3

 その一言が与えられてもすぐには反応できなかった。

「それが、どうした?」意図がわからずに訊き返す。

「重要なことよ? わたしと君が会ったのはこの学校が初めてなのに、どうして昨日わたしを見つめたの?」

「見つめたか?」「ええ、バッチリ。目が合ったでしょ?」

 人違いだと言うのは苦しいものがあることに気づく。

 自分の白い髪……何よりサイネージに飾られた自分の姿が写った広告……香珠妃とすれ違った人間が神谷通陽ではないと証明することのほうが難しい。

「今朝、わたしに会ったことを憶えていないと言ったのも、嘘よね?」

「なぜ、そう思う?」

「今日、君がわたしを見ても驚かなかったから」

「それがどうしたと言うんだ? 人に会って驚くことなど――」

「でも昨日の君は驚いたでしょ、違う?」

 昨日のあの一瞬の表情を見られてしまっていたのだ。

「もしきみがわたしを知らなかったとしたら。昨日もわたしに対して驚くことはなかったはず。そして今日わたしと会ったことで驚く……これが普通の流れじゃない?」

 何を言おうとしているのか、その輪郭が朧気ながら理解し始めてくる。

「けれど、その逆が起こった。つまり君はわたしを昨日から知ってて、そして知っているということをわたしに隠さなければならなかった」

 ……どうなってる?

 反論を挟むにしても、香珠妃が的を射ているために、挟めない。

「≪勇者≫のきみが得られる情報は何かを考えて、わたしのおかれてる状況……それを合わせれば答えが出たわ……。わたしが≪エクセプション≫だって」

 迂闊と思うには遅過ぎた。

 一つ目の理由で、香珠妃が数多いる≪魔王の蛹≫の兆候が出ている一人だということを認めさせる。二つ目の理由で、風姫の親しい人間が≪魔王の蛹≫であるというところまで絞り込む。そして最後の理由で、対象を天峰香珠妃であると特定できる根拠へと誘導させられた。

「合ってるかしら?」

 ぎりり、と奥歯を噛みしめる。

 香珠妃の思考の過程はどうあれ、彼女が出した結論は正解だ。しかし、通陽にも、香珠妃の論を否認しなければならならい理由がある。

「どうしたの? さっきから黙ってしまってるけれど?」

 そう問いかける目は、あの魔女を思わせる瞳だった。

 ……くそ……。

 その瞳だけ見つめ返しながら、通陽は考える。

 ……穴を見つけろ……どこでもいいから。

 彼女の論拠になっている、理由の一から三のいずれかに、致命的な欠陥を突きつければいい。

 ……だが、一つ目は駄目だ。公共の前提を崩すわけにはいかない。二つ目も無理だ、覆すためには結局真実を語るしかない……ならば三つ目しかないが……。

 彼女の論拠……もとい推理の前提は、『通陽が香珠妃を、昨日知っていたこと』。そして、それを支えるのは、あのとき通陽が彼女を見て驚いてしまったことにある。

 ……つまりその前提が崩れればいいだけだ……だが……。

 彼女に『昨日、通陽は香珠妃という存在を知らなかった』ということを認めさせなければならないが、そもそもにしてそんなものを第三者に納得できるような理由など――

 ……作れるわけがないっ!!

 内心の苦悶と戦っているうちに、香珠妃が椅子から離れ、さらに通陽に一歩近づいたところで屈み込んで、こちらを覗き込む。

「ね、神谷くん……わたし、怖いの……いつか≪魔王≫になって人を殺しちゃうのが……それが、わたしの生徒だったりするのも嫌なの……」

 少女のような怯えた声で、懇願される。その瞳は潤みを帯びており、その願いが本心から出ているものであるというのは容易に納得できた。

 ここまで必死に通陽を説得しようとするのも、彼女の語った理由が全てなのだろう。

 通陽の懐にはセカンド・ブレードがあり、彼女に死を与えるには五秒もいらない。

 ……理由はどうあれ、ロジックを崩せず、もし放置でもしたら。天峰香珠妃は、情報を流布することで、世界が混乱する可能性もありえる……。

 その香珠妃が日も経たないうちに≪魔王≫ともなれば、<キンドレド>による人類保護システムは崩壊する可能性もある。

 そうならないようには殺すしか、もうないのではないかという思いが支配したとき、ふともう一度彼女を見下ろした。

 まるで神へと懇願するような香珠妃の瞳。

 そして、嘘であれ、何であれ三つ目の理由を否定するための論理が通陽の中で構築される。

「先生が……綺麗だったから」

 滔々と口から出た言葉に、自分でも愕然とした。

「……へ?」言われた本人も予想だにしなかった言葉だったのか、間の抜けな声が漏れる。構わずに、通陽は続ける。

「先生を一目見て、綺麗だったから、驚いたんだ」

「ちょっ……そんな」

 考えた結果、彼女の推理の拠り所になっている昨日の通陽の驚愕の理由、それをすり替えることに決める。

 つまり、驚いたのは通陽が香珠妃を知っていたからではなく。

 彼女に見とれてしまったからだ、ということに。

 それが事実かどうかなどは関係ない、大事なことは、通陽が昨日の時点で香珠妃を知っていたという可能性以外を示すことにある。

「信じられないかもしれないが、本当のことだ」少しだけ、気を急くようにして告げる。

「いや、いや……待って……でも、それだったら、今朝だって」

「あまり意識してると、先生に知られたくなかったんだ」

「あ、……ああ……そう、なの?」

 突然の告白めいた言動に、香珠妃も香珠妃で困惑しているように声を上擦らせる。

「ああ……俺が、昨日先生を見つめてしまった理由は、こういうことだったんだ」

「そ、そんなことって……でも、でも……」打って変わって視線を泳がせる香珠妃。

 彼女の殺される算段、それが音を立てて崩れていく。

 一転して、まくし立てるような通陽からの『好意』にあてられつつ、香珠妃は「ふー」と深呼吸してから、立ち上がって通陽を見下ろした。

「だったら、証明してくれる? 神谷くんが、わたしを女の人として意識してるってっ」

 香珠妃を見上げながら、通陽は苦笑。

「どうしたらいい?」

「それは……えっと」

 考えていなかった、そう表すかのように言葉を探す間がしばしばあってから「、……キス、とか」というか細い呟き。

「わかった」

 通陽もまた立ち上がり、香珠妃を正面から見つめる。

「いいんだな、先生?」

 香珠妃の瞳は揺れていたが、コクリと頷くのが見えて、通陽はその細い顎に手を添えた。

 ……悪いな先生……嘘は得意なんだ。

 あ、と香珠妃が反応する間もなく彼女の赤い唇に口をつける。

 唇から熱が伝わり、香珠妃の強張りも感じる……同時に通陽の心は雪が積もっていくように冷えていくのがわかった。

 すぐに離すのは怪しまれそうだったので、きっかり三秒数えてから、離す。

「少しは伝わったか?」

「え、え? あれ?」

 完全に自我を保てていない香珠妃は呆然と自分の唇を撫でて、通陽に何をされたのかを思い知ったようだ。

「う……そ」

 それは、通陽が行った行為に対してか、それとも己の推理が覆されたことに対する安堵か。少なくとも、これにより香珠妃が考えていたロジックでは、通陽が香珠妃を殺すことはできなくなった。

 通陽は自分の口を拭いたい衝動をなんとか堪えたうえで、ダメ押しに問いかける。

「つまり、自分が≪エクセプション≫だとかは先生の心配し過ぎ……これでわかったか?」

「そう……なの?」

 それに頷いた通陽は、ゆっくりと香珠妃から離れて背を向ける。もうこの場をあとにしたくてたまらなかった。

「だから俺は先生を殺さない」

 そう言い残して帰ろうとしたときだった。

「待って。それ、はおかしいわ」

 制止の声を無視することはできず、振り返ってしまう。

「いったい何がおかしいんだ?」

「だって、あなたはさっき言ったわ。わたしを『殺せない』って」

「? それが?」意味するところがわからずに、腕を組む通陽に彼女は続ける。

「でも、今あなたは『殺さない』って言ったの」

「……別に、おかしいところなんて」

「気づかない? 英語に直せばこうなるわ。さっき言ったのは "I can't kill you." でも今のは "I won't kill you."……最初は可能性を言ってたのに、次は君の意志のことになった」

 ……しまった……。

 日本語では一文字異なるだけであるというのに、込められた意味は明らかに異なるのだ。

「ねぇ、どうして?」

 キスに恥ずかしがっていた、初な少女のような面影はすっかり消え失せ。そこに立っていたのは、一人の魔女だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る