4-3 水の祈り(1/2)

 同盟の盃を交わしてから四日後の朝、予想より一日早く、はるか向こうの大河の河岸に、おびただしい数のオークが整列し船を出しているのが、ウィローの館の庭から見えた。夜行性で、普通は暗闇に紛れて行動するはずのオークが、白昼堂々と行軍してくる光景は異様だった。

 港の近くの丘の上にある見張り台からも見えているだろうから、エステュワリエン市の門を守る衛兵も海軍も、臨戦体制に入っているはずだった。

 ウィローは、庭の端にオフィーリアと並んで立ち、いよいよ始まる戦いに向けて精霊に祈りを捧げた。

「私は東門から北門に行くけど、オフィーリアはオクサリス達と一緒にここにいて。また前回攻めて来た時のように、火矢や火薬玉が飛んでくるかもしれないから、貯蔵庫の中に入って扉を閉めていてね」

「気をつけて下さい」

「大丈夫」

 狩衣を着て大弓と矢箱を背負ったウィローは、明るく微笑んで、東門に通じる尾根道を駆け出した。


 東門には、傭兵と市民からの志願兵が配置に付き、大河の向こうから押し寄せてくるオーク軍の船団を見つめていた。ウィローは、門柱の一番上に構えた指揮台に登り、東門の守備隊長に呼びかけた。

「隊長。お願いしてあった準備はできてる?」

「はっ! ウィロー閣下! 門の内側のかんぬきを二重に補強した上で、門の内外うちそと土嚢どのうを積み上げて、びくともしないよう固めてあります!」

「ありがとう。じゃあ、縄梯子で門の外に降りさせて。私が降りたらすぐに梯子は引き上げていいから。その後は、何があっても絶対に門を開けちゃだめよ」

「は? 門の外に降りるですと?」

 隊長はうろたえた。

「オークの船団が大河を渡ってきております。今、門の外に出るなどというのは

……」

「だーいじょーぶ! このウィロー様に任せて。縄梯子だけ用意してくれればいいから」

 ウィローは、にこりと微笑むと指揮台の端に立ち、そこにいる兵士を捕まえて「ほらほら」と催促する。守備隊長がうなずくと、兵士は門の外側に縄梯子を下ろした。

 地上まで長く伸びた梯子を伝わって、門の外側に降り立ったウィローは、はるか上の指揮台を見上げて手を振ると、桟橋のあった河岸まで走って行った。

 かつて河の民の村だった場所は全て焼け落ちて、黒焦げになった木材や瓦、食器として使われていた陶器のかけらなどが散らばっているだけの、惨憺たる状態だった。桟橋の跡も、水面に焦げた杭の頭が並んでいるだけで、何も残っていない。

 ウィローは、河岸に大弓と矢箱を置いて水の中に入り、腰の深さまで来ると立ち止まって水面に手を置いた。


水を司る精霊よスピリトゥス アクアム レージェンス私にダ ミー聖なる力をビルトゥーテム与えて下さいサンクタム

 小声でつぶやきながら手を上下に動かすと、それに合わせて大河のおもてに波が立ち始め、ウィローを中心に大きな環になったうねりが生じる。うねりがどんどん大きくなり、背丈を超える高さになったところで、ウィローは「メジケ アクア トリメンテ!」と鋭く叫びながら、勢いよく両手を前に向けた。ウィローの手に押されたように、うねりは大河の水をどんどん吸い上げながら、見上げるような巨大な水の壁となって、対岸に向かって押し寄せて行く。うねりが通り過ぎた後は、深くえぐられたように大河の底が見えていた。

 力を出し切ってふらついたウィローは一瞬膝をついたが、すぐに後ろを振り返り、大弓と矢箱を拾うと、全力で丘に向かって走り始めた。焼け跡を抜け、丘の中腹にある墓地まで駆け上がるとようやく立ち止まり、膝に両手をついて前屈みになって息を整えながら、大河の様子を見下ろした。

 大河の水を巻き上げたうねりは、地響きのような轟音と共に巨大な津波となって対岸まで押し寄せて行き、河の上にいた船は全て巻き込まれて、元いた岸に打ち上げられたようだった。対岸に到達しても津波の勢いは収まらず、そのままオーステ・リジク王国領の河岸を超えて陸に広がっていくのが見える。おそらく、陸にいて船に乗ろうとしていたオーク達も巻き込まれているだろう。

 やがて、ぽっかり空いた河底を埋めるように、津波の戻りと上流からの水流が流れ込んで来て、河のこちら側の岸にも津波が押し寄せる。丘の中腹まで波が駆け上り、かつて河の民の村だった海岸の家々の残骸は、すべて水底に沈んで押し流されて行った。

 津波が収まり大河が元の流れに戻っても、対岸のオーク達の動きが無くなったままなのを確認すると、ウィローはテルグの墓の前に立ち、手を合わせた。

「テルグ。ごめんね。ずっと見ていたのに、村を守れなかったよ」

 ウィローの頬を涙が伝った。

「仇は討ったけど、何にも無くなっちゃった。本当にごめんなさい」

 手の甲で涙をぬぐうと、ウィローは顔を上げて唇を噛み締めた。

「さあ、もう行かなくちゃ。次は陸路から北門に攻めてくるはず」

 河岸へと坂道を下り、東門に向かった。


 東門の前に積んでいた土嚢は、大波にさらわれて全て押し流されていたが、門自体はびくともしていないようだった。指揮台から縄梯子を下ろしてもらって、よじ登ると、守備隊長も兵士達も、ウィローを遠巻きにして一言も発しなかった。その目には、恐れと怯えの色が見えた。

「……えっと、河口付近で大河を渡ってこようとしてたオーク達は、もう大丈夫だと思うけど……」

「……」

「もしかすると、こっちに流れ着いてくるのがいるかもしれないから、そいつらはよろしくね……?」

「……」

「じゃあ、私は北門に行くから……」

 ウィローは、気まずい思いをしながら指揮台を下りて、尾根道への出口に向かった。

「はあ……。だから、あんまり人前で大きいのはやりたくないんだよね……」

 尾根道に出ると、北門に向かって走り始めた。

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