2-7 正典礼の伝統


 水の桃源郷では久々となる正典礼が執り行われるとあって、当日は朝早くから、郷に住んでいるエルフだけでなく、近隣の森や谷からも大勢のエルフが集まってきた。舞踏会室は館で一番広い部屋で、館中の椅子を運び込んで二百席を用意しておいたにも関わらず、部屋の後ろには立ち見をしている者があふれている。

 舞踏会室の隣にある控えの間で、ウィローの引き合わせにより、オフィーリアはウィローの祖父アーシュと始めて顔を合わせた。長く伸ばした髪も髭も、すでに金色から白銀色に変わっていて、長命なエルフとしてもかなりの高齢のようだが、美しく整い威厳のある顔からは、実際の年齢は想像できなかった。


「水のエルフ。誉れ高きキャンディドス家の当主にして、水の精霊の使い手、アーシュ・キャンディドス。まことに尊きエルフの魂と芸の技を持つ音曲士オフィーリア殿に、ご挨拶申し上げる」

 エルフの学校に通っていたとはいえ、オフィーリアも、ここまで格式の高いエルフの伝統にのっとった挨拶を受けたのは初めてだった。事前にウィローに教えられていたので、返事の口上は用意してある。

「陸の人。音曲の技の使い手、オフィーリア・リカレスト。誉れ高きエルフの長アーシュ殿に、ご挨拶申し上げます」


「うむ。人間でありながらエルフの伝統をしっかり身につけておられる。さすがウーデの教え子。あやつが生きておったら、さぞ喜んだであろう」

「恐縮です」

 ウーデとは、プリントン・ウーデ音楽院の創設者ウーデ・クレモル師のことだろう。学校の中庭に石像が建てられていて、その銘板によると、約二百年前に亡くなられたはず。そんな方を「あやつ」呼ばわりするとは、アーシュは今何歳なのだろう?

 オフィーリアは、改めて恐ろしくなってきた。こんな、生きる伝統のようなエルフの前で、正典礼などやっていいのだろうか?


「ウーデは、失われつつあったエルフの伝統を次の世代に残さねばと、学校を作った。一人和音の歌唱技術も、継承する者が減り続けておったからな。この郷にも、かつては音曲士がいたが、最後の一人がいなくなって久しい」

「さようでございますか」

 必死に伝統エルフ語の表現を思い出しながら、オフィーリアは、なんとか相槌を打つ。

「最後の音曲士は、偶然にも、オフィーリア殿と同じ発音の姓であったな」

 同じ姓ということは、アームニス・リカレストの家族だったのか? それとも、リカレストという姓は、エルフの中ではありふれているのか。オフィーリアは頭の中で伝統エルフ語の文章を組み立ててから、思い切って質問してみた。

「その方は、アームニス様のご家族であらせられますか?」

「おお。アームニスを知っておるのか。いなくなった音曲士は、奴の兄じゃ」

 いなくなった、という言い方は、亡くなったとは異なるエルフ語である。まだどこかで生きているということか?


「そなたは、今は音曲士としてウィローに仕えておるが、いつまでもそのままということはあるまい。目指すものはあるのか?」

 アーシュの言葉に、オフィーリアは言うべきか言わぬべきか迷った。だが、横に座っているウィローが、微笑みながらうなずいているのを見て、思い切って夢を話すことにした。

「あの、いずれ音曲を子ども達に教える塾を持ちたいと思っております」

「なんと!」

「エルフの子も、人の子もへだてなく、音曲の美しさを楽しみながら学べる場所にしたいと思っています」

「エルフの伝統を継ぐだけでなく、次に伝える役目も果たしてくれると申すか」

 伝統を伝えるなどと言われると、恐れ多い。好きなもの、素敵なものをもっと知ってもらいたいと思っているだけ。


「まさしくウーデの申し子。あやつも学校を開いた時から、エルフのみならず、望むものには、すべからく門戸を開くべきと主張して、守旧派から目の敵にされておったわ」

 ふっふっふっと静かに笑う。

「あやつの望み通りの後継者じゃ。その夢、きっとかなうぞよ」

「ありがとうございます」


 召使の一人がやってきて呼びかけた。

「アーシュ様。お時間でございます」

「うむ。それでは行こうか。オフィーリア殿」

「頑張ってきてね!」

「あれ? ウィロー様はいらっしゃらないのですか?」

 ウィローは、首をすくめた。

「私は、いつでもオフィーリアの歌は聴けるからね。今日は満席みたいだし、ここで待ってるよ」

 大勢のエルフの前で歌うのに、ウィローがいてくれないのは心細かったが、あの寝室の状態のウィローをひとに見られないで済むのなら、と、オフィーリアはほっとした。

 オフィーリアは、首にかけた首飾りにそっと指を触れた。エステュワリエンを出発する前日に、ウィローと二人そろいで買った首飾り。これがあれば、つながっていると感じられる。

「それでは、行ってきます」

 オフィーリアは、アーシュと共に舞踏会室に向かった。



 後の世に語り伝えられたところによると、水の桃源郷で九十年ぶりに執り行われた正典礼には、二百四十三名のエルフが参列したとされる。典礼を主導した音曲士オフィーリアの歌声は、至高の響きで会場を満たし、参列者からは、精霊の歓喜に打ち震えて失神する者が続出したという。

 エルフではなく人間が主導した正典礼に対して疑義を持った、近郷の村長むらおさから問われた長老のアーシュは、こう述べたと伝わる。

「エルフの正典礼とは、精霊の祝福と歓喜を参列者で分かち合う儀式であり、オフィーリアの音曲は、まさに伝統に則したものであった。いずれ、さらなる恵みがもたらされるであろう」

 この予言通り、一年程のち、正典礼の参列者の間で出産が相次ぎ、ひと月に八十名以上の新生児が生まれたという。中には、三百四十歳という、長命のエルフにしても高齢での出産も記録されている。

 これが、世に言う『聖オフィーリアの歓喜の奇跡』である。

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