2

 休日は賑うはずの商業区では、すでに動いている人間は、青年以外、誰一人いなかった。築かれていた死屍累々の中心にいる少女へと、青年は目を向ける。


 妖精を思わせる薄透明の紫色(しいろ)の翅が生えた少女。

 彼我の距離は約三〇メートル。走れば、五秒もしないうちに詰められる程度しか離れてはいない。


「≪魔王≫を発見……属性は青、だが翅の色から副属性が赤である可能性も考慮して、戦闘を展開する」


 青年は、自身の身長と同じくらいの長剣を右手でだらりと持ったまま、少女を睨めつける。


「覚悟はいいか、≪魔王≫?」


 ひとりごちるように呟いてから身体を前に倒して、青年は少女に向かって疾駆した。


 一歩。

 少女は、青年がなぜ走ってきたのか理解したかのように目を見開く。


 二歩。

 少女は、驚きながらもその手を天上へと向けた。


 三歩。

 少女は、指揮者のような手付きで指を振り下ろす。同時に、青年は自分の直上を見上げる。


 少年の眼前に広がっていたのは、頭上から一〇から二〇メートルほどのところに位置する場所に現出した、百本はあるだろう大小様々な氷柱で構成された天蓋。当然ながら自然現象ではない。


『魔法』


『宇宙人』が人間に与えた、超常の事象の発生と制御を行う技法。

 けれども、これほどの量の氷を生成し、さらに一瞬で凝結と結晶化することができる人間は、おそらくこの世界中にはいないだろう。これを実現するとしたら、数十人分の『魔法』の源ともなる、『マナ』が必要になってくる。


 ――なら、その『マナ』を吸った『人間』がいるとしたら?


 そしてそれを行った。

 否。

 『行わされた』のが目の前の一条まいと呼ばれた少女……≪魔王≫だ。


 現出した氷柱は、重力に従い九・八メートル毎秒毎秒で落下する。つまり、二秒もしないうちにその殆どが青年へ降り注ぐことを意味している。

 直上を見上げた青年はすぐに顔を正面に戻すと、右へと身体をずらしながら走り――。


 初めの氷柱が青年がいた場所へと正確に落ちてきて、自らの破砕音を立てる。青年はそれを背中で聴きながら、今度は小さくバックステップ。自分の鼻先で通り過ぎる数本の氷柱、同時に砕け散る音も鳴り始め、さらにその音は重奏を奏で始める。


 バリン、バリン、バリン……。

 氷柱の砕ける音でリズムを取っているかのように、青年は舞踏のような脚さばきで紙一重で氷柱の雨を掻い潜る。

 最後の一個を、氷柱の破片が散らばる地面に這うようにして躱しきり――


 空気が押されるのを肌で感じとり、青年はもう一度天上を一瞥する。

 そこにあったのは、半径六、七メートルはあるだろう巨大な氷塊。それを形作る氷の大きさからして間違いなく、その重量に押しつぶされて圧死するしか未来はない。だが、跳躍もままならない今の姿勢では、範囲外へと逃れることも困難だ。

 先程の氷柱の雨は、青年を仕留めるために放ったのではなく、この氷の棺(ひつぎ)をぶつけるためだった。


「ちっ!」

 舌打ちとともに、一挙動で立ち上がり、そのまま右手で持っていた剣の柄に左手も添えて、思いっきり振り上げる。


 剣の切っ先と氷塊の平面が衝突。

 しかし、如何な剣技を持とうとも圧倒的な質量の前には為す術もない。そのはずだが。


 青年の剣先――氷塊に触れた部分から、幾筋の亀裂が走り始め――氷塊が崩壊。

 大質量を保持していた氷の塊は、またたく間に千千の断片へと砕け散り、そのまま水滴へと変態していく。

 バラバラと崩れ、溶けていく氷の向こう側の≪魔王≫もまた、その光景を意外そうに見つめると同時に、一瞬だけ微笑んだ。が、すぐに表情は消えて無くなり、今度は片手を目前にかざし始める。


 その隙に、青年は止まっていた歩を進めて、疾走を再開し、少女へと詰め寄った。

 青年の進行を妨害するように次々と現れる氷の壁。青年は既にマナを吸われ尽くされた人々をときには踏みつけながら足を運び、剣を振るい、氷の壁を切り裂いていく。


「無駄だ」


 白い息を吐きながら、あと一歩で剣の間合いに入るといった瞬間。

 最後の距離を詰めるため、青年が倒れ伏していた少年の背中を踏みつけようとしたときだった。


 明らかに、≪魔王≫の表情が変わり、青年に向かって手が突き出される。その少女の手のひら近くがゆらいだように見えた。


 副属性は、赤。

 直感とも呼ぶべき判断で青年は後先考えずに右へと跳んだ。


 空気の砲弾が青年の傍らを走り、煽りを受けた青年は空中できりもみして地面に叩きつけられる。それとほぼ同時にそばに止まっていたロボタクシーのフロントガラスが、砕け散った。


 氷柱を生成するために奪った熱エネルギー。それを今度は収集して、青の魔法でコントロールしながら、赤の魔法で解放したのだ。


 倒れ伏したままでは、すぐに串刺しにされる。その危機感から、全身の痛みを無視して青年は起き上がった。しかし、続けて≪魔王≫は青年に両手を向ける。その先には、三本の氷柱が現出しており――。


 射出。

 亜音速で放たれる氷柱は、その衝撃に耐えきれず、すぐに崩壊する。が、音速で迫る氷の礫だけでも、青年の命を奪うには十分すぎる。


 とっさに長剣を盾にするが、風圧だけは防ぎきれずに、後方へと吹き飛ばされる青年。とっさに保持していた長剣を投げ出して、地面に衝突する直前に自由になった両手で後ろへと受け身をとって起き上がり、そのまま元いた歩道へと後退して、角先にあるショップの影に隠れた。


「近づけない……か」

 追いやられた青年は毒づく。


 上空からは氷柱の雨、正面からは空気の砲弾。どちらも当たれば命はない。

 ≪魔王≫に近づくにはスピードがまるで足りない。


 ビルを背にそっと≪魔王≫の様子をうかがうと、こちらに向かってやってきているのが見て取れた。と、そこで青年は彼女が背にしている骸の中に、一人の少年がいることに気づく。

 一条まいに後一歩詰め寄ったときの光景を反芻する。彼女を殺すため彼の背中を踏み台にしようとした瞬間の表情、氷塊を砕いた時の微笑み。それから、自身の経験……。


「使えるか?」

 左手で懐を探り、それの柄を握りしめて、ビル陰から飛び出す。


 当然≪魔王≫も、青年の動作に反応して氷柱の砲弾を作り出そうとするが、その所作には一秒にも満たないが、確かなタイムラグがあるのは確認している。


 青年はそのタイムラグに差し込むように、左手を懐から抜き放つと同時に、鈍色の軌跡が走った。

 その軌道は、≪魔王≫から若干外れていたが、≪魔王≫は青年が抜き放ったものの正体を視認すると同時に、自らの肉体をその軌道に割り込ませ――


 ズブっ!

 彼女の大腿部へと、鈍色の短剣が、突き立った。


「ああああああああああああああああああぁっっ!!」


≪魔王≫の絶叫が響き渡り、片膝をつく。


「そうするしかないだろうな」


 まいは、先程青年が持っていた長剣が巨大な氷柱を砕くところを目撃している。

 そこで、≪魔王≫の中には、一つの仮説が出来上がることになる。


 青年が持つ剣には、魔法でできた物質を無効化する力がある、と。


 そして、目視した短剣も同じように魔法を無効化する力があるとするのならばどうなるか?

 すぐ後ろにある、少年の身体に突き刺さることになる。それがたとえすでに自らの手で『マナ』を吸い尽くしたといえども、≪魔王≫には許容できなかったのだ。


 だから、彼女は発動が遅い風の砲弾を使うよりも、自らの肉体を差し出すことにした。

 ……それが俺の思惑どおりだとしても。


 痛みに呻く≪魔王≫の最大の隙を見逃すことなどありえない。青年は、一気に距離を詰めるために三度目の疾駆をし、まずは先程手放した長剣へと向かう。

≪魔王≫は、片膝を付きながら右手を差し出すが、その手のひらの先の空気は揺らがない。その事実に、≪魔王≫はさらに目を見開き、驚愕をあらわにする。


 ……残念ながら、その剣が刺さってる限り、お前が魔法を使うことはできない。

 混乱に乗じて、道に落ちていた長剣を拾い上げ、とうとう≪魔王≫の目前に迫り、長剣を振り上げる。


「一条まい」


 青年が、その名前を呟いたとき、≪魔王≫は驚いたように顔をあげ、その瞳に青年を映す。


「今、楽にしてやる」


≪魔王≫に向かって長剣が振り下ろされ、剣身が≪魔王≫に届く、その寸前。

 少女の目は柔らかく細められ――

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