第二十五話 後宮に潜む影
「――紅壮じゃないか。ここで何をしている?」
背筋が寒くなるような、冷ややかな声だ。
「お兄サマこそ、何しに来たんだよ」
「僕は本を返しに来たんだ」
「ふうん。本を返すなら、そこのデカイ奴にやらせればいいのに。なんでわざわざ
「おまえにとやかく言われる筋合いはない。花音から離れろ」
「それこそお兄サマに言われる筋合いはないね」
すると藍悠皇子は端麗な顔で華麗に微笑んだ。
「いいや、あるな。花音は僕と結婚の約束をしているんだ」
「はあ?!」
コウは花音の肩を掴んだ。
「マジか?!」
「マジなわけないでしょ!ちょ痛いってば、揺さぶりすぎ!!」
花音が叫ぶと、紅壮皇子はハッと我に返った。
「す、すまん」
「いいけど…」
「花音。藤棚の下で約束しただろう?」
「いや……あのですね」
コウには大声を出せるが、藍悠皇子にはためらいがある。引きつる顔で無理に微笑んで、花音は噛んで含めるように言った。
「あのですね。藍悠皇…藍悠様がおっしゃってくださったことは、あたしにとっては身に余り過ぎることでして。とうてい、まともにはお受けできかねます。しかもそのお話、いろんなところで揉め事のタネになりそうなので、どうかここだけのものにしていただけると、あたしの後宮生活が穏やかなものになるかと……」
すると藍悠皇子は、紫瞳を寂し気に翳らせて、笑んだ。
「そっか。わかったよ。今は花音が僕を名で呼んでくれることに満足しておく。でも忘れないで。二人だけの秘密にしておくけど、藤棚の下で僕が言ったことに嘘偽りはないから」
「は、はあ……」
自身が藤の花のような人物が意気消沈していると、なんだかこちらが悪い事をしたような気になってしまい、花音はオロオロしてしまう。
「あ、そうだっ。本!本を返しにきてくださって、ありがとうございます!お預かりしましょうか」
立ち上がって本を受け取りにいくと、藍悠皇子は飛燕に目配せした。
すかさず飛燕が花音に本を差しだす。『五国正史』だ。
「お役に立てたみたいで、よかったです。あの、ところで……」
「なに?」
藍悠皇子が、首を傾げる。その優しい笑みに、花音は不敬と思いながらもつい聞いてしまった。
「陛下が『五国正史』を熱心にお読みになっている理由とは…なんだったのでしょうか」
藍悠皇子は頷く。
「うん。どうやら、父上は今回の護符事件に最初から気付いていたんじゃないかって思うんだ。その手掛かりが『五国正史』にあるとお考えになったんじゃないかってね」
「え……」
コウも、護符の紋章についての記述が『五国正史』にあると気付いていた。
「コウ」
振り返ると――いつの間にか、コウはいなくなっていた。窓から、皐月の爽やかな風が吹き抜けるばかりだ。
*
「そもそも、こんなに大っぴらに怪しいものを配る者を、父上が見過ごしているはずないんだ」
藍悠皇子が言った。
「だとしたら、わかった上で後宮に置いているとしか思えない。何か意図あってのことだと思う。だから、このことは父上には奏上しない。でも、気になったから飛燕に引き続き見張らせていた。そうしたら」
藍悠皇子が飛燕を見る。飛燕は、長椅子の背後でかしこまって答えた。
「消えたのです。護符が、後宮中から忽然と」
「消えたって……」
「言葉通りです。女官たちは、誰一人としてあの護符を持っていない。それどころか、そんな物があったことすら覚えていない者も多いのです」
「そんな」
「あの黒虎に化けた女官でさえ、ほとんどのことを覚えていない。まだ熱があり、床に臥せっているのですが、なぜ自分が熱を出し、体中に傷があるのか、理解していない様子なのです」
「雲母医師はおそらく、呪術を使う。それも、かなり高度な術だ。そうじゃなければ、人々の記憶を操作するなんてできない」
陸健誠を慕うあまり、花音に嫉妬してあの護符――呪符だとコウは言っていた――を使い、恐ろしい異形の獣に変じた。その記憶も消したのだとすると、雲母医師はかなり能力の高い、危険な――とても危険な人物だ。
「父上は、御自分の妃嬪は迎えぬと断言しておられるけど、後宮の中に耳目は多くお持ちなはずだ。その父上があの雲母とかいう医師を怪しんでいないはずはないし、後宮に入れたからにはこういう怪事件も予想しておられたんだと思う。父上が静観しているのが、その証拠だ」
「でも……なぜ、陛下は、そんな危険な方を後宮に?」
藍悠皇子は軽く肩をすくめる。
「さあね。父上のお考えは予想できないところがある。まあ、一つには凛冬殿は袁家の姫が入っているから、手出しできないってところじゃないかな。何か駆け引きみたいなものがあったのかもしれないし。それより、僕は雲母医師の動向が気になるんだ。なんで、わざわざあんな目立つような札を配ったんだろう」
「何をしても、陛下からのお咎めはないってわかっているから、あんな物を女官の間にばら撒いだんでしょうか」
花音の問いに、形のよい顎に手をあてて藍悠皇子は唸る。
「そうなんだよね。そこからしても、父上と雲母医師、いや凛冬殿の間に何かあるのは確かだと思うんだけど…ね、飛燕?」
話を振られて、飛燕は低い声で答える。
「おそれながら、まるで我らにわざと尻尾を見せたかのような……不気味なものを感じます」
「わざと……」
なぜか、背筋がゾッとする。
自分にかけられた呪いは解けたし、陛下が雲母医師のことを承知しているなら、何も心配することはないはずだ。
(でも……)
胸のつかえが取れない。
ここにコウがいたらよかったのに――花音は、無性に思った。
*
凛冬殿、奥の殿舎。
冬妃の側近く仕える女官にのみ許されたこの殿舎の奥。曲がりくねった回廊の先に、一つだけ離れた場所にある室がある。
その部屋の扉は、奇妙な幾何学模様が施され、その隙間から微かに煙が立ち上っていた。
その煙は、種々の薬草を焚く香り。
深紅の唇を、にい、と吊り上げて。
「ふふふ…手はじめに、これでよい。憐れな皇子を二人、動かした」
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