、後ろ盾を持たぬ我が国は不利である。また季節がよくない。夏の終わり、秋の収穫を控えた時期に戦さを始めるなど聞いたことがない。ダナン全土のいずこからも援助は望めないだろう。

 しかし父は譲らなかった。

 たった百騎。

 数は少なかったが、選び抜かれた騎士たちが王宮の広場に居並ぶさまは壮観そうかんだった。十五歳になったばかりの少年は騎士たちに交じり、頬を上気させて出陣の合図を待っていた。行軍は過酷なものになるだろう。父の采配さいはいに誤りがあるはずはない、そう信じてはいてもいざ戦闘となれば生きて帰れる保証はないのだ。たとえ王の息子であろうとも。

 父は穏やかだった。無邪気にまとわりつく幼い妹を抱き上げ、「お土産を持って帰ってくるよ」と、ふっくらとした頬にキスをした。その姿を、少し離れたところから母が微笑んで眺めていた。

 父の右手が上がる。行軍が開始された。

 騎士たちのよろいが陽光にきらめく。

 偉丈夫いじょうぶたちの中にあって、父はひときわ目立つ存在であった。柔らかな物腰と風貌は学者のようである。そして実際、知識や教養も豊富で思慮深い。

 そんな父が、ひとたび剣をとるとおそれを知らぬ戦士に変わる。慎重に、じっくりと敵の力量を見定め、のちに滑らかな動きで相手の弱点を衝く。

 もちろん、実際には試合でしか見たことがないのだが、その戦法には無駄がない。


(いつか、父のようになりたい)


 今日はその夢に近づく第一歩になるはずだ。少年はそう信じていた。

 少年は精鋭たちに遅れることなく、栗毛の若駒を駆っていた。隣に並んだ壮年の騎士と他愛もない会話を交わしさえした。


 それがほんの一刻前のことである。

 自分に一体何が起こったのか。それさえも分からない。

 突然、どこからともなくミルクを流したような霧が現れたかと思うと、次の瞬間にはたった一人、馬と共に雨に打たれていた。

 あの騎馬隊は一体、どこに行ってしまったのだろう。


「……! ……!」


 声を限りに叫んでも、土砂降りの雨にかき消されて自分の耳にすら届かない。どこからも応答のあるはずはなかった。

 雨は激しさを増すばかり。おさまる気配はない。夏の終わりの嵐に、木々がうなり、森がかき回されている。

 自分はどの方角から来たのか。その道も見失ってしまった。

 一頭の馬を道連れに、少年はとぼとぼと深い森の中をさまよった。雨は氷の針となって全身を刺し、若い体から体温を奪った。

 ひときわまばゆ閃光せんこうが銀のカーテンを引き裂き、雷鳴がピアニッシモから急激なクレッシェンドで耳朶じだを打つ。

 どおんという地鳴り。

 めりめりと嫌な音を立てて巨木がゆっくりと倒れてくる。

 怯えた馬が甲高くいなないて立ち上がり、少年を水たまりの上に振り落として駆け去った。


(もう、だめかもしれない)


 静かな諦めが胸に落ちる。

 身を起こそうとすると全身に鈍い痛みが走った。ずぶ濡れで、泥だらけで。こんなにみじめな気持ちは初めてだ。

 もし、今日命を終えるとしたら、戦場で敵の手に落ちたときであるはずだった。

 死はもっと厳粛げんしゅくな形で訪れるはずだったのに。

 あい色の目を閉じる。雷鳴が遠ざかっていく。

 自分は気を失うのだ、と少年は思った。そして誰にも知られることなくここで死んでいく。

 何の役にも立たないまま、敵の姿を見ることもなく、泥にまみれて。

 そのとき、


「にー……」


 雨音に紛れて、小さな生き物の声がした。

 眠りを妨げられた気分で薄目を開ける。

 白い雨しぶきの向こうから、びしょ濡れの、ほこりの塊のようなものがよたよたと近づいてくる。


(小鳥? いや、違う)


 頬に触れたその濡れた毛玉は冷たく、ぷるぷると震えていた。


「にー」


 力尽きた少年を励まそうとしているのか、助けを求めているのか。小さな命はぴったりと泥に伏したままの少年の頬に寄り添って、喉を鳴らし始めた。

 近くに親らしきものはいない。

 自分を頼ってきたのかもしれない。

 濡れた毛玉をそっと両手に包み込む。


 ――トクトクトク…。


 子猫特有の浅くて早い鼓動が伝わってきた。

 この小さな生き物を守らなくては、という奇妙な使命感が湧きあがる。


(こんなところで、死んでなんかいられない)


 少年は立ち上がった。

 雲が切れてゆく。一筋の光が道を照らした。

 その光の中に、少年は白いウサギの幻を見た。

 こちらにおいで、というように振り返って、道のその先へと駆けてゆく姿を。

 ひとかけらの迷いもなく、少年はその後を追った。

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