第二話

 隣町である広幡ひろはたの神明社にて新嘗祭にいなめさいの宵祭があるので、美代子さんと千恵子さんの三人で行くことになった。私は千恵子さんの着物を着せてもらった。柔らかな赤地の絹に大柄の菊が描かれた振袖だった。

「シゲさん、かわいい! かわいいわぁ!」

 美代子さんが手を叩いて褒めた。姿見に写る自分を見ると、私は手を入れてこなかっただけで、本当はかわいいのではと思われた。千恵子さんは私のおかっぱ頭を編み込んで、薔薇のかんざしも合わせてくれた。

 それから、千恵子さんは美代子さんを英吉利イギリス結びに結い上げて私と並んで座らせると、とっておきだと言って蛤の紅を開いて見せた。千恵子さんの白い薬指の先に、真っ赤な紅が着く。唇をなぞられる。言いえもしない不思議な緊張を味わっていた。

 三人で道を歩くと、皆が私たちを見た。連尺の店主たちは、それぞれに声をかけて褒めてくれた。町の男の子たちとも目が合った。私は珍しくも、自身の姿を見せびらかしたいような気持ちがしていた。

 夕方の境内は人で埋まる賑わいだった。参道には屋台が並び、御手洗団子や五平餅の焼ける甘い香りが漂った。連なった提灯が灯されていき、篠笛や鼓の音曲が響く。私たちはお参りをしてから、屋台を見て歩いた。

「美代子さんは、何願ったん?」

「私はのぅ、女学校受かりますよに。ほれから、歌が上手くなりますよに。ほれから」

「あれ、美代ちゃん。欲張りさん」

「ほうかのぅ? お姉さんは何願ったん?」

「私はこの前、真珠のピンを失くしてまって。あれが出て来ますよにって」

「お気に入りだったでのぅ。シゲさんは?」

「私……まぁ、皆んな元気にって」

「美代ちゃんや。シゲさん見習いんさい」

 本当は美代子さんと一緒にいられるようにと願った。その心の奥に、美代子さんなんか女学校に落ちて、岡崎学校に残れば良いのにと思っていたことは、認めたくなかった。

 暮れ始めたころ、餅投げが行われた。大人たちには敵わないので、取りこぼされて落ちたものを拾い上げていった。小さな丸餅を三つと飴の袋を一つ手に入れた。夢中になるあまり、餅投げが終わって辺りを見回したとき、人混みの中に美代子さんたちを見つけることはできなかった。

 しばらく境内を歩き廻った。鳥居まで戻ったとき、石川くんに声をかけられた。下宿の親戚宅が広幡との町境にあるので、一人で遊びに来たという。

「足立さんは一人じゃないらぁ?」

「うん。美代子さんたちと逸れてまって……」

「おお、難儀だのぅ。俺も探したろまい」

 石川くんは狛犬の台によじ登り、美代子さんたちの格好を尋ねて、辺りを見渡した。見つからず、一緒に境内を探しに廻ると言ってくれたので、時折、玩具売りの屋台の前で足を留めながら、参道をゆっくりと歩いた。良い着物の姉妹ならきっと目立つので、すぐに見つかると思ったが、日が落ちた後では、人々の姿を識別することは難しかった。

 動かずに止まっていようと、石川くんが言った。本殿前で篝火が焚かれたので、顔が照らされるように並んで立った。次々と人が流れ来ては、参拝していく。私は先程拾った飴の袋を開けて、石川くんと食べた。

「足立さん、今日は秋らしいのぅ、菊」

「えへへ、千恵子さんが着せてくれただぁ」

「ほうかぁ、秋によう映るわ」

 私は照れくさくなり、彼のセーターも温かそうと言ったきり黙った。石川くんも辺りを見回すのをやめて、篝火を見つめていた。私は、学校の誰かに見られたら困ると思いつつも、美代子さんたちがもう少しの間、人混みに隠れていてほしいとも思った。


 少女の高い笑い声が聞こえ、参道を見遣ったが、美代子さんではなく、女工らしき五、六人の女の子たちだった。私より幼く見える子もいた。くたびれた木綿の着物は、ほつれた稚児髷と相まって、彼女たちをより寒々しく見せていた。

「美味しそうだったのぅ」

「目に毒だ。お願いのことだけ考えときん」

「あたし、マサちゃんの治るよに願うわ」

「マサちゃんのぅ。ほだけんど、血ぃを吐いたらまぁ、のぅ」

「治らんとも、わからん。皆んなでお願いしよまいて!」

 一人、同い年くらいの女の子と目が合った。乾燥した頬に粉を浮かせた少女は、私の格好を上から下まで見た。彼女の目は、例えば少女雑誌に載っている西洋茶器のセットや、着せ替えのフランス人形を見るような、手の届かない良いものに憧れる目だった。

 私は微笑み返せなどしなかった。私が美代子さんを見るときの目には、少なからぬ妬みがあると自覚させられたのだ。勉強が得意でなくても女学校へ行ける。豊かな家に生まれ、優しい家族に囲まれて。歌も上手で、美人で。それらは、私にとって、あと一歩で届きそうな、しかし決して届かない故に苦しい幻影だった。

 ところが、この女工は着飾った私をそんな幻影と見ない。羨むことも馬鹿らしい、完全に別世界の存在として鑑賞した。私は逃げ出したくなった。それ以上見つめられては、私の醜さが見透かされてしまうと思った。

 着物も、簪も化粧も、私を着飾らせるものは何一つ、私自身のものではない。本当の私は、我が家は豊かでないと嘆いて、自分を哀れんでいる。女工なんて嫌だと切り捨てられる程度には、生活に余裕がありながら、さらに恵まれた友人を見ては羨み、妬んでいるのだ。今すぐ家に帰って、お仕着せの振袖を脱ぎ捨ててしまいたかったが、そうしては、二度と、今日以上に美しい格好ができない気がした。

 哀れみも妬みも捨て去れないまま、みっともなく着せ替えの衣装にしがみつくのだ。私はこのとき初めて、自らを省みて恥ずかしいと思った。

 彼女たちは柏手を打ち鳴らし、雑踏に消えた。私は精一杯、かわいらしく見えるような顔をして、石川くんを見た。もう一度だけでも、今の姿を良いと言ってほしかった。けれども、石川くんはまだ篝火を見つめていた。私の方など見ずに、尋常小学校で同級生だった女の子の話を始めた。

 彼女の家は貧しい小作農で、日露戦争に出征した父の戦死が伝わると、母は身売りよりはまし・・だと言って、彼女を姉と一緒に女工に出した。四年生に上がったばかりだった。

「今はどうしとるかのぅ。学問がないと、いつまでも偉くなれん。足立さんはどうして上の学校行かんだ? もったいない」

 私の息が止まった。高く響く篠笛がやけに耳につき、太鼓の音にも群衆の拾いきれない騒めきにも押し潰されそうな心地がした。長い袖の下で拳を握り締め、顔を上げた。

「もったいなくなんかない。私はこれでいい。学校出たら家手伝って、どっか近くにお嫁にいって。ほいでいいだわ」

「やりたいこと他にないだかん? 学校は嫌いか?」

「じゃあ、石川くんのやりたいこと聞かせとくれんよ」

 意地悪く微笑む私がいた。石川くんは少し垂れた目で、私を見返した。

「俺は……寺を継ぐ」

「生まれたときから、よし、俺は寺を継ぐ、なん思っとったわけじゃないらぁ? 石川くんの本当にやりたいことを聞いとるだに?」

 まばたきが繰り返され、石川くんの視線は私から外れた。私は重ねて、自分でもしないことを人に言ってはいけないと追い討ちをかけた。議論は決したと思い、私は少し胸のすく思いで息をついた。しかし、石川くんは再び私に向き合った。

「……俺は選べん、あの女工たちもきっと選べんかった。寺に行く、工場に行く、それ以外は許されん。──だけんど、足立さんは違うわ。足立さんは選べるくせに選ばん」

「選ばんことの何が悪い、選ばんことを選んだだわ」

「何でわざわざ、ほんなつまらんもん選ぶだん!」

「つまらんことない!」

「つまらんわ!」

 石川くんは一声叫ぶと、地団駄でも踏みそうな苛立ちを見せて拳で額を擦り、つまらん、つまらんと繰り返した。

「──足立さん、のぅ? ほんな早よぅ結婚してまって、苦労するだけだにぃ? 女学校行って良い人待ちん。おらなんだら、働いても待ちん」

「しつこいのぅ、進路も何も考えんでええモンが。黙っとっとくれんか!」

「足立さんは、家のことないんだで、好きに考えれるがね! 何で考えん!」

「──うるさい! 継ぐ家はないけんど、お金もないだわ、寺の坊ちゃんとは違う!」

 興奮が涙を呼んで、一筋、頬に流れた。私は無造作に手の甲で拭い、美代子さんは一人で探すと冷たく言うと、背を向けた。間髪入れず、石川くんの手が私の手首を掴んだ。潤んだ目が私を睨んでいた。私は、まだやる気かと身構えたが、石川くんは小刻みに首を振り続けた。

「ごめん……ごめん。あの……俺が悪かった」

「離いてよ、何……」

 石川くんの手は震えたまま私から離れず、私も固まっていた。

「俺、ホントはの……寺、継ぎたいわけじゃないだわ、ずっと。向いとるとも思わん。だけんど、俺の学費は檀家さんが払っとるよなもんだで、寺に戻らんわけにはかんだ」

 石川くんは耳まで赤くして弁明した。自己嫌悪にあふれる顔だった。私は彼もまた、手に入りそうで入らない幻影を諦めきれずにいるのだと思った。

「ホントは、何になりたかった? のぅ」

「……何だろ、のぅ。考えたこともあらなんだ。ああ、ほいでも……マタギには憧れたわ」

「どうして?」

 石川くんは、私が聞く姿勢を見せたので、手を離して語った。

 友達の父が罠猟を行うマタギだったという。友達と一緒に罠を作ったこと、冬山の猟に連れて行ってもらったこと。

「──ほいで、兎の鍋を食べてのぅ。お父さんには内緒だって。美味しかったのぅ」

「ほう、オッさまには許されんことだでのぅ」

 それから、私たちは黙り合った。

 舞台の篝火が、巫女の揺れる前挿を照らしていた。十五、六歳の美しい少女は緊張の面持ちで、時折、引き結んだ紅の唇を解いては雅楽の拍に合わせて呼吸した。あの娘にもまた、生まれ故に許されない望みがあったのかもしれないが、そんなことは、ちっとも感じさせない。強く反った指先、伏せられた目蓋。全てに神へと捧げられる古風で雅やかな精神が宿っていた。その古めかしさを、漸進も見せない遺物だと、誰が批難するだろうか。

 私も神の巫女として、清貧に生きていけたなら。分不相応に飾り立てず、神のみのために化粧を施す者になれたなら。醜い心を持たず、穏やかにいられるだろうか。否、私は私の心から離れられはしないのだから、どこで生きようと、我が身と誰かとを比べては、妬んでしまうだろうと思った。

「──シゲさん!」

 鈴なりの参詣人の中から、私は瞬時に美代子さんを見出した。参道を挟んで向かいの篝火の下で、美代子さんは背伸びをしているのか、不安定に揺れながら手を振っていた。

「美代子さん──!」

 私はすぐさま駆け出して、舞の見物で立ち止まる人や、本殿へ参る人の間を縫って、参道を越えた。美代子さんが私の両手を握り締めて無事を安堵した。私は思わず泣き出してしまった。

「ごめんのぅ、心細かったのぅ?」

「美代ちゃんが餅投げで転んでまってのぅ」

 千恵子さんが私の背を撫でた。どこにいたのかと尋ねられ、私は対岸の篝火を振り返ったが、そこに石川くんの姿はなかった。

「一人で、おった……ずっと。会えんかと、思ったわ……」

 私は、彼の存在を消して、涙を拭って見せた。私は狡い。他人の好意を期待して、都合良く弱った振りをするのだ。優しい二人は、乱された心が鎮まるには十分過ぎるほど、私を慰めてくれた。

 休み明け。私は補習会で隣り合う石川くんに、何事もなかったかのように挨拶をすると、そのまま一切の雑談を投げかけなかった。石川くんも、話しかけてはこなかった。


 冬になり、年が明けると、模試の点数が伸びない美代子さんには家庭教師が付けられて、補習会には出席しなくなった。私も都合良い口実が得られたことで、授業後はすぐに美代子さんと一緒に下校した。

 さすがの美代子さんも、このころはやつれ、家庭教師の元師範の先生が怖いだとか、お母さんがオルガンを弾かせてくれないだとか、泣き言を言った。

 私は自分のために慰め、励ました。気を抜くと、美代子さんなんか落ちれば良い、一緒に高等小学校に残ろうと、悪い自分が言いはじめるのだ。それすらも本心ではない。美代子さんだけが進学することを未だに認められない幼稚さによると、よくわかっていた。

 三月になって、ようやく受験が終わり、美代子さんは無事、女学校に合格した。途端に美代子さんの顔色は良くなって、私たちは半年振りに気兼ねなく表で遊んだ。梅を見に行ったり、河原で野花を摘んだり、城跡の石垣に登って、二重唱で『花』を歌っては、開花を待った。

 私は、この一年近くの自身が嫉妬していたのは、美代子さんを遊ばせてくれない受験勉強に対してだったと思うことにした。決して、美代子さん自身ではない。美代子さんは何も変わらず、優しくて華があって、側にいたいと思わせる友人だった。


 翌年度の校地替えに備えて、私たちは、卒業式を終えても学校へと呼び出され、清掃に勤めた。高等小学校は、尋常小学の連尺教場に併合され、空いた六供教場には、女学校が入るのだ。机と椅子を菅生河原まで運んでは、川の水で洗った。床掃除に窓拭き、裏庭の草取りと、仕事はいくらでもあった。おしゃべりしながらの作業は楽しかった。

 運動場の整備が割り振られた日。私は美代子さんとバケツに小石を拾い入れていった。昼食が近く、町ではあちこちの家々から淡い煙が上がっていた。東西に伸びる街道に沿う街並みの中でも、但馬屋の棟は一段と高く、間口が広い。

「美代子さんとこは、目立つのぅ」

「シゲさんとこも、よう見えるにぃ? 煙も出とる。今日も忙しそだのぅ」

 すぐ南、亀井山の中腹にへばり付くように建てられた粗末な二階建ての家屋が我が家だった。以前、体操の時間に家を見遣ると、姉が物干し台に出て、手拭いを干しているのが見えた。その姉は去年の秋に、近所に住む父の友人の息子へと嫁いでいった。

「なぁ、美代子さん、不思議だのぅ。私たち、ただ近くに生まれたもんで、友達になれただらぁ? ほれは、何だか心許ないわ。のぅ──」

 私はそれ以上、言えなかった。美代子さんは、六供教場に残り、女学生として過ごす。私と離れて、新しい友人と過ごす。私は、また現れた嫌な私を追い出すように、砂にまみれた手を払うと、美代子さんの手を握った。

「美代子さん、だけんどのぅ、ちかいは一遍で良え。ほうだらぁ?」

「誓?」

「友人の誓。──私、何遍だって誓うし、ホント、美代子さんのこと大好きだけんど、ほれでも、誓は一遍でいい。私はきっと違えん」

 美代子さんが、白く柔らかな手を私の手に重ねた。

「ほうだのぅ。わかった、私も誓は一遍のみにする」

 私は、嫌な自分に呑まれないように、不安は口にしないことを決めた。

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