第二十二話 雲母医師

「これはこれは、紅壮皇子殿下」

 雲母きらら医師は何事もなかったように、椅子から降りて揖礼した。


「おまえが凛冬殿の新しい医師か」

「はい。雲母と申します」

 雲母医師は揖礼の姿勢を保ったまま、優雅に微笑む。

「急なお越し、僥倖なことと存じます。ですが、こちらの殿舎は女官の住まい。御目汚しになってはいけませんので、訪いを入れていただきとうございます」


 気のせいだろうか。 

 言外に勝手に入るなとにじませている…ように聞こえた。

(こ、こわい…皇族相手によく言えるなぁ)

 花音がはらはらと見守る中、コウは見たこともない冷徹そうな表情で雲母医師を見下した。


後宮ここはオレの家だ。どうしようとオレの勝手だ。貴妃ならばともかく、おまえごときに言われる筋合いはない」


(ひええ…コウもコウで言い返してるし)

 後宮ではこういう冷たいやり取りが日常茶飯事なのだろうが、慣れない花音としてはものすごくいたたまれなかった。

 美しい男の冷たい物言いは、こわい。


「これは恐れ入りましてございます。仰せの通りにございます」

 雲母医師はあくまで悠然としている。


 さっきまで怪しく輝いていた眉飾りはいつの間にか消えており、紅い口紅の毒々しさも目立たない。貴妃専属医師にふさわしい、淑女そのものだ。


「ところで、オレの専属教師を呼び出して一体何をしている?答えよ」


 詰問されても雲母医師はいささかも動じる様子はないが、美しい眉を少しだけ上げた。

「先日、凛冬殿に講義に来られた陸健誠殿より、白尚官が私めとお話することを御希望だと聞きまして、このようなむさ苦しい場所ですが御招待した次第でございます」

「そうなのか、花音」

「え?!は、はははい!」


 急に話を振られてバツが悪い。

 ここへ来ることを、コウには一言も報告していなかった。

(で、でもっ、コウが勝手にしろっていうから)

 心の中で言い訳してみるが、うまくいかない。

(結果的に…コウに助けられたんだよね、あたし)

 コウがこの部屋に飛びこんできたから、黒虎神もいなくなり、元の世界に戻ったのだろう。


「白尚官が殿下の御教師をされているとは存じ上げず…失礼を致しました。なにぶん、後宮に上がったばかり。このような煌びやかな場所には不慣れな田舎者ゆえ、どうぞ平にお許しくださいませ」

「不慣れにしては、貴妃の食事に同席しなかったり、怪しげな札をばら撒いたり、好き放題やっているように見えるが」

 嫌味たっぷりにコウは言い放った。

 雲母医師は、婉然と笑んだままコウを見上げる。


「この際だから言っておく。おまえが何の目的で後宮に潜りこんだかは知らないし、知りたくもない。やりたいようにやればいい。ただし、オレの邪魔をするな。オレの視界に入るな」

「…恐れながら、私は冬妃様の専属医師。この先、殿下の視界に入らない、というのはお約束できるかどうか」

「ならばオレは凛冬殿に来ない。その代わりおまえはオレの視界に入るな。二度と花音に近付くな!」


 コウが花音の手をつかんだ。


「行くぞ」

「え、あの」

 何を言う間もなく、コウは花音の手をつかんだままずんずん歩いて雲母医師の部屋を出た。


 不思議なことに、さっきの女官はおろか、回廊には誰もいない。

 あんなに長く感じた回廊も、なんのことはない、玄関より少し奥まった中庭を通っただけだ。


 コウの姿にざわつく凛冬殿を出て、四季殿の真ん中を通る玉砂利の石畳をぬけ、華月堂の建物が見えてきた頃、コウは道を逸れて木々の中をずんずん歩いていく。


 あまりのコウの勢いに、花音は怖くて言葉が出ない。


(めちゃくちゃ怒ってる…かも?)


 花音の心の呟きと、コウが立ち止まったのはほぼ同時だった。


「この…大バカが!!!」


 あまりの怒声に身がすくみ、思わずギュッと目を閉じてしまった。


 ぜったい殴られる…!

 ていうか、手討ち?!







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