帰還

第32話 伯爵邸の人々

 キリア伯爵邸では、当主であるキリア伯爵を筆頭に侍女に至るまで全員がテラの帰宅を待ちわびていた。

 伯爵夫妻は、テラがデレク皇太子と共に移動魔法で降り立つであろう庭園に幾度も足を運び、兄であるシリウスは、水晶を覗き込み度々溜息をついては、ひとりごちった。

 「何故なんだ。水晶に返答が無いのは仕方がないにしても、追跡魔法が反映していないのはどういうことなんだ」と、苛立ちを隠せない。テラが旧宮殿の結界の中にいることをシリウスが知るはずもなく、結界の中ではシリウスの追跡魔法も効力を発揮できずにいた。


 「テラお嬢様のお部屋の花はこちらでいいかしら。香りは、」と、侍女が言えば、

 「今日のディナーには、お嬢様の好物のパイ包みも。あっ、いや。その前にお疲れだろうから甘いものを準備しないと」と、コック長が呟く。

 テラの癖である呟きは、このような環境によって養われたのかもしれない。

 ただ一つ確かなことは、テラが両親や兄だけでなく伯爵邸のすべての人間に愛されているということは、間違いない。


 額に光を持たない魔法力のないテラが愛される理由は、哀れみではなくテラ自身の気質によるものだった。テラは、身分に関係なく高慢な態度をとることは決してなかった。何より、人としての尊厳を思いやることが幼いころから身についていた。

 それは、キリア伯爵夫妻から受け継がれていた。


 リンは、テラが幼いころからの専属侍女である。

 当然リンもテラの帰宅を心待ちにしていた。テラの顔を思い浮べながら疲れて帰ってくるであろうテラの回復を促す計画を練っていた。バラ風呂にマッサージ、全身パック。三日ほどして体力が回復されたなら庭園でテラの好きな花々に囲まれながらのランチで心の回復。しばらくは子供の頃のようにオルゴールをかけての午睡など、次から次へと勝手に想像していた。

 「私には、テラお嬢様が全てなのだから」リンのいつもの口癖である。他の侍女たちもテラのことを愛おしく思っていたがリンの熱すぎる思いには、少々引いていた。

 

 それは、テラがまだ七歳の頃のこと。

 リンは、十五歳で侍女として働き始めたばかりだった。当時、言いつけられた仕事は、掃除洗濯などが主で伯爵家族や来訪者たちと直接かかわることはなかった。

 単純な仕事ばかりだった。

 それでもリンにとっては、その一つ一つが難しいものだった。掃除をすれば何かを壊してしまう。洗濯をすれば形がいびつになったり色が不思議なことになる始末だ。

 「これでは、駄目だ」と、気合を入れて頑張れば頑張るほどに失敗が増えていった。

 そんなある日のこと。

 ガッシャーンと、陶器の割れる音がホールに響き楽団の音色がかき消された。次にその空間を静寂が包みこんだ。

 「も、申し訳ございません」頭を下げたリンには、その一言を発するのがやっとだった。

 普段ならリンが足を踏み入れることのない場だった。

 だが、その日に限って侍女が複数人体調を崩していたために、不慣れなリンも料理を運んだりグラスを交換したりしていた。

 そのホールでは、貴族間での交流の場としてキリア邸でのダンスパーティーが催されていた。先代キリア伯爵が亡くなり爵位を受け継いだテラの父、現キリア伯爵が初めて主催した記念すべきパーティーであった。


 リンは、何かしらの体罰を受け解雇されるであろうと覚悟した。代々受け継がれてきた白磁の大きな花瓶は、シンプルな造りであるものの平民のリンの目にもかなりの値打ちの品であると理解できた。

 招待客も目を見張った。

 このパーティー会場での侍女の失態は、主催者である伯爵にとって大きな汚点となる。加えて、受け継がれてきた白磁の花瓶の無残な姿。貴族の中には、そのような失敗を招いた侍女の命を奪う者もいる。


 一瞬の静寂を破ったのは、幼いテラだった。

 「ごめんなさい。私が、お花に、花瓶にぶつかったんです。このお姉さんは、落ちてくる花瓶から私をかばってくれたんです。」泣きながら訴える幼い令嬢であるテラを大人たちが注視し、リンに再び目を遣った。リンの左の額からは、鮮血が滴っている。

 テラの母親であるであるシェリー夫人がリンに歩み寄り、レースのハンカチを額の傷に押し当てた。

 「あなたは、娘を救ってくれたのね。ありがとう」と言うと、他の侍女にリンを退室させ処置を受けるべく指示した。テラもリンと共に退出した。


 「さあ、皆様。お騒がせしてしまいましたが、まだパーティーは始まったばかりです。今宵は、帝国一の楽団の演奏です。ワインも珍しいものを取り寄せていますので存分にお楽しみください」と、にこやかにキリア伯爵が声をした。

 再び軽やかな演奏が始まりホールの真ん中でキリア伯爵夫妻がダンスを始めると、次第にいくつものドレスの花が舞っていった。

 


 リンは、傷の手当てを受けながら思いを巡らした。

 たとえ貴族の犯したことであっても侍女のせいにされることは、多々ある。それなのにこの幼い令嬢は、貴族たちの集まる場で謝罪し事実を話したのだ。

 リンの瞼の裏には、幼いテラのその姿が尊い存在として残った。

 その日を境にリンの仕事ぶりは飛躍的に成長し、テラの専属侍女となるまでにそれほど時間を要さなかった。


 その夜テラは、自室で母のシェリーから花瓶にぶつかった経緯を聞かれ、自身の軽はずみな行動が侍女を窮地に追いやることもあるのだと注意を受けた。注意した後にシェリーは、「怪我がなくって良かった」とテラを優しく抱きしめたのだった。

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