第一章「教会の舞姫」

この先モルトゥナ教会の所有地につき

 ポムヴィ山脈は、「薬学医学の大国」と呼ばれるようになったマクスロード王国と、「大陸最先端工場」と呼ばれるほどの産業大国であるレジス王国との国境にそびえる山脈である。マクスロード王国側は断崖絶壁が立ち並び、露出した岩肌には雪が積もったりもしている。対してレジス王国側は南向きであるために草原が広がり、断崖となだらかな傾斜が交互に存在していた。


 ホンチェイ山はそのポムヴィ山脈に連なる山の一つである。

 ホンチェイ山の中腹にある岩の間から、リゼットは顔を出した。目の前には青々としたくるぶし丈の草が日の光を浴びて輝いている。リゼットの頬には涙の跡が残っていたが、彼女の目から新たにこぼれ落ちるものはなかった。


 十歳の頃、たった一度だけ山の麓に降りたことがある。エリーネが「そろそろ外も知らなくてはいけませんからね」と言って連れ出してくれたのだ。

 この山を降りるとレジス王国のケムトー地方にたどり着く。リゼットはそこで、あの集落がいかに現実離れしている場所であったかを知った。もっとも、当時の彼女からしてみれば集落の外こそ現実離れした場所であったのだが。

 エリーネはケムトーの街で、リゼットに最低限の社会の常識をたたき込んだ。貨幣の価値や使い方から、街にある教会や宿などの施設のこと、人々の暮らしぶり。二日間の滞在で、リゼットは集落の外を大方理解した。


 リゼットは日の光を全身に感じながら歩いた。太陽はちょうど頭上を通り越し西側に傾いたところだった。洞窟へ潜ってから相当長く走っていたにもかかわらず、時間はあまり経っていなかった。いや、経っているのかもしれない。いずれにしても魔女の力をもってすればその程度の違和感というのは不思議の範疇ではなかった。


 このまま歩けば麓の街に着く。リゼットは、エリーネの言っていた通りにアクス地方へ向かう列車に乗る予定でいた。

 前に列車を見た時は、青黒い煙を吐きながら走る大きな金属の塊に驚いた記憶がある。魔女の力じゃないと言うのだから驚きも倍増である。今度はそれに乗ることができるのかと思うと、ほんの少し心が踊らないわけでもなかった。


 風がリゼットの鎖骨辺りまで伸びている髪を浮かせた。一房が顔に張り付いて視界をふさぎ、リゼットの邪魔をする。リゼットはその青み掛かった銀髪を、手首に巻いていた革紐で耳の下で二つに縛った。リゼットのいつもの労働用ヘアスタイルである。さて「仕事」の始まりだ。そんなふうにリゼットは思った。



 日も落ちかけた頃、リゼットはようやく麓にたどり着き、かつてエリーネと共に訪れたレジス王国ケムトー地方の南ホンチェイという街に入ることができた。

 仕事を終えて帰る人か、もしくは夜勤に向かうために出てきた人なのか、工場労働者と思わしき服装の人が多く歩いている。手入れの行き届いた街並みの建物は、多くが住宅、もしくは宿屋や居酒屋だ。

 かつてはマクスロード王国からポムヴィ山脈を越えてやってくる人々が多く、その人々のための宿場町として栄えていた。宿屋や飲み屋が多いのはその名残でもある。鉄道の駅がここに建設されたのもそのおかげらしい。


 リゼットは宿屋の目の前を通るたびに中をのぞいた。どこも素泊まりでも一泊するのに最低銀貨三枚はする。懐事情を考えると、銀貨三枚は大きい。列車に長距離乗るため、大きく見積もって小金貨一枚――銀貨十枚は残しておきたいが、一泊すると残りが銀貨九枚になってしまう。


 リゼットは目につく宿屋を一通り見て回った後、この街の中央広場へ行った。そこにある掲示板に列車の時刻も書いてあるのだ。さっきまで賑わっていたのだろう市場は、それぞれ店じまいを始めている。街灯が普及してきても、夜の広場はまだあまり変わらないようだった。


 リゼットの集落では、夜と昼という概念がそもそもきちんと存在していなかった。太陽が西へ消えたかと思うと、今度は西から陽月ようげつが登ってくる。太陽の光をいくらか薄めたというような光は薄紫の空から優しく降り注ぎ、集落全体を夕闇から解放する。そこからいわゆる夜になるのだが、昼と大差ないために集落の者は夜も昼も関係なく活動していた。


「ここは陽月がないんだよね」


 徐々にオレンジから藍色に変わっていく空を見てリゼットはつぶやいた。


 掲示板に貼られている列車の時刻表を見ると、どうやら夜間列車というものがあるらしい。日中よりわずかに高いが、それでも銀貨九枚と銅貨五枚。手元に銀貨二枚と銅貨五枚余る。


 あと一時間ほどで出発時刻だ。行き先はアクス地方ジェシャ港駅。ここから西側へ進み、チャク地方とゾル地方を経由してからアクス地方のジェシャ港まで行くらしい。リゼットは駅へ向かって歩き出した。


『――リーフィーが人間を見たのはその時が二回目でした。人間の住む場所には精霊が住む場所とはまるで違った明るさがありました。リーフィーは泉に誓った通りにモートンの祭られた護石もりいしを目指します。代々ひっそりとモートンの護石を守護してきた一族がいると聞いていました。その人間の一族は特別なのだといいます。リーフィーは川を辿って海の方へ飛んで行きました』


 エリーネの言っていたヤニックという人物は、このモートンの護石の守護一族の人なのではないか、とリゼットは思っていた。この部分はウォームの泉伝説の五章三節の後半部分に出てくる。精霊リーフィーが辿った川はスバジェ川ではないだろうか。レジス王国の中央を流れるスバジェ川の本流は、ポムヴィ山脈からケムトー地方、首都レゼス、チャク地方を通りアクス地方の港からモルス海へ出る。抽象的な伝説にそういったことも合わせると、エリーネの言葉は護石を目指せと言っているように思えた。

 そこにいるヤニックに会うことができれば「魔女を残しなさい。この地にいる精霊を守りなさい」というエリーネの願いを叶えるためにすべきことがわかるはずだ。実のところ、リゼットはその方法が分かってはいなかった。約束する、とはっきり答えたはいいが、その言葉の意味も理解できていなかったのだ。


 家々から夜ご飯の香りがただよってきている。柔らかくもれる明かりと家庭の匂いはリゼットにほんのりと寂しさを連れてくる。リゼットはこれから会えるだろうヤニックに期待を寄せた。

 暖かい人だったらいいな。おばあちゃんが選んだ人ならきっと素敵な人なのだろうな。一緒にご飯を食べてくれるかな。

 広場から中央通りを南下して行ったリゼットは、空がすっかり濃紺に染まった頃、ホンチェイ山駅に到着した。


 夜間列車には特別車両と一等車両、二等車両があるようで、リゼットは当然のように二等車両の乗車券を選んだ。駅に常駐している職員が銀貨十枚と引き換えに手のひらサイズの乗車券とおつりの銅貨五枚をリゼットに渡した。


 二等車両では木でできた二人がけの椅子が向かい合わせになっており、それが左右に一列ずつ並んでいる。リゼットは窓際の席に腰を下ろした。リゼットの他に数人が乗っていた。帽子を顔に乗せて寝ている人や、パンを頬張っている人、連れの者と会話をしている人、新聞を広げている人。リゼットが窓のほうに体を預けてうとうとと意識を手放したり引き留めたりしている間に列車は走り出した。




 日が差し始め、リゼットは目を覚ました。列車はゾル地方とアクス地方の境目あたりまできていた。いつの間にか車内に人が増えていて、アーヤの座っている向かいにも二人組の乗客が座っている。二人とも歳は三十後半ほどだろうか。赤茶の短髪で日に焼けた男と紺に近い髪色で小綺麗な格好をした男は、それぞれレイゼス国民新聞を片手に話していた。


「最近じゃトノワの方も巻き込まれてるっていうぞ」


 赤茶の髪の男がそういって新聞紙上の一点に指を置いた。もう一人が「それは俺も気になっていた」とうなずく。


「あそこは辺境も辺境だからね。トノワだけじゃなくってハンヌ地方は未開拓の印象だから、もしかしたら目をつけられてるのかもしれない」

「ああ、それはあるかもな。オレだってあのあたりは田舎だってくらいしか知らないしな。そのくせファンガルともマクスロードとも接してるんだから恐ろしいもんだ」


 何の話なのだろうかとリゼットは話題になっているのだろう新聞の表紙に目をやったが、表紙を見たところでわからない。


 ファンガル連合王国とマクスロード王国と接している地方はこの国ではハンヌ地方だけだ。ハンヌ地方は伝統民族が多く住んでおり、首都レゼスから最も遠いことも相まって「未開に地」や「無法地帯」とよく揶揄されている。その中のトノワは、以前ファンガル連合王国の一部だったこともあり、レジス王国の中でも発達が特に遅れている部分である。


 自治問題とは無縁だったせいで、その地名からリゼットが導ける知識はその程度だった。


 列車が北アクス駅で停車した。この次が終点、ジャシャ港駅である。リゼットの前に座っていた二人のうち、赤茶髪の男が立ち上がった。


「じゃあ、また明日な」


 二人は家が近い友人同士で毎朝共に列車に乗るのかもしれないし、通勤のための朝の列車で毎日居合わせる知り合いなのかもしれない。リゼットはそんなことを考えながら続いて席を立った。川を辿るなら終着点の海まで行ってしまうのは行き過ぎだ。幸にも、この駅に着く直前に木々の隙間から橋を見たから川は近いだろう。


 列車から降りて、一晩のうちに凝り固まった体をのばした。大きく息を吸い込む。朝一番の爽やかな空気だ。

今日のうちにヤニックに会わなければ、とリゼットは思った。会えなかったとしたら、手持ちの銀貨二枚と銅貨五枚では野宿になる可能性も濃厚だ。



 一時間半ほど川沿いを歩いたところで、リゼットはノートンの護石らしきものを早くも発見した。


『そこにあったのは当たりの木々と同じほどの高さを持つ立派な石柱でした。人間たちが神殿を作る際に彫り込むような立派な彫刻もありました。多くの人間が勘違いをしたように、リーフィーもはじめは昔の人間の建造物の跡なのだと思いました。しかし、リーフィーは気づきます。ノートンの護石とは、その柱の根本にはめ込まれている透明な球のことだったのです』


 厳密に言えば、リゼットが発見したものは木々の中にたった一本だけ立っている石柱だった。一般的な木ほどの高さがある鉄橋が途中にあったためその上から見回してみると、あっさりと見つかったのだ。その根本にノートンの護石があるのだろうと当たりをつけ、石柱の元へ向かった。


 昨夜は宿のことで迷ったが夜行列車を知ってどうにかなったし、石柱だってすぐに見つかった。伝説をうまく参考にできるおかげで行動に迷いがない。リゼットはエリーネの言ったように何もかもがうまく行くような気がしていた。


 しかし、そう簡単な話であるはずがなかった。リゼットが石柱の方へ近づいていくと、柵にぶつかった。張り紙には「この先モルトゥナ教会所有地につき一般の者の立ち入りを禁ずる」と書かれている。


 さらにリゼットは気がついてしまった。ヤニックに会えばその後のことがわかるとエリーネは言っていたが、そもそもヤニックにはどうやって会えば良いのだろうか。モートンの護石のもとに行けば会えるとは限らないではないか。第一、アクス地方に行く列車に乗れとは言われたが、アクス地方で降りろとは一言も言われていないのだ。どこまでウォームの泉の伝説に従えばいいのだろうか。自分はまったく見当違いなことをしているのではないか。

 リゼットは張り紙の前でしばらく立ち尽くしていた。

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