1-2 契約(3/3)

 オフィーリアは、相手を怒らせないように慎重に言葉を選んだ。

「あの……専属契約は……ちょっと……。こ、こんなにお世話になっておきながら、お断りするのは申し訳ないのですが……」

「えー、一千じゃ足りない? そうか、専属の音曲士って契約したことなかったから、相場を知らなくてごめんね。じゃあ、二千ならどう?」

「ち、違います。一千でも多すぎます! 住み込みで、食事や寝る場所を提供いただけるなら、二百ムントもいただければ十分です」

 オフィーリアは、冷や汗をかきながら言った。

「えっ? たった二百ムント? それじゃ、あの歌の価値に釣り合わないよ」

「価値、ですか」

「美しい芸術には、それにふさわしい対価が支払われるべきでしょ。安売りするのは、美への冒涜だから許せない。あの歌声には少なくとも一千ムントの価値がある」

 急に気色ばんだウィローの表情が恐ろしく、オフィーリアは小さくなった。


「ね、なんで専属契約はダメなの? その塾を作るための準備金にもなるし、ちょうどいいと思うんだけどな」

「あの……」

 正面から深く青い瞳でじっと目を見つめられると、何も言えなくなる。エルフが怖いから、とはとても言い出せない。エルフの音楽学校に行き、エルフの歌を歌う音曲士の仕事をしているのに、そんなことが信じてもらえるはずがない。

 オフィーリアも、最初からエルフが苦手だったわけではない。幼い頃からエルフに歌の手ほどきをしてもらって、一人和音の発声を身につけたことが音楽学校に進むきっかけになったので、むしろエルフには親近感があった。だが、音楽学校での経験が彼女を変えてしまった。何かのきっかけで、突然氷のように冷たく辛辣になるエルフへの恐怖が身に染み付いている。


「歌うのは毎晩、夜寝る前に一曲だけでいい。それ以外の時間は、この館で自由に過ごしてもらっていいし、街に出かけたければ連れて行ってあげる。食事はもちろん、私たちと同じものを提供するし、寝室や温水浴は、今日と同じくオクサリスに準備させる。他に必要な物があれば、なんでも言って。そうだ! その塾も、この館の中でやればいい。一階の応接室が空いてるから、使っていいよ」

 ウィローに畳み掛けられて、オフィーリアは言葉に詰まったまま、何も言えない。生活に必要な物を全て準備してもらった上に、塾の場所まで提供されるなら、お金の使い道もない。それで一千ムントの大金が毎月入って来るなんて。

 こんな好条件での契約を断る理由なんてない。ただ一点だけ、エルフに仕えるということを除けば。


「じゃあ、三ヶ月の期間限定ならどう? 三ヶ月たって、やっぱりどうしてもダメならそれでおしまい。もし、まだ続けてもいいかなって思ってくれたら、延長するの」

 前のめりになって、すがるような目のウィローの様子を見ながら、オフィーリアは空っぽになっている財布のことを思った。ここで三ヶ月我慢すれば貯金もできる。三千ムントも貯めれば、ここを出ていっても、塾を開く資金になるだろう。その間に、次の雇い主になってくれそうな金持ちの人間を探せばいい。

 お金を貯めるまでの我慢だ。

「わかりました。三ヶ月の期間限定であれば、契約します」

「ほんと!? よかった! フェルン。契約の神聖紙を持ってきて」

「かしこまりました」

 フェルンは、一礼すると部屋を出て行った。


「ねえ。食事が終わったら、街に出かけてみない? 昨日来たばかりだと、エステュワリエンのこと何も知らないでしょ? 街中を案内してあげるよ」

「え……」

 夜に歌うだけでなく、街歩きまで付き合わされるのか。戸惑っているオフィーリアの返事は待たずに、ウィローは、後ろに控えているオクサリスの方を振り向いた。

「オクサリスは、宿屋横丁にある『歌姫のいる店』に先に行って、オフィーリアの荷物を受け取ってきて。主人には昨日話をしてあるから」

「わかりました!」

 オクサリスが出て行ってしばらくすると、フェルンが戻ってきた。

「ウィロー様、お持ちしました」

 フェルンが持ってきた契約の神聖紙には、さっきウィローが言っていた条件が書かれていた。ウィローは、一番下にサインをし、オフィーリアに渡す。契約書の横に、フェルンが百ムント金貨を十枚積み上げた。

 金貨の山を見ながら、オフィーリアはため息をついて、契約書にサインをした。背に腹は変えられない。でも、三ヶ月も耐えられるだろうか……。


***


 朝食を終えると、オフィーリアは、オクサリスが寝室に持ってきた外出着に着替えて正面玄関に出た。受け取った金貨は、懐の革袋に入れてあるが、そんな大金を持ち歩いていていいものか、ドキドキしていた。

 ウィローの館は、市街地の東にそそり立つ丘の上にあり、正面玄関から眼下に街を見下ろせる。建物の外に出て初めてそのことに気がついたオフィーリアは、ウィローに尋ねた。

「あの……、昨夜あの酒場からここまで、どうやって私を連れてきていただいたのでしょうか? 街からずいぶん離れているようですが」

「ん? 背中におぶってきたけど?」

 オフィーリアは絶句した。こんな急な坂道を、背中におぶって登ってきたなんて。見た目はほっそりして見えるけど、このエルフはどれだけ体力があるのだろう。


「今日は一日歩き回るつもりだから、外出着はズボンを用意させたけど、サイズは大丈夫?」

「は、はい。ちょうどいいです。あ、あの、外出着も貸していただき、ありがとうございます」

「うん。似合ってる。じゃ、行こか」

 ウィローが先に立ち、大きくうねりながら丘を下る長い坂道を歩き始めた。


 坂道を下り切って、石畳で整備された街路を進み、大きな広場に着いたところでウィローは両手を広げてオフィーリアに向き合った。

「ここが、市民市場。肉でも野菜でも、食器や金物でも、なんでも売ってるよ」

 広場には、色とりどりの布製の屋根を張って、台の上に野菜や果物を山盛りにした店や、ナイフやフライパンを並べた店などが、整然と並んでいた。広場の隅の方には、鶏の鳴き声が聞こえる小屋もある。

「オフィーリアは、果物は好き?」

「はい」

「どれがいい? 夕食のデザートを買ってこうと思うんだけど」

 ウィローは、手近な店の台に積み上げられた果物を何種類か手にとってオフィーリアに見せた。

「あの、オレンジなどいかがでしょうか」

 顔色をうかがいながら、ウィローが最初に手に取った果物の名前を出すと、ウィローは、嬉しそうな笑顔になった。

「オフィーリアもオレンジ好きなんだ! 美味しいよね! おじさん、オレンジ八個ちょうだい」

「おう。ウィローじゃないか。そのオレンジは今朝収穫してきたばかりのおすすめ品だ。さすがお目が高い」

 店主は、大きな麻袋にオレンジを入れて渡す。

「八個で四ムント」

「ありがとう」


 銀貨を受け取った店主は、オフィーリアを見ながら不思議そうな顔をした。

「今日は、いつもの召使と一緒じゃないんだ。しかもエルフじゃなくて人間じゃないか。人間の召使も雇ったのか?」

「違うよ! オフィーリアは召使じゃない。私専属の音曲士さまだから」

 ウィローが、ムッとした表情になったので、店主はあわてて手を振った。

「すまん、すまん。おんきょくし、とかいうのはよく知らないが、そういう仕事なのか?」

「そう! すっごく素敵な歌を歌ってくれるんだよ。じゃあね」

 機嫌を直して微笑むと、オレンジの入った袋を抱えて市場の中へ足を進めた。

「あのおじさんの店は、いつも新鮮で間違いないんだよ。だから、果物はいつもあそこで買ってるんだ」


 買い物客を呼び止める売り子の声で賑やかな市場の中を歩き回り、オフィーリアが見たこともない珍しい野菜や、きれいな花束を買ったウィローは、広場の隅に置かれたベンチに座った。

「次は、東門から外に出て河の民の村に行こう。あそこには、新鮮な魚がたくさん売ってるんだよ」

「河の民?」

「そう」

 ウィローは、エステュワリエンの地図を取り出してベンチの上に広げた。



※ ウィローが見ているエステュワリエンの地図は、近況ノートに添付してあります。本文に挿絵が入れられないので、こちらを参照して下さい。

https://kakuyomu.jp/users/daikanzaka_nozomu/news/16817330655984403204





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る