菜の花畑に舟は待てり

小鹿

第一話

 尋常小三年の初夏、唱歌の授業後に先生から残るように言われた。オルガンの側には、同じ組で一番背の低い美代子みよこさんが立っていた。先生は先程の授業で習った『さくら』の譜面を開くと、私にアルトを、美代子さんにソプラノを歌うように言って、オルガンを弾き始めた。

 大きく口を開けて歌わなかったから、補習を受けさせられるのかと思った。私は、歌は好きなのだが、年の割に低く掠れた声が女の子らしくないために恥ずかしく、努めて小さな声で歌うようにしていたのだ。

 前奏の間、不安から美代子さんを盗み見た。おかっぱのつむじが見える美代子さんは、真剣な顔で先生の運指を見つめ、歌い出しの小節を待っていた。残された理由に関わらず、この子は本気で歌うつもりだと察し、私も初めの音を逃がさないように耳を澄ませた。

 二人で歌った初めだった。美代子さんの澄んだソプラノの下に、私の少年のようなアルトがあった。似合わないことはない。むしろ、悪くないと、歌いながらにして思った。弾き終えた先生が立ち上がって拍手した。

「きっと、二人の声はよう合うと思っとっただわぁ!」

 私たちは一番の仲良しになった。

 美代子さんの家は但馬屋たじまやといって、町でも有名な呉服商の大店だった。官庁街から東に真っ直ぐ延びる連尺通れんじゃくどおりの並びで、屋号と花嫁姿とが大きく描かれた看板を掲げていた。奉公人は表と奥とを合わせて二十人近くおり、山の方へも行商に行くため、行李を負わされた馬がよく店前に繋がれていた。

 一方、私の家は小さな蕎麦屋だった。但馬屋から三百メートルほど東、亀井山の頂に誓願寺せいがんじがあるのだが、その裏手の宿坊だった土地を祖父が買って構えた、間口二間の狭い店だった。

 美代子さんは毎朝、但馬屋の前で女中と待っていた。私たちは共に、人馬行き交う通りを抜け、城北に位置する連尺教場へと通った。道々に、私は遊びを提案した。出す足を揃えて歩くときは、どちらかが親となって、わざとペースを変えたり、ステップを踏んでみたりする。見える物を数えて十を作る遊びは好んでやった。馬の脚が四本、担ぐ俵が二表、口取りが一人に、草鞋が二足、掛ける眼鏡が一つ。単位を変えて十を数えるのだ。

 美代子さんは私の考える遊びを面白がってやってくれたが、発案者である私の方が上手なことが多かった。負けても悔しがったりせずに、私を強いと褒める美代子さんが不思議だった。

 高等小学校へ上がってからも、一緒に登校した。岡崎学校の六供ろっく教場は、町の北端に小高くそびえる甲山の中腹にあって、校庭からは町が一望できた。岡崎学校には倶楽部活動があり、男の子は鼓笛隊、女の子は唱歌隊に入った。私たちは唱歌隊に入り、毎週の朝礼の際には前に並び出て国家を歌った。公会堂の落成記念式に出たときは、唱歌を歌った。美代子さんのご両親とお姉さんが一緒に見に来て、発表後には参列者の誰よりも大きな拍手をしていた。

 三歳年上のお姉さんである千恵子ちえこさんは、その年に設立されたばかりの町立女学校の一年生で、美代子さんの見せてくれる少女雑誌にあるような海老茶袴を着ていた。清次郎せいじろうさんという十歳年上の奉公人が許嫁にいて、卒業後には結婚することになっていた。

 美代子さんは千恵子さんの唱歌の教科書を書き写して、オルガンで弾いてみせた。練習のない日も、私たちは音楽室へ行った。夏には枸橘からたちの花が咲き、秋には金木犀きんもくせいが香る音楽室が私たちの遊び場だった。

 翌年、明治四十年の四月、学制が変わったために、私たちは高等小学校二年生ではなく、尋常小学校六年生になった。私は「尋常小学校六年 国語」と書かれた教科書の表題が不満だった。

「せっかく高小に入ったのに、また尋常小なんて、やり直しさせられたみたいだわぁ」

 私の気怠けだるい声にも、美代子さんは鈴のように笑う。

「嫌だかねぇ、六年生なんて立派だにぃ? 六年ろ組、足立あだちシゲさん」

 その日、私は何度も美代子さんの笑い声と共に、学年組名前を呼ばれた。その声で呼ばれると、「六年ろ組の足立シゲ」という響きも、親しみを持てる気がしてきた。

 夏が近付くと、誰々さんは中等学校を受けるらしいという噂がよくなされた。外部受験をしなければ、内部進学扱いで六供教場に残り、高等小学校二年間の修業となる。

 美代子さんは女学校を受験するつもりだと言った。私も美代子さんと一緒に進学することを望んだ。二人して海老茶袴にお下げ髪の女学生に憧れていた。美代子さんがおかっぱを伸ばし始めたので、私も伸ばした。予復習に励み、試験でも良い点を取った。

 しかし、何度進学を願っても、父は蕎麦屋の末っ子が行くところではないと言って許さなかった。泣いて兄や姉にすがり、父を説得するようにも頼んだ。私は兄と一回り、姉とは十歳離れており、甘やかされてきたために、そうしてよく我儘を言っていた。

 それでも、やはり許されなかった。兄は母から店の帳簿を借りてきて、私に我が家の詳細な経済状況を説明した。女学校五年間の学費を出せる余裕はどこにもなかった。

 私は諦めきれずに布団に潜って泣いた。母が詫びながら私を慰めた。嫁入りを控えた姉は、自身の紺の振袖を解いて、袴に仕立て直してくれた。私は諦めたふりをして、袴を喜び、短いお下げに結ってもらうと、クルクルと回って見せた。

 私は女学校を受けない。美代子さんにそう告げるのには勇気が要った。やはり、美代子さんは悲しそうな顔で私の両手を取り、学校が離れても友達だと誓った。私も言葉を重ねて、美代子さんが一番の友達だと誓った。

「美代子さん、私と一生のお友達だにぃ?」

「うん。私、シゲさんが一生のお友達。一番のお友達」

 元より女学校に行きたかったのではなく、美代子さんと一緒にいたかったのだと、自身に言い聞かせ、美代子さんに一番の友達と誓われたことを対価に、私は家の事情を受け入れることにした。


 夏休みになって、私は毎日美代子さんの家に行き、三時間は共に勉強した。千恵子さんが先生となって勉強を教えてくれた。一学期に習った範囲は、良い成績を取れば女学校進学を認められるかもしれないと期待して頑張っていた分、私の方がよく解けた。

「あれ、シゲさんは本当、計算のようお出来んさる。美代ちゃん、ほれぇな、手ぇ留っとるわ。頑張りんさい?」

 お姉さんにつつかれても、美代子さんは不機嫌そうな顔一つせずに、難しいとこぼしながら鉛筆を動かした。千恵子さんも根気よく教えた。美代子さんは人と比べて焦ったり、落ち込んだり、羨んだり……という感情をほとんど持たなかった。その気質は、家庭によって育まれたことがよくわかった。お父さんもお母さんも、よく気付く穏やかな方で、奉公人にも優しかった。

 同じ商い人でもこうも違うかと、私は羨まずにいられなかった。私の父は厳格な人で、跡取りの兄をよく打っては仕事を仕込んでいた。母は、貧しいながら士族の出で、行儀や態度に関しては、父に負けないほど厳しいところがあった。両親に対して、優しいと思ったことは、ほとんどない。店が忙しくなると、私も階下に呼ばれて騒がしい店内を駆け回った。自然と声は大きくなり、人に対しての気も強くなる。

「おい、シゲ。お前、休みになったってのに、毎日毎日、但馬屋さんとこ行って。遊んでばっかおらんで、店手伝わんか」

 店仕舞いした座敷で、父は残った蕎麦を夕食用に茹でる傍ら、私へと説教した。私は七畳半の見世の畳を拭き清めながら、遊びではないと反論した。

「お勉強しとるだよ、千恵子さんが教えとくれんさるだわ」

「お勉強して何になんだ。お裁縫教えてもらえ。家事の成績、また丁取ってきよって、まぁ、恥ずかしくて嫁にもやれん」

「うるさいのぅ、算盤できるで良えがね!」

「算盤で何が作れる。己が手で作り出せて、人様のお役に立つのが、何より尊い仕事だ」

 父の説教は響かなかった。翌日からも、私は変わらずに但馬屋へと上がっていた。朝から三、四時間の勉強を終えると、お昼は但馬屋でご馳走になった。奉公人がたくさんいるので、一人増えたところで変わらないと、美代子さんのお母さんが私を座らせるのだった。私も昼間に帰れば、十四時過ぎまで店を手伝わされることが目に見えているために、遠慮なくいただいていた。

 食事の後は、千恵子さんのオルガンに合わせて皆で歌を歌った。千恵子さんもまた美しい声をしていた。私たちは三姉妹のように過ごした。この家の子に生まれたかったと、密かに何度となく思っていた。

 夏休みの勉強会のお陰で、二学期になっても私の成績は良かった。先生に外へ行かないのかと尋ねられもしたが、子ども心に経済的理由を口にすることはあまりに惨めだったので、卒業したら家を手伝うつもりだと、もっともらしいことを述べて断った。

 岡崎の町は元より教育熱心な土地柄で、私のような富裕でない家の子でも、高等小学校へと通っていた。そのため、気にも留めてこなかった家の経済状況の差が、中等学校への進学を前にして、如実に現れ出した。受験組の子は、美代子さんのように「丸々町の何々さん」と聞いて生業が知れる家の子が多かった。

 私は受験をしなくて良かったのだと思いを改めた。彼らと私とでは、生まれた家が違いすぎる。私は伸ばしていた髪を切って、おかっぱに戻した。


 秋になると、受験組のために授業後の補習会が開かれた。私も美代子さんと一緒に帰るため参加した。五十人ほどの参加者は六年生がほとんどだったが、浪人して高等小学校に残った上級生も何人かいた。補習会では金曜日ごとに試験があって、月曜日からの席次が決まった。美代子さんの席は一番後ろと後ろから五番目の間を彷徨っていた。私は教室の真ん中あたりだった。

 石川いしかわくんという隣の組の男の子がいた。補習会は自習で、わからないところは周りや先生に聞くので、席次が近い石川くんと自然に話す機会は増えた。

 石川くんの家は、町の西を流れる矢作川やはぎがわを上った、足助あすけという山の方で、寺を営んでいた。彼は通学のため、岡崎の親戚宅に下宿していた。

 私は彼をライバルと定めた。試験のたびに彼より高い席次を取ることを目標にした。抜きつ抜かれつする楽しさがあった。ある日、石川くんにどこの女学校を受けるのか尋ねられた。

「岡崎? それとも、名古屋とかの私立?」

「ううん、私は高小に残る。美代子さんと一緒に帰っとるでおるだけ」

 私は明るい顔のまま答えた。石川くんは驚いた顔をしたが、私は、何かを言われる前にと、窓の外を指して質問を返した。

「石川くんは、あそこ?」

「うん、二中」

 町境を越えた南方に県立第二中学校はあった。岡崎学校からは、毎年十数名が二中へと入学していた。今の席次なら、石川くんはおそらく合格するだろうと思えた。

「中学出たら、お寺継ぐだかん?」

「まずは修行だで、山に入るがのぅ」

「もう決めとるだね」

「生まれたときから決まっとる」

「ほうかぁ、良いなぁ」

「ほうだかねぇ。足立さんは、なりたいものないだか?」

「ないのぅ。あ、お嫁にはいきたいけんど、父ちゃんが裁縫もできんじゃ恥ずかしいで出せんって言うわ」

「苦手だかぁ。ほれじゃ、働けばいいわ」

「やぁよ、女工さんなんか」

「高小まで来て、女工になんかならんでええ」

 当時、矢作川を始めとした川沿いには、水道力を利用した紡績工場が多くあり、そこで女工が粗末な食事で一日中働かされているとは、私も聞き及んでいた。高等小学校まで来てと彼が言った通り、女工は貧しい家庭から集められた少女や若い女性がなり手だった。石川くんは会社の事務員を勧めてきた。

「算術、得意だらぁ? これから会社も増えてくげな、お勤めに出たらええ。嫁には急がんでもいけるだで」

「……あーあ、私もお嬢さまに生まれたかったわ」

「お嬢さまはお嬢さまで大変だろうが」

「貧乏よりマシだがね」

「まぁ、何事も程々がええのぅ。ほだけんど、全うなとこで働けたら程々になれるだで」

 石川くんは達観したような口振りで言った。特別にせていたわけではない。そのころの私たちはまだ十一、二歳だったが、既に身の丈に合った程々な未来を模索することを求められていた。

 帰り道、美代子さんへと女学校を出たらどうしたいかを聞いてみた。美代子さんは音楽学校へ行きたいと答えた。そこを出たら結婚して、婚家にて音楽教室を開きたいという。そんな未来もまた、美代子さんにとっては身の丈に合ったものなのだ。

「シゲさんはお家、手伝うん?」

「うーん、まぁ、ほうかのぅ」

 働きに出るかも、とは答えられなかった。職業婦人という言葉はまだなく、女子労働者はほとんどが女工だった。その他、教師や女医、看護婦といった、ごく一部の知識階級の専門職もあったが、いずれにしろ、お嬢さまには関わりない進路だった。

 貧しい家に生まれた自分の人生は、つまらないものにしかならないと突き付けられた気がした。

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