2-4 水の桃源郷(2/2)

「オフィーリアは、純正律の一人和音でエルフ語の頌栄歌しょうえいかを完璧に歌えるんだよ。そんな器用な詐欺師、いるわけないでしょ。身分証も持ってるし」

「姉上。騙されてはいけません。おい、女! その身分証も偽造品だろう!」

 エルムの厳しい声に対し、オフィーリアはその場にしゃがみこみ、短い間隔で激しく息をしながら、かろうじて答えた。

「は……は……は……は……ち、違います。は……は……は……こ、これは、は……は……本物です。は……本当に、は……は……音曲士の……」

「そもそも、リカレストなどと尊いエルフの姓を名乗っているのも詐称だろう! 人間のくせに、姉上の優しさにつけ込んで金を騙し取っている奴は、出ていけ!」

「エルム! いいかげんにしなさい!」

 とうとうウィローは、本気で怒りの声を上げて、エルムの胸ぐらを掴んだ。

「姉上、目を覚まして下さい。プリントン・ウーデ音楽院に、卒業証明と音曲士の資格確認の手紙を送りました。近いうちに返事が来るでしょう。それを見てから、冷静に判断してしていただけませんか」

「……私は、卒業証書にお金を払ってるんじゃない。オフィーリアの歌に価値を認めて、お金を払っているの。プリントンがなんと言おうが、彼女は私の専属音曲士であることは変わらないから」

「しかし、経歴詐称の犯罪人を雇っているなんて、キャンディドス家の伝統と権威に傷が付きます」

「まだ、そうだと決まったわけじゃないでしょ!」

 ウィローは、ギリギリとエルムの首元を締め上げているが、エルムは両手をだらんとおろしたまま、全く抵抗しない。ただ、悲しそうな目でウィローの顔を見つめていた。


 オフィーリアは、 その場にしゃがみ込んで激しく肩で息をしながら、かつて言われた罵詈雑言を思い出していた。

「あんたみたいな人間が、なんでこの学校にいるの」

「先生にひいきされて成績がいいだけでしょ」

「いるだけ邪魔なんだよ」

「さっさと消えろ」

「人間のくせにこの学校の名前を名乗る資格はないわ」

「早くこの学校から出て行って」


「オフィーリア! 大丈夫?」

 息が苦しくて、深く吸いたいと思っても吸うことができない。頑張れば頑張るほど、早く短い呼吸しかできず、どんどん手足が冷たくなってくる。心配そうなウィローの顔がすぐ横に見えるが、握った手を胸に当てて、ただ切れ切れに息を吸うばかりで何も言えない。


 突然、ウィローの顔が目の前に近づいてきて、くちびるで口をふさがれた。


 相手は目を閉じているので、美しいまつ毛が目の前にある。ふさがれたウィローの口から、ゆっくりと深い息が吹き込まれてきて、肺の中に染み渡っていくのを感じる。びっくりして逃れようとするが、頭の後ろに右手を回してしっかり押さえられているので、顔を動かすこともできない。いっぱいに息を吹き込まれると、今度は、くちびるを外して、背中に回した両手でそっと抱きしめられたので、肺の中の空気をゆっくりと吐き出すことになった。

 ウィローに吹き込まれた息を全て吐き終わると、嘘のように呼吸が落ち着いていた。

「大丈夫?」

「は、はい」

 落ち着くのと同時に、すぐ目の前でこちらを見ているウィローの、くちびるの感触を思い出して、オフィーリアは愕然とした。

 エルフの、雇い主と、キスしてしまった!?

 そう思った途端に、顔が熱くなり、心臓が激しく鼓動を打って止まらなくなる。

「あ、あ、あ、あの、ウィロー様? 先ほどは、何てことを?!」

「うん。短い呼吸が止まらなくなる発作を起こしてたから、鎮静させてあげた。人間は、大怪我をしたり厳しい状況に追い込まれたりすると、そういう発作を起こすんだよ。戦場ではよくあることだから。もう大丈夫」

 ウィローは、オフィーリアの肩を抱いたまま、玄関に立っているエルムを睨みつけた。

「あんたね、これ以上オフィーリアを傷つけたら許さないからね。たとえ弟でも容赦しない。二度と彼女に近づかないで」

「姉上。プリントン・ウーデ音楽院からの返信が来たら、この女の目の前でお見せします。それまでは、この女には近づかないようにしますが、姉上も、先ほどのような穢らわしいことは、おやめ下さい」

「うるさい! あっちへ行って!」


 ウィローがオフィーリアの肩を支えて立ち上がり、廊下を歩き始めると、玄関のすぐ横の小部屋から黒い服を着た召使のエルフが二人、慌てて走り寄ってきた。エルムとウィローが言い争いをしていたので、恐れをなして様子を見ていたようだった。

「ウィロー様、お帰りなさいませ」

「どうぞ、お荷物をお持ちします」

「ヘンビット、ありがとう。私の荷物はいいから、彼女のを持ってあげて」

「どうぞ、お荷物をおろして下さいませ」

 四人で廊下を歩きながら、ヘンビットと呼ばれた召使がウィローに伝言を伝える。

「アーシュ様からの言づてです。到着したら、まずは湯浴みをして長旅の疲れを癒していただくように、とのことです。晩餐は定刻通り、大食堂で、ご家族揃って召し上がっていただきます。音曲士様にも食事は用意されます」

「ありがとう」

 オフィーリアの肩を抱くウィローの手に力が入る。

「明日は、朝食の後、エルフ諸侯を集めて会議が開かれます。ご出席下さいませ」

「わかった。悪いけど、会議の間、オフィーリアの面倒を見ててくれないかな。シュトルームプラーツから、ずっと歩き続けてきたから、かなり疲れていると思う」

「分かりました。お任せ下さい」

 オフィーリアは、ウィローの肩を借りながら小さな声で言った。

「どうも済みません。お世話になります」

「大丈夫。ここも私の家だから、エステュワリエンの館にいる時のように、ゆっくりくつろいで」

 そう言われても、さっきのエルムのように、むき出しの敵意を向けてくるエルフがいる環境には耐えられそうになかった。八年前のあの時のように。

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