第三話

 桜もまばらな四月一日。私は再び高等小学校一年生になった。入学式は、今に女学校の教場になる六供の講堂で行われた。私は進学の感慨などないまま、入学生として読み上げられた自身の名前に返事をした。

 六供教場のことはよく知っているのだ。音楽室の窓の下にある枸橘からたちは、春から夏の間、葉に蝶々の卵がないかを見てやる。葉の裏に黄色い小さな一粒を見付けたら、かわいそうでもちぎり取って捨てなくてはいけない。校門を入ってすぐ右手に、校庭へと降りる細い階段があり、両脇には水仙が植えられている。花見のころになると、地元の人々が見晴らしの良い校庭を宴会場にするので、気まぐれに水仙を採られてしまう。大切に育てているから採らないでと書いて掲示しておく必要がある。

 枸橘も水仙も、守られるだろうか。私たちがいなくなることで、六供教場は全く別の場所に変わってしまう気がした。入学式だというのに、私の心境は別れに染まっていた。私はこの教場から追い出されるのだ。

 式が終わっても、真っ直ぐ家には帰らず、但馬屋へ向かった。美代子さんはここ数年皆勤賞だったので、私は美代子さんのいない下校の道が寂しくて仕方なかった。店を覗くと清次郎さんが出て来て、美代子さんはまだ帰らないと教えてくれた。

「もうすぐ帰っといでんさると思いますで、中で待っとられますか?」

「ううん、いい。ちょっとお話しようかと思っただけだで。ありがと、じゃあね」

 手を振ると、清次郎さんは丁寧に頭を下げて見送ってくれた。私は連尺通を西に行き、大通りの辻を曲がって、菅生川の方へと進んだ。美代子さんが女学校から帰って来るならこの道しかない。殿橋を中頃、下を行き来する荷船を眺めながら、待つことにした。

 川風は、心地よい湿り気を帯びて、着物の裾を抜けて行った。春の日差しは、川岸に咲く菜の花を眩しく照らす。船頭の漕ぐ櫓が軋む音、いくつもの駒下駄。荷車を引く牛飼いの男が陽気に歌う。橋のすぐ川上には鉄橋があり、去年、街中まで延伸された馬車鉄が走って行った。

 袴姿の女の子たちが、二人三人と一緒になって、私の前を通り過ぎた。拾い聞いた単語に入学式とあったので、美代子さんの同級生だろう。もうすぐ、美代子さんも来るはずだ。南へと足を進めたが、急に恥ずかしくなった。違う学校へ行ったのに、こんなところまで来て美代子さんに会いたがっているなんて。やはり帰ろう。戻りかけたとき、

「シゲさん! 待っとってくれたの?」

と雑踏を切り裂いて、美代子さんの高い声が耳に届いた。振り返ると、まだ橋にも至ってない川向こうの道から、人を掻き分けて走ってくる女学生の姿があった。

 短い束髪崩しが、白茶の着物の上で跳ねた。革靴が橋板を蹴る。海老茶の袴は風をはらんで膨らみ、黒いストッキングを履いた細い脚が見えた。

「──美代子さん!」

 私も駆け寄って、手を伸ばした。勢い余った美代子さんが私の腕の中へ飛び込んで来て、おでこが私の頬に当たった。

「痛い!」

「ごめん!」

 すぐに目を合わせて笑い合う。

「シゲさんと学校行けんなんて、私、ホントに寂しい」

「ほだけど、美代子さん。学校終われば、会えるがね、なぁ?」

「ほだけんどぉ」

 美代子さんが嫌々をするので、私は肩に手をかけて慰めた。美代子さんの着物は、学校の規定通り落ち着いた色合いの木綿の無地だったが、細い糸による細かい織目が絹のような柔らかさを作り出していた。

「シゲさん、お昼ウチで食べてって?」

「うん、ありがと」

 手を繋いで歩き出す私に、美代子さんは待つように言い、「由布子さん!」と、後ろへ手を振った。紺の袴を着た長いお下げ髪の美しい少女が、笑顔でこちらへ駆けて来た。

「まぁ、美代子さんったら。急に走ってっちゃうんだもん!」

「ごめんなさいね、お友達が待っとってくれてたもんで。足立シゲさんよ、家が近いの」

 私は美代子さんから手を離し、小さく会釈した。細面の垢抜けた少女が微笑んだ。

「久保由布子といいます。美代子さんとは名簿がお隣で。広幡学校から来とるの。シゲさんも岡崎学校?」

「う、うん」

「由布子さんの家はのぅ、久保時計店さんよ。ほれ、あん神明さんとこの」

「シゲさんのお家も連尺なの?」

「いやぁ、その、誓願寺の裏で……蕎麦を」

「とても美味しいのよ。由布子さんも行ったら良いわぁ」

「ほだね、またお邪魔します」

 私たちは歩き出した。美代子さんが六供教場の楽しみを由布子さんへ語った。音楽室の枸橘のことも話していた。

 由布子さんもまた、革靴を履いていた。上質な袴は折り目正しくシワもない。引き換え、私といえば着古した木綿絣の筒袖に兵児帯を締め、足元は素木の下駄だった。二人と並んで歩くことが恥ずかしかった。お嬢さまのお友達同士に、女中が同行しているように見えるのではないかと思うと、周りの人の目が怖かった。

 連尺の角に至り、由布子さんは礼をして道をまっすぐ進んで行った。美代子さんは自然に私と手を繋ぎ、家へと歩き出した。私はやっと息苦しいような恥ずかしさがなくなった。この通りでなら、美代子さんと堂々と仲良くできると思った。


 入学式の翌日からは、校地替えの引っ越しが行われるために、十日ほどの休校期間とされた。私たちは毎朝、学校へ通う尋常小学生や中学生を尻目に、お洒落をして歩き廻った。弁当を持って六名の菜の花畑へも行った。小さな花弁の境界を朝霞が溶かしていくかの如く、一面は菜の花の一色に染まっていた。朧な風景のなかで、美代子さんの白い日傘が眩しかった。


「Venite all’agile barchetta mia,

 Santa Lucia! Santa Lucia!」


 イタリア歌謡を習い始めた美代子さんが、『Santaサンタ・ Luciaルチア』を披露した。月の照る凪いだナポリの海。小舟を浮かべて、友人へと誘いかけるという歌詞だ。

「ここは海、私が櫂をとる」

 美代子さんは微風に揺れる菜の花を海に、閉じた日傘を櫂に見立てて、船頭の真似事をしながら、ゆっくりと畦道を歌い歩く。私は少し後ろを歩き、金色の野に埋もれそうな美代子さんと、どこまでも開放的な異国語の歌声との妙を楽しんだ。

 桜も盛りに近付く十二日。休校期間の最後の日に、連尺から花嫁行列が発った。炭問屋の上の娘が、仕入れ先である山中の庄屋屋敷へと嫁ぐのだ。鶴亀の刺繍が豪勢に施された黒振袖を着た花嫁は、赤い房を掛けた馬に座り、街道を埋める群衆の中に見知った顔があれば、微笑んで手を振る。長い嫁入り道具の列の後ろには、子どもたちが付いて歩いた。花嫁は一日をかけて山路を越えて行く。

 送り出しの菓子撒きで拾った紅白餅を、但馬屋で焼いてもらうことになった。女中が裏庭に七輪を出し餅を焼く。私たちは縁側で折り紙をしながら、焼き上がるのを待った。

「きれいだったのぅ、花嫁さん。但馬屋さんで用意したんかぁ」

「ほうだよ、二年も前から相談に来といでた」

「いいなぁ、私も早よぅ嫁にいきたいわ」

「どうして? 嫁に出たら、母さんたちと離れんとかんにぃ」

「ウチの縁じゃ、そう遠くへ出ても行けん。きっと、ここいらの家のどっかだわ」

 私は頭の上で、大きく円を描いて見た。姉の花嫁行列も、ものの十分で相手の家に着いてしまったのだから。

「美代子さんは大変だのぅ。奥三河の方までお得意さんおるらぁ?」

「三河で済めばいいがねぇ。母さん、松阪から来とりんさるで」

「のぅ、美代子さん。もし、但馬屋さんの奥女中、足りんよになったら、私雇っとくれんかん? ほいたら、美代子さんの嫁入り先が松阪でも大阪でも、付いてけるわ」

「シゲさん、嫌よ、お女中なん。友達だって言ったらぁ?」

 美代子さんが俯いて嫌々をするので、私は謝った。友達のまま近くにいることは、望めないことと受け入れるしかなかった。香ばしく焼けた紅白餅を食べながら、私は卒業後について考えた。

 石川くんとは宵祭以来、ほとんど口を利かないまま、卒業式となっていた。働きに出ることはあまり考えていなかったが、結婚してしまったら、思うように美代子さんと会うこともできなくなるだろう。それよりは、昼間は近くの商店で算盤を弾いて、夕方からは学校終わりの美代子さんと遊ぶ方が良いのではないかと思い至った。


 学校が始まると、私は何人もの女学生とすれ違いながら、一人で連尺教場への道を歩いた。六供教場へ向かう美代子さんと行き会うことも多いが、手を取り合って挨拶を交わしても、すぐに別れなくてはいけない。私は、六供教場へ続く道に出る前に笑顔を作り、保ち続けようと努力していた。それでも、授業後には、但馬屋で一緒に宿題をした。美代子さんは大抵、英単語の書き取りに難渋していた。

「イタリア語は素直に読めばいいのに、英語ったらどうして変な読ませ方すんだろねぇ」

「変なの?」

「変よ。nameナーメと書いて、ネームと読むだもん。ネームなんて読めんわぁ」

「ネームは何て意味?」

「お名前。ネーム、ネ、エーム」

 時間はかかっても、美代子さんは機嫌良く節に乗せて単語を綴った。美代子さんは私へとローマ字を教えてくれた。『Santa Lucia』の歌詞を書き写した紙もくれた。

「まだこの曲は知られとらんけんど、私、この曲が一番好きだのぅ。今に日本語の歌詞も出るげなのぅ」

 発音も教わったが、巻き舌は難しかった。

 五月のある日、美代子さんが由布子さんと登校していた。由布子さんが先に私に気付いて、美代子さんに知らせ、二人して私に手を振った。私も手を振り返したが、宿題をまだやっていないと言って、急いで通りを西へ進んだ。

 いい加減に諦めがついているものと思っていたが、不意打ちで美代子さんと他の誰かが仲良くしている姿を見ては、そこは私の場所だと叫ぶ心が出てしまうのだった。

 その日の夕方も、但馬屋へ上がった。宿題を終えると、美代子さんはレターセットの箱を持ってきて、机の上に色とりどりの便箋を広げた。

「体操の時間にのぅ、校庭で薙刀やっただけどのぅ、私、シゲさん家を見とった。不思議だのぅ、私、二ヶ月前と変わらず学校行っとるのに、シゲさんだけがおらん。シゲさんがおらんで寂しい」

 飾り切りの便箋を夕日の庭にかざして、美代子さんは言った。美代子さんの顔に花模様が落ちた。

「美代子さん、ほんなこと言っとったらあかん。由布子さんと仲良くせんと」

「由布子さんは良え子よ。ほだけど、シゲさんの代わりなんかおらんもん」

 美代子さんは無邪気に寂しいとか、一緒に通えたらと繰り返す。私は毎度、殊勝な態度で慰めて、決して同調しなかった。私こそ、連尺学校で新しい友達を見つけられずにいた。美代子さんの言う通り、私は六供教場にいたはずなのに。受験さえすれば、私も女学校へ行けていたと、未練がましいのだ。

「のぅ、美代子さん。私の代わりを探されたら寂しいけんど、新しい場所へ行ったら、そこでまた新しく頑張らなぁ、なぁ?」

「ほうだのぅ」

「うん。私も頑張るで」

 美代子さんへと言い聞かせるような口振りだったが、自分への宣言だった。私は平気な顔をして見せるが、美代子さんは、まだ眉尻を下げていた。

「……のぅ、シゲさん」

 薄黄色の地に青い蔦が描かれた封筒を渡された。中に便箋が入っている厚みがあった。

「これで手紙出しとくれん、私に。のぅ?」

「毎日会っとるらぁ? 美代子さんは寂しがり屋だ」

「シゲさん、シゲさぁん。お願い、のぅ? 私、シゲさんのお手紙欲しい」

 美代子さんは返事を待たず、私の前に封筒を残し、広げた便箋を箱に仕舞いだした。

「お気に入りだったけんど、最後の一枚でのぅ、使えんでおっただわ。シゲさんが書いとくれたら、私んとこに残るでのぅ。なぁ?」

 小首を傾げて見られ、私は請けた。

「じゃあ、今書くわ」

「今じゃいかん。家帰って書いとくれん」

 美代子さんは封筒を取り上げると、私のノートに挟んだ。翌日、手紙を書き上げて但馬屋へ届けると、美代子さんは返書に新たな便箋を同封して寄越した。

 毎度、美代子さんはお気に入りの便箋で手紙を書くように渡した。その色柄は、藤になり、紫陽花になり、やがて眩しい黄の地に水蓮が描かれたものになった。


 歌のレッスンを重ねた美代子さんは、より一層豊かな情感を歌い上げるようになっていた。私はただ一人の観客として歌を聴くことも好んだ。

 青葉の城跡で、美代子さんは天守閣跡の石垣に立ち、菅生川を行き交う荷船を見下ろしながら、『ローレライ』を歌った。ライン川に住むという美しい歌声の乙女は、その声に心惹かれた男たちを船ごと川底に沈めてしまう。そんな恐ろしい伝説も、流れる六拍子と華やかな声によって、少女の御伽噺に変わるのだった。この歌声は、私だけに向けられている。この上ない幸福に感じられた。

 夏休みには、矢作川へと川遊びに出た。川岸と数メートル離れて中洲のある場所を見つけ、その浅瀬で足を濡らした。笹舟を流しては追いかけて、舟唄を歌った。白いワンピースに白い日傘をさした美代子さんは、夏空に映えていた。

 千恵子さんと一緒に清次郎さんがお供として着いてきたが、実質は二人のデートだった。二人は中洲に小さなパラソルを立て、その下に敷いた茣蓙ござに仲良く座って、他愛もなく話しては、時折、川中の私たちに手を振った。

「シゲさん、シゲさん、この前のぅ」

 日傘の下で、美代子さんが珍しく悪戯な顔をして私の袖を引いた。

「お姉さん、清次郎さんとチュウしとるの見た」

「えっ、ホント⁉」

 美代子さんが神妙にうなずき、私を日傘の中に入れた。川音で聞こえないはずなのに、美代子さんはひそひそ声で様子を語る。

「家の庭、離れに茶室があるらぁ? 高床になっとるで私、よく縁側から裏の通り見たりすんだけどのぅ、猫が遊ぶもんでのぅ。ほれで一昨日も夕方、茶室に渡っただよ。ほしたら、裏で……」

 傘の下で、美代子さんは私を見上げながら、赤い唇を手で押さえ離した。

「はわぁ……ホントにするもんなんかぁ」

「イタリアじゃ挨拶で一々するって」

「ひゃあー」

「挨拶でするって」

 美代子さんの目が私を見ていた。私たちは興味と好奇、わずかな羞恥に黙った。足首を矢作の清らかな水が洗った。風が立ち、美代子さんの絹のワンピースが私の足に絡んだ。

 息も時も止まっていた。もし、美代子さんが一言でも「して」と言ったら、私はしていた。目を閉じていたら、きっと美代子さんも私にしていただろう。お互いがお互いに、先に動いてくれと思っている気がした。

 けれども、千恵子さんの声に破られて、私たちの間で交わる無言の情緒は途切れた。千恵子さんは、お弁当にしようと言って、茣蓙にバスケットを広げた。清次郎さんが小さな包丁を出して、瓜を切り分けてくれた。二人の間にある睦まじい視線の交流を見て、私は気恥ずかしさを覚えていた。

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