1-1 始まりの酒場(3/3)
ようやく二十曲を歌い終わったオフィーリアは、最前列で食い入るように見ている客に向かって、小さな声で言った。
「あの、これで最後の曲になります。最後は、少し変わった歌ですけど、お聞き下さい」
舞台の上で目をつぶり、口の中でさらに小さい声で何か唱えてから、すうっと息を吸うと、それまでの俗謡とは全く違う調性で、歌詞も人間の言葉ではない歌を歌い始めた。
「ベアータ、ビシェーラー、マーリービレジニス。クユース、アデューベーラー……」
一人で歌っているにも関わらず、奥深い低音と完全に調和した中音に、全く濁りのない高音が重なった、独特の和音を歌う声を聴いた途端、カウンターにいた女は電撃に打たれたようにグラスを落とし、前のめりになった。
「うそ……! 完全な純正律の一人和音で、エルフ語の
女は、そのままひざの間に手を挟み、しゃがみ込んでしまった。
「やばい、やばい、やばい。こんな完璧で美しい音曲、久しぶりに聴いたよ。たまんない……」
「おい、大丈夫か?」
心配そうにカウンターから見下ろす主人に、女はうつむいたまま、フードの下から言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど……」
舞台の前に座っている客達は、キョトンとして舞台の上のオフィーリアを見つめていた。聴いたこともない旋律に、意味のわからない歌詞を乗せて歌っているので、どう反応したら良いのかわからないようだった。それまでの俗謡に比べると、ずっと短いものだったが、歌い終わるとまばらな拍手がわく。
オフィーリアは、ぺこりと頭を下げると、舞台を降りた。やっぱり歌ってしまった。ここのお客さん達には「音曲」なんて理解してもらえないだろうけど、一日に一回は歌いたいから。これでお勤めは終わり。あとは目立たないように、料理を運ぶ役に徹しよう。
そう思いながら急ぎ足で厨房の方へ歩き始めたが、奇妙な歌が終わって我に返った最前列の客が、オフィーリアの右手に小さな銀貨を押し付けながら、酒臭い声で言った。
「なあ、姉ちゃん。チップは弾むから、俺の横で酌をしながら歌えよ。一曲一ムントでどうだ?」
「あ、いえ、これでおしまいです」
銀貨を押し戻して先に進もうとすると、次の客がまた腕をつかんで、無理やり手の中に大きな銀貨を押し込みながら言った。
「よう、姉ちゃん、十ムントやるから、俺の部屋に来いよ。うるせえ奴らがいない方が、いい声が出るだろ」
「引っ込んでろ、俺が先だ」
最初の客とにらみ合いになると、他の客もまわりを囲んで、口々に「俺の横に来い」と騒ぎ始める。だんだん騒ぎが大きくなり、まずいことになったと焦り始めた時、フードをかぶった人影が近づいてきて声をかけた。
「ねえ。手を引っ込めて。彼女は、私が買い取ったから」
「はあ? 俺が先に十ムントで交渉してんだよ」
振り向いて威嚇しようとしたが、フードをかぶった女は客の手首をつかむと、なんなくオフィーリアの腕から引きはがした。
「な、なんだテメエ」
「おい、やめとけ。相手が悪いぞ」
横から別の客が止めに入るのと同時に、女はフードを外した。晴れた日の湖のような深く青い瞳に、背中までかかるサラリとした金髪、その間から見える細長く上に伸びた耳を見て、手首をつかまれた客はたじろいで、椅子にへたり込んだ。
「エ、エルフのウィローじゃねえか」
横のテーブルに座っている客が、仲間にささやく。
「誰だ、この女?」
「知らねえのか? 北の荒れ野で百頭の
腕が自由になったオフィーリアは、目を見開いて、突然現れたエルフの女性を見つめた。なんて美しいの。音楽学校でも多くのエルフに会ったが、これほど美しいエルフを見るのは初めてだった。それと同時に、音楽学校での苦い記憶を思い出して胸が苦しくなってきた。エルフとは、もう関わりたくない……。
「もう一度言うね。彼女は私が買い取ったから、他の人はもう手を触れないで」
「え、買い取ったって……」
意味がわからず動揺するオフィーリアの方に向き直ると、ウィローはにこりと微笑んだ。
「宿の主人から、あなたの契約を五百ムントで譲り受けたから」
「ど、どういうことですか?」
「今日から、私の専属音曲士になって」
「え、それは困ります」
逃げ出そうとしたオフィーリアを、ウィローは抱き止める。良い匂いのするエルフに抱き寄せられて、すくんでいるオフィーリアの耳元にくちびるを寄せて、ウィローは優しい声でささやいた。
「ねえ。これから私の館に来て。さっきの歌をもう一度、二人きりで聞かせて」
「ふえっ……」
耳元でささやかれたエルフ特有の甘い声に、完全に足の力が抜けて、オフィーリアは相手にしがみついたまま気を失ってしまった。
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