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 *


 目覚めると、夕暮れだった。

 眠たいわけじゃないのに、まだ眠っていたかった。ぼくは、自分のステータスを変えるのを極端に嫌う人間なんだろう。煩いなら煩いままがいい、静かなら静かなままがいい、世界はあのままのほうがよかった。こんなに特別になる必要なんてなかった。

 ねむりというのは、時間をかけることでしか返せないものを、深海まで潜って返済しに行くということだ。深く深く潜って、底についたら、ひとつだけ返してまた浮上できる。その繰り返し。永遠に返し終わることはないんだけれど、だからこそ気持ち悪くて、さっさと次の潜水に向かいたくなる。

 ぼくは自分で起きたわけではなかった。彼に起こされたのだ。

「きみを起こすべき事態が起きたと判断した」

「なに?」

 また新しい缶詰でも見つかったのか、あるいは新しい物理法則でも見つけたのか。ぼくは彼のことをそこそこ信頼していた。わざわざぼくを起こすぐらいだ、それなりの発見があったんだろう、と。

 だから。

「かえるよ」

 と彼が言った時、ぼくはその言葉の意味をつかみ取ることができなかった。すこし前の会話に戻り、文脈を読み取ろうとした。でもできなかった。

「なんて言った?」

「かえる。迎えが来たんだ」

「どこから?」

「わかんない。でも、連れてってくれるほうへ帰ろうと思う」

 ぼくは、ああひょっとして彼は死ぬ気だろうかと思った。でも、すぐにそうではないことに気が付いた。ぼうと外を見る彼の眼が、ぼくへの憐れみを宿しながら、しかしどこか憧れの気配を含んでいたので。

「《何か》? あるいは《誰か》?」

「たぶん、そうだと思う。ほんとうによかった。ぼくがどれほど幸福か、きみには分かんないと思うな」

 そして彼はぼくを見た。そこには明白な憐みの色が浮かんでいた。結局、彼は常に誰かを憐れんでいないと気が済まないようだった。

「ついに死ぬ方法を見つけたの?」

「違うよ。きみに嘘はつかない。ついたことないだろ?」

 たしかに。あるいは、とうとう一度も嘘に気が付くことができなかったほどに、彼の隠蔽がおそろしく巧妙だったのか。

「つまりぼくは、とうとう一人になるわけだ」

「嫌?」

 もちろんそうだ。なんたってノイズが一つ減る。でも、ぼくはそれを彼に直接言ってしまえるほど冷たい人間でもなかったので、ただ苦笑いして首を振るだけに留めた。真意はきっと、全部全部そのまま伝わってしまっただろう。

 彼は言う。

「きみはね、変わってるよ。だから大丈夫だよ」

「なにが?」

「ちゃんとさびしくなれるし、その先に行ける」

「この世界にたった一人しかいなくなるのに?」

「世界で一人きりにされるにふさわしい人間だよ。でも、悪い気しないでしょ?」

 そうだろうか。もし、小学校二年生のあの教室に戻ったとして、向かいの女の子がおしゃべり好きだったとして、『世界にたった一人残されたらどうする?』なんてありがちな質問をしてきたら、ぼくは絶対にこう答えていたはずだ。『一人きりなんて嫌だよ』って。こんなの、ご褒美でもボーナスでもなんでもないよ、ただ面倒で退屈なだけだ。ぼくは選ばれたのではなくて、いろんなものにあっちこっち気を取られているうちに、世界全員に置いてかれてしまったのだ。

「でも寂しくないんでしょ」

 そりゃあ、そうだ。でも寂しいから寂しくなりたいのかもしれない。この意味が分かる?

「これからちゃんと寂しくなれるといいね」

 それが、ぼくが聞いた最後の彼の言葉だった。

 雪片がふりしきっていた。ただでさえ色を失ってつまらなくなっていた世界が、真っ白に埋め尽くされていく。動物も植物もみんないなくなってしまったこの世界で、太陽と月と星とは変わらずそのまま存在していて、天気も荒れるし満潮もやってくる。この世界から酸素がなくなっても、ひょっとしたらぼくは気が付かないのかもしれない。

 空を見上げた。ぼくはふと思った。世界はこんなに白かっただろうか。ぼくに向かって落ちてくるひとつひとつの雪が、クリスマス帽子の先についているぽんぽんみたいに、ふわふわしていた。白一色の紙吹雪のようにも見えた。世界中が突然クラッカーを鳴らし始めたみたいだった。

 そうして……雪に気を取られているうちに、彼は行ってしまっていた。さよならの一言ぐらいくれたらよかったのにと恨めしくなりながら、次の瞬間にはぼくは遠くのほうで何かが崩れた音のほうに夢中になっていた。

 音のするほうへ向かいながら、ぼくは彼のことについて思い返していた。これが最後の回顧の機会のような気がしていた。

 彼は気がおかしかった。どう考えても世界が彼ひとりをずっと待っているなんてことはない。彼だけを待つ精霊も天使も眷属も、なにひとつ存在しない。でも彼は、疑うことなくその《何か》を信じていた。《誰か》を。世界のどこかに、彼を痛切に心から待っている者がいるはずだと、確信していた。ばかだなあ、と思う。

 でも、ぼくは雪を見ながら一瞬だけ、彼の信仰に賛同したくなった。

 その日の雪の白さは永遠を生きるぼくにとってさえ格別の輝きで、光そのものが降り注いできているかのようだった。クラッカー。チアリーダーのポンポン。紙吹雪あるいは賞賛の拍手。彼が帰るとき、世界は真白だった。

 だから本当にぼくには、あの雪が、彼を歓迎しているように見えたんだ。

 世界が、はしゃいでいるように見えたんだ。

 そういうふうにしか受け止められなかったんだ。


 ぼくは今、十全に寂しかった。



<了>

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12月18日 mee @ryuko

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