辞退する権利はない

 リゼットは疲れた顔でこめかみを押さえるフランと小さなテーブルを隔てて向かい合って座っていた。


 リゼットが目を覚ましたのは――フランに叩き起こされたのはお昼を過ぎようとした時のことだった。リゼットが眠っている間にリゼットの身辺調査なるものが行われていたらしい。その結果フランたちが得られた情報は一昨日の夜間列車に南ホンチェイから乗車し北アクスで降りたということだけ。集落にいた間のことは「不明」であった。集落の存在を他人に知らせてはいけないという掟を集落が燃えても守るリゼットは、一昨日以前のことを尋ねられてもふわふわとした答えしか提供できない。フランは何度目かになるため息を吐いて、諦めたように話の方向を変えた。


「それで君は魔女がどうだとか言っていたが、あれは何のジョークなんだ?」

「ジョーク? 冗談のつもりはありません。それに、わたしはまだ見習い魔女です」


 一人掛け用のソファーに座っていたフランは背もたれの方へ体重をかけて足を組んだ。


「随分面白味のない冗談だとは思ったが本気だったか。それはますます笑えない」

「笑わなくていいんですよ。ただの事実なんですから」

「君は嫌味も通じないのか」


 馬鹿にしたように鼻で笑うフランからリゼットは目線を外した。あの集落の中での常識が外では通用しないこともわかってはいる。ただ、リゼットは魔女となるべくして生まれ、育ってきた。その存在を否定されることは自分自身の存在意義や尊敬する祖母エリーネを否定されるのと同義で、途端に心が冷えて魂だけ無防備に宙に放り出されるような、何とも言えない気持ちになった。それは「魔女」が当たり前ではないと初めて肌で感じた瞬間だった。その初めてへの対処に慣れることができるのはいつになるのだろう。


 そんな感情にさっと蓋をして、リゼットは再びフランの目を見た。


「嫌味くらいわかりますよ。助祭様は性格悪いってよく言われるんじゃないですか?」

「あいにく私はこの性格で損をしたことはない」


 この人はいつか誰かに刺されるのではないかとリゼットは思った。


「――ところでわたしはこの後どうなるんでしょうか。可能なら昨夜回収されたものを返していただきたいんです」


 フランは少し考え込むような仕草を見せた後、立ち上がってポケットから鍵束を出した。その中の一つを迷いなく選んで背後にあった棚の引き出しを開ける。引き出しから取り出されたのは二枚の紙だった。


「君は昨日ここで雇えと言っていたな? 本来なら君を雇うことはできないのだが、昨夜の件での重要参考人であり身元不明である君はここに置いておくべきだと判断した」


 フランは二枚の紙をテーブルに置きさっとリゼットの前に押し出した。


「雇用契約書だ。目を通して署名をここに」


 捜査対象者留置用の部屋に寝かせた割には対応が被疑者へのそれではない。実際、今リゼットたちがいるのは、取調室ではなく助祭であるフランが所有する談話室だ。諸々の対応に不思議がっていると、雇用契約書を手に取らないリゼットに痺れを切らしたフランが「君に辞退する権利はない」とせかした。


 契約書の文面には、給与は月小金貨八枚でその代わりに最低限の衣食住を保証することや、業務内容は多くのモヌアと同じで教会の雑務が中心であり、雇用主が特別業務を任せた場合には内容に応じて特別手当が発生すること、などが書かれていた。一般的な規則に則った内容で給料の相場や労働環境の平均を知らないリゼットでもそれなりに適切なものであると思えるものだった。


「ここに名前を書けばいいんですよね?」


 テーブルに備え付けられていた羽ペンにインクを染み込ませて労働契約書の右下に名前を書いた。エリーネから魔女の契約の際には血印が必要だと言われていたことを思い出し、羽ペンの横にあったペーパーナイフを親指に軽く刺した。拇印を押すのに十分な量の血が出るのを待っていると、フランが眉を寄せて「何をしている」とリゼットからペーパーナイフを取り上げた。


「今自分のナイフを持っていなかったので」

「そういうことは聞いていない。何をしているのかと聞いているんだ」

「ええと、ペンは貸し出しようですよね?」

「ああ、ここで使う分にはだが。それがなんなんだ」

「ということはその横にあるナイフだって貸し出し用ですよね?」

「そうだが――」


 このナイフがフラン専用というわけではないことに安心し満足したリゼットは、ちょうどよく膨れた血を契約書の署名の横に押し付けた。


「署名できました。もう一枚の方は別のもののようですけど」

「おい、話を勝手に終わらせないでもらえるか? このナイフはペーパーナイフだ。人の指を切るものではない」

「ああ、そういうことだったんですね。ごめんなさい、契約する場所に刃物があったので勘違いしてしまいました……」

「はぁ……どうやら君は私とは違う世界の人のようだ」


 フランはため息を吐いて「今後契約書に血をつける必要はない」と言ってペーパーナイフをペン立ての横に戻す。外では血がいらないのか、とリゼットはフランの質問の意図を今度は正確に理解して「すみません」と言った。


 二枚目の用紙は始めに「業務的密約書」と書かれている。


「そっちは私個人と交わしてもらうものになる。昨日見ただろうが、ああいった裏の仕事はこの教会の助祭としての立場で行っているものではない。それらに関する全てへの口外禁止と、必要に応じた協力を求めるものだ」


 扱いが良くなった理由がわかった。ジュルダンたちはなんらかの理由でリゼットに興味を持っている。あの置き手紙からしてまた接触があるだろう。フランたちはおそらくそこに目をつけたのだ。


「もしわたしが断ったらどうするんですか?」

「別に断ってくれても構わない。その後のことは想像に任せるが」


 断っても良いとは言うが、最初から署名する以外の選択肢などない。断ったら殺されるか、良いように泳がされるか。それならば目に見える契約という形があった方が安心できるというものだ。


 署名欄にペン先をつけてから、最後の行に書かれた「契約執行者の管理下に置かれること」という文が目に入りリゼットは手を止めた。奴隷制は廃止されたと聞いていたが、と思ったリゼットが顔を上げると、元から答えを用意していたのか「君が私の部下になるとでも捉えてくれればいい」とフランが言った。


 親指に残っていた血液がわずかに署名のそばについたものの、先ほどのように血印を押すことなく契約が完了した。


「これは渡しておく。短剣の方はもともと彼らのものだったときいているが」


 フランは契約書を受け取った代わりに「魔女の箱」とジュルダンがリゼットに預けた短剣を差し出した。リゼットが「魔女の箱」の方だけに手を伸ばすと、フランは「こちらは常に携帯しておけ」と短剣を押し付けた。


「モヌアとして教会の本殿か副殿、作業棟にいることが多くなるだろう。聖服をあとで渡すから内袖の軸に入れておけ」


 毒物が塗られていたりすることはなさそうだし、ジュルダンたちは「人間」だから余計な心配はしなくても良いだろう。リゼットは素直に短剣も受け取った。


 話の区切りがついたタイミングでジェスマンが部屋へやってきた。リゼットはこの後モヌアとしての仕事を早速始めることになるらしい。ジェスマンに連れられ教会の作業棟へ移動した。


 作業棟には司祭や助祭の個別執務室や、事務室、教会関係者用の治療室、小規模の食堂、裁縫室、作業室、対話室などモル・モヌアが日常業務を行う部屋がいくつもある。ジェスマンはリゼットを準備室へ案内した。


「北アクス教会のマルスア――モヌアのまとめ役に話を通してありますから、彼女から業務内容について説明を受けてください」


 真面目なモルの姿のジェスマンは、初対面の時のように微笑を浮かべ、丁寧な所作で扉を開ける。教会にいるのが理想通りの聖人君主ばかりではないことは、昨日のような仕事を請け負う人間がいることだけでよくわかっていたので、表と裏の顔の使い分けが上手い人ばかりなのだろうとリゼットはなんとなく思った。それだけでジェスマンの態度に違和感を感じなくなる。新しい環境に身を置くときは深く考えず受け入れることが大事だとエリーネは言っていた。こういうことなのかもしれない。


「モラ・ユゲット、彼女がリゼットです」

「話はきいています。モラ・ジェスマン、ご苦労様でした。下がって結構です」


 マルスアというのは特別扱いのモルであるジェスマンよりも権限があるらしい。きれいなカトル――右手を胸に当て膝と腰を軽く折るモルトゥナ教の簡易版男性礼――をしてジェスマンは部屋から出てった。


「ヨウラントゥイナのお導きに感謝を。女神マルフェエクラーシェのささやきをシェルフに捧げる喜びに花風が舞い、新たな緑に感謝を歌います」


 正式な女性礼であるカラートをして、ユゲットは出会いの祈り文句をスラスラと述べた。


「よ、ヨウラントゥイナのお導きに感謝を。……リゼット・ハーウェルと申します」


 ユゲットの長い挨拶の言葉を真似することはできなかった。モヌアとして働くということはこういうものも覚えなくてはならないのだろう。大変そうだなと呑気に考えていると、ユゲットがつり目がちな目をさらにつり上げてリゼットを見た。


「マルスアの任をいただいているユゲット・オリフです。貴方の教育は私に一任されています。早速ですが、いったいどういう教育を受けたらそのように礼儀知らずに育つんでしょうかね。入室の心得や礼どころか挨拶も、基本の姿勢もなっていないではありませんか」


 なんてものを押し付けてくれたんでしょう、と言ってリゼットの方へつかつかと歩いてくる。


「まずは貴方の部屋に案内します。荷物を置いた後に裁縫室で聖服を着てもらいますから、そのベストも脱いでしまってください」


 教会関係者は住み込みがほとんどらしい。教会の敷地の一番奥にある建物の二階の端がリゼットの部屋だった。ベッドとテーブルと椅子、クローゼット。寝るためだけの部屋という感じで、水回りは共用のものが各階にあった。


 クローゼットの中に「魔女の箱」と茶色のベストを入れ、さっさと出て行ったユゲットを追いかける。ユゲットとフランは冷たさの加減が似ているなとリゼットは思った。冷たいけれど最低限のことは規則に則ってやってくれる、みたいな。おそらく余計な感情を持って他人と接していないのだろう。


 再び作業棟へ戻り、モヌア一人と合流して裁縫室へ。二ディア・ボネと名乗った彼女はリゼットが昨日教会で初めに会話したモヌアだった。


「リゼットさん、貴方は基本的なことから学ばなくてはいけません。しばらくの間モラ・ニディアから指導を受けてください。モヌアを名乗るのはその後です」


 聖服は腰の位置で折る布の長さを変えることで丈の長さを調節できる仕様になっており、裁縫室で新しいものを早速着付けてもらった。しかし、ユゲットのその一言により聖服はすぐさま脱がせられ、回収された。代わりに着せられたのはふくらはぎの真ん中あたりまでの長さの簡素なワンピース。二ディアからの教育が終わったら改めて聖服を渡すと告げられた。


 聖服に思い入れがないからいいものの、リゼットがモルトゥナ教の真剣な信者だったとしたらこの対応に気分を害してもおかしくはない。雇用契約を交わしたにもかかわらずユゲットが頑なにリゼットのことを「モラ・リゼット」と呼ばないことからも、彼女のモルトゥナ教への、もしくはモヌアを名乗ることへの思い入れがうかがえる。彼女たちのような純粋な信仰心を持たずにここにいることに申し訳なさを感じながらも、その分せめて労働力として貢献できるようにしようとリゼットは思った。


 ユゲットは仕事と教会の概要を説明するよう二ディアに指示を出し、自分の仕事をすると言っていなくなった。

 ユゲットとは対照的におっとりした雰囲気を持つ二ディアは、リゼットに微笑んだ。


「ではリゼットさん、いきましょう」


 どこへ行くのか尋ねる暇もなく、二ディアは素早く、しかし優雅に歩いて部屋を出る。二ディアがリゼットを連れて行ったのは「教会勤めモヌアの戦場」とも呼ばれる場所だった。

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見習い魔女を雇ってください! オレンジの金平糖 @orange-konpeito

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