第十一話 いつかは太陽が沈む

「すまない、宗亭。残ってくれるか?」


 十月二十二日の帰りの会の後、帰ろうとした大祐は担任に引き止められた。だが、担任も、周囲のクラスメイトも、もちろん大祐本人も慣れっこだ。最近はしょっちゅう呼び出されているため、クラスメイトも一々騒ぎ立てなくなっていた。


「はい、わかりました。生徒指導室でいいですか?」


「ああ、頼む」


 担任は別に用事があるのかそそくさと立ち去っていく。大祐も、早急に身支度を整え生徒指導室に向かおうとするとクラスメイトの会話が聞こえてきた。


「本当に貴治どうしたんだろうな……」


 貴治を心配する声だった。長い間休んでいれば、さすがに何かあったのではないかとクラスメイトが疑うのは必然だった。


「なあ、大祐。おまえ何か知らない?」


 声をかけられたのはちょうど大祐が教室から外に出ようとしたときだった。


「……ごめん、わかんない」


 本当は知っている。でも、これだけは言えない。言ってはいけないのだ。

 適当に誤魔化すと、逃げるように教室を出た。一階にある生徒指導室へと向かうために一段ずつ階段を降りる。階段の踊り場にある窓からは日光が差し込むも、既に大祐は日光の当たらない位置まで階段を移動していた。


「何やってんだろう。俺」


 貴治はすぐに男に戻ると信じて、結局こんな日数が経過してしまった。嘘を通すのもさすがに限界があるし、何より良心の呵責に耐えられない。

 だが、仕方ない。

 連れて行ったのは自分なのだからと、どうすることもせず受容するしかない。

 おとなしく生徒指導室へと向かった。


「失礼します」


 大祐は一々担任に確認も取らずに椅子に座った。数日間の度重なる聴取にすっかり慣れてしまったのだ。


「おお、来たか。にしても顔色悪いぞ。大丈夫か?」


 大祐は、貴治が性転換して数日辺りから精神的疲労が目立ち始めた。さすがのこれには大祐の家族も、いろいろと貴治のことを詮索するのを止めたのだ。しかし、誰に聞かれずとも精神的疲労は増え続けていた。


「ええ、大丈夫です。また、貴治のことですか?」


「いや、違う。たしかに貴治のことも問題ではあるが、今回は宗亭、おまえのことだ」


 いつもなら貴治の様子についてあれこれ聞かれるはずなのに、担任は大祐と面と向かいあってそう告げた。


「俺のですか?」


 もしや、本当は貴治のことを知っているのがバレたのではないか。そんな考えが浮かんできてしまい、拳を固く握りしめゆっくりと呼吸を整えた。


「ああ、テストなんで真面目にやらなかったんだ?」


 大祐の成績は決していいとは言えない。ただ、単純に成績がよくないのと、0点は大きく異なる。さすがに全教科0点を取れば生徒指導室に呼び出されるのは必然だった。


「それは……。貴治とは友達ですから。一緒に補習を受けようと思って」


 これは本当だ。貴治が不慮の事故により性転換してしまったというのに、原因を作ってしまった自分がおめおめと補習を回避するわけにはいかない。そう考えたからだ。


「……。俺が貴治の行方がわからなくなったことを伝えたの、初日の午後だよな? なんで午前に受けたテストも白紙なんだ?」


 まさか、貴治が元に戻るまでかかる時間が予想を大きく超えなんて──。などとはいえない。

 担任は、ただ大祐を訝しげに見つめた。


「本当は知ってたんじゃないか? 正直に言ってくれないか?」


 貴治が性転換したなんて、誰が信じるだろうか? 本人が実際にこの場にいて、必死で訴えた所で信じてくれない可能性だってある。

 今の貴治は面影があるだけの明らかな異性だ。にもかかわらず、貴治だと主張した所で大祐も貴治も残念な人に思われまともに相手などしてくれないだろう。

 DNA検査だって、果たしてどうなるかはわからない。性染色体が変わったのだ。染色体の中にあるDNAが変化していても何も驚くことではないのだから。


「それは……」


 咄嗟に言葉が出てこない。

 この重苦しい状況を打破しようとして、何かを言おうとして口を開けては何もでないをただ繰り返す。


「本人から口止めされているのか? おまえら仲いいからな。そういうこともあるだろう。別に友情を引き裂いてまで言えとは言わないよ。せめて俺には言わなくていいから、貴治の家族には伝えてあげてくれないか?」


 担任としては、あくまでも貴治の意志を尊重したいようだ。


「ごめんなさい。言えません。貴治のご家族にも」


 見た目が大きく変わってしまったとはいえ、家族はわかってくれるのだだろうか。

 大祐はあまりの不安に思わず胃から酸っぱいものが上がってくるのを感じた。大祐でさえこれなのだ。当の本人は、相当なものだろう。


「宗亭? 本当に大丈夫か」


 急に顔色が悪くなり、かつ口元を押さえたのをすぐに担任は感じ取った。仮にも思春期の生徒を預かる職業なのだ。プレッシャー、不安等で苦しんでいることくらいすぐにわかった。


「だ、大丈夫です」


 大祐は上がってきたものを無理に押し返し、深呼吸をする。


「すまない。ちょっとプレッシャーかけすぎたか。今日はもう帰っていいぞ。もし言ってもいいという日が来たらまた教えてくれ」


「……ありがとうございます」


 大祐は、何も言えない。だからこそ、この一言が限界だった。深々と担任に向かって頭を下げると、おとなしく生徒指導室を出る。

 一息つくのもつかの間、再び酸っぱいものが込み上がってきてトイレへと急いで向かう。迷いもなく大便器の戸を開けるとその便座の中に勢いよく顔を近づけて吐いた。上がってくるものを全て出し切ると、ここがトイレにもかかわらずにその場にへたり込む。


「はぁ……はぁ……」


 出したものを流し、洗面所で口を濯ぐと改めて自分の顔色を見る。

 改めて見ると、自分では気が付かなかったが随分と窶れており、顔色が悪い。スマホを取り出し、メッセージを貴治に送ろうとするも手が止まる。

 貴治にこのことを伝えようとした。しかし、たださらに貴治をプレッシャーを与えて苦悩させるだけではないのかとふと脳裏をよぎる。

 何も入力できず、ただ今までのスマホのメッセージを見ながら何か打とうとして手を空中で動かす。

 しかし、その瞬間新しいメッセージのお知らせが入った。差出人は貴治だ。ちょうど画面を開いていたことからすぐに大祐はメッセージを見ることができた。


『おねがいきて』


 変換する余裕がないほどにスマホの電源が心許ないのか。そんなことを考えつつこのメッセージの真意を考えてみる。前回は何かあったことを匂わすメッセージの割に、実際はただの買い物の荷物持ちだった。今回も同じようなものだろうと判断すると、大祐はゆっくりと静の家に向かうことにした。



「にしても、辺鄙な場所だよなここ」


 すっかり慣れたとはいえ、橡平良公園から静の家までは二十分以上かかる。大祐は一応手土産の一つを買おうと思い、笹団子と暇をしている貴治用に文庫本を何冊か購入。結果として買い物だけで二十分近くかかってしまった。

 さらに、雨が降っていたため滑るのを警戒し慎重に歩いたため移動に大きく時間がかかりメッセージを受信してから一時間半近くが経過していた。

 山頂に着くなりすっかり見えるようになった館へと向かい、ドアノッカーを鳴らした。館は広いため、鳴らしてもきちんと館の奥まで聞こえたのだろうか──などと考える時間はなかった。

 ドアは、ドアノッカーを鳴らし終えた瞬間に勢いよく開いた。


「遅い!」


 たしかに前回と比べれば時間はかかっているが、それは呼び出された理由が前回と同じだと考えてだ。しかし、ドアを開けた時の貴治の表情は、ただ怒りと悲しみの混じり合った複雑な顔だ。そして、すぐに家の中へと戻っていった。


「……え?」


 予想していない貴治の反応に、大祐はどうしていいのかわからず困惑する。とはいえ、静が代わりに説明してくれるだろうと考えると「おじゃまします」と言いリビングへと向かった。

 広いリビングだというのに、貴治は隅っこで蹲っている。

 ますます意味がわからない大祐は、とりあえず持ってきた手土産を出した。


「と、とりあえず笹団子食べないか?」


「いらない」


 即答だった。

 大祐は気を取り直し本を手にする。


「貴治の好きなTS小説の続巻買ってきたけど──」


「そういう気分じゃない」


 またしても即答だった。貴治が好きなTS小説の新刊に興味を示さないなど、相当塞ぎ込んでいるのだ。

 自分からはあまり話そうとしないので、何が起こったのかを把握するには静から説明をしてもらう必要があるのだが静の姿が全く見えない。


「ところで、倉敷さんはどこにいるの? 外出してる?」


 大祐はベランダを探すと、振り返り貴治に聞いた。

 貴治は口にするのも億劫なのか一枚の手紙を大祐の方へと見せる。大祐がそれを読むと、おおよその事態は把握した。


「僕さ、いろいろ迷惑かけてるから……」


 貴治がこんな弱気な発言をしたのを聞いたのは、大祐にとって初めてだった。だが、大祐にしてやれることなどない。そもそも、大祐と静の関係性はかなり薄く、貴治が性転換した時と買い物の時の二回しか会っていないのだ。その上、二回目はほとんど話していない。あの文章の意味を推測するにはまだまだ静に関する情報が足りなかった。


「ねぇ、大祐。僕のこと学校でどんな扱いになってる?」


「ああ、何かあったんじゃないかって噂になってる。一応、親御さんは捜索願を出そうとしてるとも聞いた」


 予想以上に大事になってる。早くなんとかしなければならない。けれども、貴治には何もできない。そのもどかしさが貴治の心にのし掛かる。


「よくわかんないけど、貴治がそんなに塞ぎ込むことじゃないだろ。とりあえず、倉敷さんの帰りを待とう」


「待とうって言っても、どんどん倉敷さんにも親にも迷惑かけてるし、テストのこともあるし早く──」


 自分は迷惑ばっかりかけていると思えた。だからこそ『早く』と口にした時続く言葉が喉まで出かかって突如止まった。


「ん? どうした?」


 突然言葉を止めて混乱している貴治に、大祐は言葉をかける。だが、貴治は混乱しすぎて大祐の言葉すらろくに聞こえていなかった。

 早く男に戻りたい。こんな短い言葉すぐに言えるはずなのに、どうして言葉が止まってしまったのか。

 今の生活は、精神的にも苦しいはずだというのに。


「あれ? どうしたんだろ、僕」


 ひどく混乱している貴治。そんな光景を大祐は見てもいられず、とりあえず手元にあった笹団子を紐解き貴治の口の中に詰め込んだ。

 考えても混乱するだけならば、いっそのこと考えないほうがいいという大祐なりの配慮だった。笹団子を咀嚼して飲み込むと、大祐は優しく語りかけた。


「戻れる方法が見つかったら、できる範囲でやってやるからな」


「え? ああ、うん……」


 不思議と嬉しさはあまり感じなかった。奇妙な感覚に貴治は頭を悩ませた。


「だから考えるな。混乱するだけだから。それに、倉敷さんだって何か理由があったんでしょ」


 情緒不安定な貴治を、大祐は必死に諭す。だが、その貴治の暗い顔色が晴れることはない。


「違うよ……」


「きっとそうだよ。だって、責任感なんだかんだで強そうじゃん。多分」


 いくら元気を出すために静のことを正当化しようとしても、結局は断定ではない。大祐は静との交流が少なすぎる以上推測に頼るほかなかったのだ。


「多分じゃん。やっぱり違うよ」


「いやだから、倉敷さんは貴治のことを──」


 さっきから自分が否定しても執拗に同じことを言ってくる大祐。自分が真剣に悩んでいるというのに、その考えを全く考慮しない。さすがの貴治も苛立ちが貯まり、ついに堪忍袋の緒が切れて立ち上がった。


「だから違うって! 大祐は倉敷さんのことほとんど知らないでしょ!? 勝手なこと言わないで!」


 大祐は、貴治のために一生懸命努力しているつもりだ。しかし、貴治は自分の言うことを全く聞いていくれない。苛立ちが溜まっていたところで貴治が激昂しだした。自分がそんなこと言われる筋合いはないと、大祐も立ち上がった。


「勝手? 勝手とはなんだ! 俺はおまえのことを思って」


「そういうところだよ! 変に期待させないでよ! もう帰って!」


 貴治は、大祐に目線すら合わせなくなってしまった。

 期待したくないのは、予想以上に男に戻る手段が見つからないからだ。予想よりも長いからこそ、今こうして二人は苦しんでいるのだから。


「あのなあ、貴治。一旦落ち着いたらどうだ? それまで帰らんぞ」


 今の貴治は冷静さを欠いているというのが大祐の結論だった。無理に落ち着かせなければならないとも。

 それに、こんな状態のまま貴治を一人にするには危険だと判断した。


「あーもう、うるさいよ!」


 貴治はそう吐き捨てると、大祐を見たくもなかったのか足音も気にせず早足で館を飛び出していった。

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