第二十六話 何気ない日常の中に
数日後。
花音は後宮厨に顔を出していた。昼餉を調達がてら、陽玉に新しい本を持ってきたのだ。
「ちょうどよかった、読み終わったところなんだ」
陽玉は嬉しそうに花音が持ってきた籠を受け取った。前回の昼餉の籠に、新しい本を入れて返す。いつの間にかそれが陽玉と花音の間でのお約束になっている。
「『李氏物語』の続編!読みたかったんだ、ありがとう。あとこれは……あ!他の子たちにも本を持ってきてくれたのね?」
「うん、喜んでもらえるといいんだけど」
「もちろん喜ぶよ!みんな、仕事の合間の楽しみに読んでたもの。おかげで嫌な仕事の時も頑張れるって。もう読み終わってるんじゃないかな。待ってる間に裏へ回ってみて」
陽玉はそう言って、昼餉を準備するために厨へ戻った。
裏へ行くと、本を貸した女官たちはそれぞれに仕事をしていたが、花音を見てわっと集まってきた。
「本、すごく面白かったわ」
「あたしも。続きが読みたいな、って思っていたところよ」
「今日も借りれるの?」
花音が彼女たちにそれぞれ本を取り出すと、彼女たちは無邪気に喜んだ。
まるで、お菓子をもらって喜ぶ、無垢な子どものように。
それは純粋な喜びだ。
本を読める、喜び。
「よかったら、次もお持ちしましょうか?」
花音が聞くと、彼女たちは頷いた。
「もちろんよ。華月堂の配達、これからも利用させて!」
「かしこまりました。次回も、お楽しみに」
本を読む喜びを伝えられる喜び。
それは、本をこよなく愛する花音が、新しく見出した本の魅力だ。
厨の戸口へ戻ると、陽玉が待っていた。
「はい。今日は花巻と豚の角煮に、海老蒸し餃子だよ」
「美味しそう……今すぐ食べたい~」
湯気を上げる籠を、花音はホクホクと受け取る。
じゃあね、と別れようとして、ふと花音は陽玉を振り返った。
「ねえ、陽玉。この前くれた護符のことなんだけど」
陽玉は怪訝気に首を傾げた。
「護符?」
「ほら、願い事が叶う護符。変わった紋章が描かれてた…」
「変わった紋章?なになに花音、なんか仕事のこととごっちゃになってるんじゃない?疲れてるのよ。たくさん食べて、元気モリモリになってね」
朗らかに笑って、陽玉は行ってしまった。
「ほんとうに、覚えてないんだ……」
花音は、愕然とした。
*
「ふうん。みんな何も覚えてないとは、確かに奇妙な話ね」
伯言は、むっちりとした花巻を美味しそうに食べながら言った。
「でも、おかしいですよね。あたしも、伯言様も、藍悠様やコウ…紅壮皇子も覚えているじゃないですか」
しばらく無言で花巻を味わっていた伯言は、お茶を茶器に注ぎながらぽつりと言った。
「華月堂のおかげかしらねえ」
「え?ああ、華月堂は、守りの建物として設計された聖堂…でしたね」
確かに、言われてみれば記憶がちゃんと残っているのは華月堂に出入りしている人物だ。
「ま、よくわからないけど、怪しげなモノは女官の間から消えたわけだし、雲母医師のことは陛下が御存じなら問題ないんじゃない。日常の後宮に戻ったってことで」
「はあ……」
なんだか狐につままれたような気がするが。
みんなが忘れてしまっている以上、追及しても仕方がないし、花音の手にはあまることだった。
後宮は、謎の多い場所。そういうことで納得しようとした花音は、もう一つ、忘れてはいけない真実を思い出した。
「そういえば、伯言様が宦官じゃないって…本当なんですか?」
――鳳家の隠し宝刀と言われた、貴方なのに。
藍悠皇子はそう言った。そして、宦官じゃないのに後宮で働いていることを隠匿する代わりに、自分に仕えろ、と言い、伯言はそれを承諾したのだ。
「あたし、気付きませんでした。どうして――」
言いかけた花音の目の前に、いきなり箸が突き出された。
「きゃあ?!な、なにするんですかっ、危ないじゃないですかっ!!」
「いいこと?花音。大事なのは、あたしが宦官かどうかってことじゃないわよ」
「え……どういうことですか」
「大事なのは――」
伯言の灰色の双眸が、鋭く光った気がした。
いつになく真剣な表情の伯言に、花音は、ごくりと唾をのむ。
「大事なのは、今お皿に、海老餃子が一個しか残っていないってことよ!!」
言うなり伯言は、海老餃子にさっと箸を伸ばした。
「あっ、伯言様!それあたしのですよっ!!」
「何言ってんの、早い者勝ちよ」
「そ、そんな!!」
「働かざる者食うべからず、仕事量の違いね」
「それなら断然あたしの方がたくさん食べれますよっ」
「いやあねえ、花音。年頃の娘のくせに食い意地が張ってるわよ。まあお茶でも飲みなさい」
伯言は、意地悪くニコニコとお茶を勧めてくる。
――こういうのも、日常だよね……
海老餃子を食べ損ねた溜息をつきつつ、頭のどこかで、花音はホッとしていた。
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