3-1 越えられない壁(2/2)

 音曲士と雇い主の間に、そんな問題があるとは、プリントン・ウーデの授業でも聞いたことがなかった。しかし、音曲士から関係を断つことが良くないのであれば、ずっと契約を続けていけば問題ないのでは。

「あの、私はどうしたらよろしいのでしょうか? 契約は、ウィロー様が延長しないとされたら仕方ないですが、私の方から切ることはいたしません」

「オフィーリア。お前は百年も生きられない人間であろう。お前が死んだ後、ウィローは何百年、一人で生きていかなければならないと思っておる」

「えっ」

 エルフの寿命が長いことは知っていた。現に、目の前のアーシュは長老と呼ばれるだけに、何百歳かもわからない。しかし、それがウィローにも当てはまるということは、まったく想像していなかった。自分が死んだ後のことを考えよとは。

「オフィーリア。そなたの音曲は限りなく純粋で美しい、それだけに、聴くものに与える影響は深く大きい。それに依存し過ぎた状態で失った時に、ウィローが負う衝撃を思え。何が彼女にとって良いことか考えるのじゃ」

「……」

「まずは、あまりに頻繁に音曲の勤めをして、依存しすぎることのないように。専属契約については、ゆっくり考えるがよい」


 音曲を歌うたびに、ウィローとの間に深い心のつながりができてきたことは感じていた。しかし、それが結果としてウィローを傷つけることになるなんて。自分は人間であり、エルフのウィローと同じ人生を歩むことはできない。それは越えられない壁であり宿命でもある。

 ウィローとは距離を置かなくては。強く依存し過ぎないように回数を減らして、三ヶ月の契約期限が来たら自然に解消するように。


「失礼します」

 アーシュの執務室を出て、自分の寝室に戻るまで、オフィーリアはふらふらと現実感がないまま歩いていた。ベッドに腰掛けると、首にかけていた首飾りを外して手のひらに乗せ、じっと見つめる。

 エステュワリエンを出発する前日に、ウィローと自分用に二つそろいで買ったもの。ウィローが手を重ねて唱えてくれた祈祷文が、今も耳に残っている。

このみすまるがホクモニーレとこしえにシトクラーベン我らを結ぶクイノスインよすがとならんことをペルペトゥーム コンストリンギート

 オフィーリアは首飾りを箱にしまうと、ベッドに倒れ込んで、嗚咽を漏らし始めた。

***

 ウィローの寝室の扉を叩くのに、こんなに気が重くなったのは、一番最初の晩以来だった。

「失礼します」

「オフィーリア! 今日はいいものがあるよ」

 扉を開けると、寝室の中には、いつもよりずっと多くのろうそくが灯されていて、まだ仕事をしている時のように煌々と明るかった。

「ね。今日は何の日かわかる?」

「い、いいえ」

 誕生日なども聞いたことがないし、オフィーリアには思い当たることはなかった。

「オフィーリアと専属契約をしてから二ヶ月目の記念日だよ。今日から三ヶ月目。だから、記念にエルフ銀の指輪を買ってきたの。それと今月の契約金も渡しておくね」

 机の上には、小さな木の箱と、薄手で美しい花柄の紋様の布で包まれた金貨が置かれていた。ウィローは木の箱を開けると、オフィーリアの右手を取り、小指に指輪をはめた。繊細な草葉の彫刻がろうそくの灯りに煌めく。

「……あ、ありがとうございます」

 少し前であれば、躍り上がって喜んだはずだが、今は気が滅入るばかり。


「ね。最初の契約の期限まで、あと一ヶ月になったけど、契約延長してくれるかな?」

 ウィローは、少し遠慮がちな上目でオフィーリアの表情をうかがう。

「できるだけ、オフィーリアが快適に過ごせるようにしてきたつもりだし、負担にならないようにしてきたと思うけど、どうかな?」

 オフィーリアは、今朝のアーシュの言葉を思い出して、思わず涙ぐみそうになった。あまりに頻繁に音曲の勤めをして、依存しすぎることのないように。依存し過ぎた状態で失った時に、ウィローが負う衝撃を思え。

 ここで、言わなければ。

「あの……、お願いがあります」

「うん。何?」

 ウィローは、真剣な表情でオフィーリアを見つめる。

「毎晩、音曲を歌っているのを、減らしていただけませんでしょうか。二日に一回とか。あ、契約金は半分に減らしていただいて構いません」

 ウィローは黙ったまま、じっと目を見開いてオフィーリアの目を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。

「わかった。毎日歌うのが大変なら、一日おきでいいよ。喉に負担がかかるって言ってたもんね。でも、契約金は変えない。専属契約しているんだから、ずっと拘束しているのは変わらないし」

「……ありがとうございます」

 オフィーリアは、少しの間うつむいて沈黙していた。三ヶ月の契約が切れたら、もう延長しない方がいいと思うのだが、音曲士の方から関係を断ち切ると精神的に深刻な傷を負うという話なら、自分から言い出すことはできない。なんとかウィローの方から切ってもらう必要がある。それまで時間を稼がないと。

「契約の延長については、もう少し考えさせて下さい」

「うん。わかった」

 ウィローは、少し寂しそうに微笑んだ。

「じゃあ、歌ってもらう前に、部屋を暗くしないとね」

 ウィローが立ち上がって、部屋のろうそくを消している間、オフィーリアは小指にはめた指輪を見つめていた。ウィローの首元には、あの首飾りが下がっているが、自分は外してきてしまった。この指輪も、はめているわけにはいかないだろうと思うと、涙があふれてきた。


 オフィーリアは、はっきりと気がついた。いつも精一杯生活を楽しみ、それを存分に共有してくれる。過去の経歴も何も気にせず、自分のことを何よりも大切にしてくれる。恐ろしいことがあっても、絶対に守ってくれる。もはやウィローなしの生活など、想像することもできなくなっていた。依存しているのは、雇い主のウィローではない。音曲士の自分の方が、もっと依存している。いや、依存という言い方は正しくないかもしれない。

 自分は、ウィローを愛している、と。



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