第四話

 二学期が始まり、秋は過ぎた。その年も美代子さんと千恵子さんとの三人で宵祭へ行く約束を交わした。ところが、月の中旬に急に寒くなり、清次郎さんからは、千恵子さんが寝付いているために、しばらく遊びに来ることを控えるよう、頭を下げて願われた。五日、一週間と過ぎても良くならず、美代子さんとも会えなかった。私は千恵子さんへのお見舞いを手紙に認めて清次郎さんへ渡したが、宵祭の昼になっても、返事は来なかった。

 仕方なく一人で出かけようとしたら、心配した母が兄を付けた。無口な兄は私のおしゃべりを相手にしない。参拝して、五平餅を買ってもらっただけで、早々に帰ることになった。暮れかけた帰り道、兄が又従姉妹の美津みつさんの話をした。今年、尋常小学校を出る美津さんは、嫁入りまで我が家に来て、店を手伝うことになったという。

「ほいだから、お前は、卒業しても家手伝わんでええ」

「うん、わかった」

「……まだ学校行きたいか?」

「学校はまぁええわ。私、どっか外で働く。良いお給料もらえるとこ」

「すまんのぅ」

 私は自身の我儘のために、兄の心を痛めさせたことが申し訳なくなり、その手を握った。熱くなる顔を隠すように、兄の手を引いて歩く。

「兄ちゃんは、学校卒業したとき何になりたかったん?」

「父ちゃんの跡継ぎたかったかのぅ」

「ほうなん? 父ちゃん、あんな怖いのに。でも、ほいじゃあ、夢叶っとるのぅ」

「なんぜかのぅ」

 兄は見えていない右目へと手をやった。十歳のころ、上の兄と喧嘩して階段から落ちた際の傷が元で、右目の明かりは失われていた。失明を理由に兵隊へも出ていない。

 我が家にはもう一人、兄がいた。父はこちらを跡継ぎとして仕込んでいたのだが、健康体が災いして、徴兵検査を甲種合格した末に日露戦争で戦死している。

「兄ちゃん、私、大兄おおにいちゃんが入営したとき、小さかったで、あんま覚えとらんだけど、大兄ちゃん、どんな人だったん?」

「……さあのぅ」

「蕎麦作るのは上手かったかのぅ?」

「うん」

「兄ちゃんと、どっちが上手かった?」

「知らん」

「もし、もしもだに? 大兄ちゃん、生きて帰っといでたら、兄ちゃん、どうしとった?」

 兄は答えなかったが、私は重ねて問うた。

「のぅ、俺のが上手く作れるだで、俺に店譲っとくれって言っとったと思う?」

「……言わん」

「何で?」

「言わん。ほんな、子どもみたいなこと」

「ふうん、私なら言ったと思うわ。だって、大兄ちゃんにも他になりたいもの、あったかもしれんらぁ?」

 兄はもう返事をしなかったが、私は独り言のように話し続けた。

「ほいでも、叶わんかったら、諦めんとかんけんど、諦めるって言葉は何だか後ろ向きだで好かんなぁ。新しく、自分が納得できるよに、なりたいもん見つけれたら良いわ」

 一人で頷いていると、兄の手が頭を撫でてきた。何かと顔を上げると、やはり兄は済まなそうな顔をしていた。

「シゲは身体も丈夫だで、きっと良い勤め先あるわ。のぅ」

「兄ちゃんの馬鹿」

 私は甘えて、兄の肩に頭を寄せた。そして、新たな将来を描いてみようと決めた。お嫁さんも良いが、その前にもう一つ、違う自分を挟んでみても良いと思った。


 新嘗祭の翌日。千恵子さんが亡くなったと、父から聞かされた。麻疹はしかだったという。ところが、葬送の報せが来たのは、その五日後で、千恵子さんと、但馬屋の主人であるお父さんの合葬だと届いた。

 火曜日の正午、但馬屋から葬列が発った。二人の名が記された白い幟が列を先導し、花籠を持つ婦人会の女性たち、和尚さまと六人の僧侶、美代子さんのお母さんと続き、棺を乗せた輿が二つ。白い水干を着た担ぎ手によって運ばれて行った。その後を清次郎さんたち但馬屋の奉公人衆が涙の内に歩いた。美代子さんの姿はなかった。

 それからの但馬屋は、代替わりと相続で目まぐるしい忙しさだと聞こえていた。ひとまずの中継ぎとして、お母さんが当主をされるが、清次郎さんが次代になることは変わらないらしい。つまり、美代子さんが清次郎さんを婿に迎えることになるのだ。

 但馬屋へ出向いても、物忌と言われて、美代子さんには会えなかった。私は学校の藁半紙をこっそりと持ち帰っては手紙を書いたが、やはり、返事は来なかった。美代子さんの声だけでも聞こえないかと、登下校は但馬屋の裏の道を通った。

 十二月の中旬になって、女学校の門前で待ち、由布子さんに尋ねたが、美代子さんは前月の下旬から欠席しているという。但馬屋へ行って尋ねても、表の手代たちからは、どこかよそよそしい態度で物忌だと繰り返された。私は但馬屋の裏口で待った。裏戸を通る女中を捕まえては美代子さんのことを聞いた。彼女たちからも、困った顔で、元気にしてるが会わせられないと返されるばかりだった。

 私があまりに尋ねるので、何日目かには、清次郎さんが出てきた。柔和で低い物腰はどこにもなく、叩かれるかと思うほどの気迫で詰め寄られた。

「シゲさん、美代子さんの夫になる者として言わせてもらうがの、シゲさんのよな子とは、美代子さんを付き合わせれん。噂にでもなれば、商売に関わる。もう来んどくれ」

 言い捨てられた私は、理解ができずに袖を引いて留めようとしたが、清次郎さんは振り払って、拳で裏口の柱を叩いた。

「……シゲさん。今度美代子さん誑かいたら、あんたんとこ、警察遣るでな」

 裏戸が閉められ、清次郎さんの足音は屋敷内に消えた。

 大人の男に凄まれた恐怖は、私から声を奪い、ただ立ち尽くさせた。但馬屋の人々にとって、自分が疎まれる存在ということだけはわかった。

 次の日の下校時、私は『Santa Lucia』を歌いながら、ゆっくりと但馬屋の裏戸の前を歩いて抜けた。通行人として、呑気に歌いながら歩いただけだ。この曲が、友への誘いを歌っていることも、この町で歌える者が私と美代子さんしかいないだろうことも、偶然に過ぎない。咎められはしないのだ。翌日も、翌々日も、私は歌った。但馬屋の人々がどうでも、美代子さんが私を疎むはずがないと信じていた。

 十二月二十一日。連尺通には白い水干すいかんを纏った熊野御師くまのおしの集団が来て、貝を吹いては札を売っていた。私はその日も、但馬屋の裏手を下校していたが、道の先に、コートを着込みトランクを提げた美代子さんを見つけた。駆け寄る美代子さんの顔には、緊張と安堵が浮かんでいた。

「シゲさん……!」

 美代子さんは私の胸に顔を寄せて、嫌々をしながら泣いた。

「シゲさん……シゲさん……!」

「美代子さん……」

 コート越しにもわかるほど細くなった背中に手を添えて、道の端に寄せ、電信柱の陰に隠すように抱き締めた。五時の鐘と、美代子さんの力ない声とが耳許に聞こえた。

「シゲさん……一遍だけって言ったけんど、まぁ一遍だけ、聞かしとくれんさい」

 何を望まれているか、聞かずともわかった。美代子さんは今、私に助けを求めている。理由など二の次でかまわない。私は美代子さんを離して、涙に濡れる目を見て応えた。

「美代子さんは、私の生涯のお友達。私はあなたのためなら、何でもする」

「──シゲさん、お願い……! 一緒に来て、一緒に逃げて……!」

 私は抱き締めて落ち着かせると、手を取って菅生川の方へ向かって足速に進んだ。

「シゲさん、ごめんなさい。私……どうしても嫌で。母さん、学校辞めて家のこと学びんさいて。私、お姉さんと違って、何も教えられんできたから」

「謝らんでいい。後で聞く」

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 美代子さんは私に手を引かれながら、繰り返し謝っていた。

 初七日を終えた日の夜、今日のように家出を図り、しかし、すぐに店に連れ戻された。気が動転したお母さんに、家を潰すつもりかと叫ばれ、叩かれた。奉公人たちは止めてくれなかったという。清次郎さんがやっと間に入ってくれたかと思ったら、但馬屋の女将として生きる覚悟を決めろと迫られた。

「誰も聞いてくれなんだ。卒業したら音楽学校行っていいって言っとったくせに、何もかんも反故ほごにして、店、店って」

 家路へと急ぐ人混みは、私たちを上手く隠した。殿橋へ出ると、遮られることのない夕日が川面に反射して、人々の影を揺らした。

「皆んな、どうかしとるだ! 父さんと、姉さんと死んで、皆んな、どうかしてまった! あの店に、私の味方はおらん……そう思ったら、シゲさんと約束したことだって、わからんけどなんでか言ってまって。ほんなこと言ったで、外出るのも、シゲさんと会うのもあかんよになって、ごめん……! けんど、シゲさんしかおらん、シゲさんしかおらんと思って──」

 私は振り返りもせずに、美代子さんの告白を聞いていた。人混みを掻き分けながら、橋の欄干を握って、少しでも速く脚を進めた。

 船着場から船に乗ろうか、停車場まで行って汽車に乗ろうか。それならば、馬車鉄に乗りたいが、運行は正時と半時の三十分置きで、五時の便は既に出た。但馬屋には、すぐに美代子さんの不在が気付かれるだろうから、悠長に待ってもいられない。やはり荷船に掛け合って、川を下るか──。

「足立さん?」

 橋の半ば、二中の制帽を被った石川くんが目の前に立っていた。私は美代子さんを背に隠したが、石川くんは泣き顔でトランクを提げる美代子さんに気付いた。学校帰りの私と遊びに行く様子には見えなかった。

「……どこ行くつもりだん?」

退いて、急いどるだ」

「足立さん……! あんたは賢い人だと知っとる。こんなことせん」

石川くんは私たちの前に立ち塞がり、首を振っていた。私は美代子さんの肩を抱き寄せ、押し通ろうとしたが、私より二回りは背の高い彼は、頑として道を開けなかった。

「逃げてその先どうするだね。足立さん、落ち着きんさい」

「落ち着いとる! ああ、もう……退いとくれんよ!」

「松田さん、あんた、足立さんを巻き込んで家出しようとしとるだらぁ? あかん。のぅ、帰りんさい」

 美代子さんへと伸ばされる彼の手を、私が払い退けた。

「触らんで!」

「足立さん……! 松田さんの問題は、松田さんがお母さんと話さなかんことだに」

「話してもどうにもならんで、逃げるだがね!」

「逃げたてどうにもならんわ!」

「逃げんと、どうにもならんこともあるわ!」

 敵だ。これを倒さなくては、美代子さんは但馬屋に連れ戻されて、女学校も音楽学校もなく、姉とキスを交わしていた男と結婚させられてしまう。家から逃げようともしない、良い子の石川くんのために。

「──あんたにはわからん。誰もがあんたみたいに大人しく家に従えるわけじゃないだ。そのくせ、人に口出ししてきよる! 黙っとっとくれんか!?」

 怯んだ石川くんの肩を突き飛ばし、美代子さんの手を引いて駆けた。石川くんが警察を呼ぶように声を挙げて、私たちを追った。殿橋を行く人々の足が止まり、人垣になり、行く手が阻まれた。石川くんが美代子さんと繋ぐ私の手首を取った。振り上げられて、きつく握り締められる。私は敵わずに、美代子さんから手を離してしまった。

「美代子さん!」

「抑えて、その子! 家出です!」

 石川くんの一声により、涙で頬を濡らして茫然と立ち尽くす美代子さんは、一瞬で周りの人達に取り囲まれ、見えなくなった。

「美代子さん、美代子さん──!」

 石川くんに掴まれた両手は欄干に押し付けられ、振り払えなかった。

「邪魔せんでよ、石川くん! あんたには関係ないわ! 離いて!」

「ごめん……! でも、ダメなんだ……!」

 石川くんの頬も濡れていた。

「──連尺の但馬屋さんの子です! 家出を図っとります! 連れ帰っとくれんさい!」

 美代子さんを取り囲む人垣が橋を北へ向かう。なおも追おうとする私の足を石川くんが払い、私は橋板の上に取り押さえられた。呼びかけても、美代子さんの声は聞こえなかった。私を取り囲む脚、美代子さんを取り囲む脚。いくつも見える下駄履きの脚の先に、黒いタイツを履いた革靴があった。その脚は周りに抗うこともなく私から離れて行った。

 私は泣き崩れて、ようやく、石川くんは私を抑える手を離した。

「ごめん……」

 石川くんはそれ以上しゃべらず、私の隣に座っていた。

 夕暮れの殿橋は、すぐに何事もなかったかのような往来を取り戻した。豆腐売り、魚売りの行商が歌い、子供たちが高い声を上げて走って行く。駒下駄、川の流れ、船着場にて荷を上げる掛け声。いかに私が無力感に膝を抱えて泣こうとも、日常は憎らしいほど、何一つ変わらなかった。

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