第十八話 黒虎の呪い
次の日。
眠そうな伯言が卓子であくびをし、花音が朝の掃除をしていると、飛燕が訪ねてきた。
「飛燕さん!大丈夫でしたか?」
花音を呪った張本人である少女は、獣のように変貌していた。飛燕はその後を追いかけていったのだ。
「大事ありません。主より、昨日の事を報告するよう言いつかって参りました」
「始業もまだなのに、ご苦労さまねえ。飛燕殿も大変だこと」
伯言は、藍悠皇子に対する皮肉を媚薬のように忍ばせて言ったが、飛燕はかしこまって一言。
「主のお役に立てることが任務であり、至上の喜びでありますゆえ」
まったくの無表情なので心の機微が分かりにくいが、藍悠皇子に忠誠を尽くしていることは伝わってくる。
伯言は軽く息を吐いた。
「で?なんだか剣呑なことになっていたけど、大丈夫だったの?」
「あの少女は、黒い獣となりました」
「黒い獣?」
「正確には、虎、という獣かと」
伯言と花音は顔を見合わせた。
黒い虎――西虎国の古い伝承にある、白虎神のもう一つの顔。
「こちらを出た後、かの女官は凛冬殿へ逃げ込みました。事情を話して、私も凛冬殿入れていただきました。すでに、殿舎内はたいへんな騒ぎになっておりましたので」
髪を振り乱し、異様な形相で凛冬殿の中庭に現れた女官の頭頂部に、黒い獣耳が生えていたという。
「中庭では、ちょうど冬妃様が池をご覧になっている最中でした」
女官はまっすぐに冬妃に向かっていった。
すぐさま影に控えていた数名の護衛が飛び出し、冬妃を守ったので事なきを得たが。
「護衛の一人が、腕に噛みつかれました。それを引き剥がすのに私も加勢したのですが、凄まじい力で」
噛みつかれた護衛は、二の腕の肉をごっそり喰い破られたという。
「暴れる女官を私も含めた数名でなんとか取り押さえているところへ、冬妃様とご一緒だった医師がやってきました」
「雲母医師ね?」
飛燕は頷いた。
「雲母医師が女官のところへくると、不思議なことに暴れていた女官がおとなしくなったのです。雲母医師は奇妙な紙を取り出して、女官の額に貼り付けました。すると」
女官は糸が切れたように倒れてしまったという。
「女官の獣耳が次第に縮んで――そう見えたのですが――、そのとき、女官の裙に尻尾が垂れていることに気が付きました。黒い尻尾です。黒い尻尾に、更に闇色の縞が入っている。すると」
雲母医師が、飛燕に近付いてきてそっと囁いた。
あれは、虎という動物の尻尾なのですよ、と。
「雲母医師がねえ……」
「医師が貼った紙は、おそらく呪符だと思われます。文字と奇妙な紋章が描かれていました」
「もしかして、これ?」
伯言が、懐から例の護符を取り出した。
無表情な飛燕の顔に、わずかに驚きの色が浮かぶ。
「そうです。この紋章でした」
「なるほどね。藍悠様は、なんと?」
「この事は他言無用だと。凛冬殿の中だけのことに硬く留めよと。すでに凛冬殿へもそのように通達されております。詳細がわかってから、帝には奏上申し上げるおつもりのようです」
「わかったわ。あたしたちも他言はしませんので、ご安心を。わかったわね、花音」
「は、はい」
飛燕は一礼すると、どこから取り出したのか、絹布の包みを取り出した。
「主より、白殿へ。どうぞお受け取りください」
「え?そんな、でも……」
花音がしどろもどろしている時だった。
「よーっす」
のびやかに眠そうな声とともに、女物の上衣姿が扉に現れた。
「コウ!」
言ってから花音は慌てて口を押える。
飛燕がすかさず脇に避けた。
「おはようございます、紅壮殿下。ご機嫌麗しゅう」
「ん?おまえは腹黒ヤロウの護衛じゃん。相変わらず図体デカイな」
「恐れ入ります」
「っていうか、邪魔なんだけど。何してんだよ、ここで」
飛燕はもう一度花音に「主からです」と言い、有無を言わさず包みを花音の腕に差し出すと「ではこれにて」と風のように去っていった。
「あいつ、いっつもオレの行くところにいるんだよ。なんか気に入らないんだよな。図体デカイくせに陰気だし」
「まあまあ、殿下。飛燕殿はこの皇城で最も優れた護衛だと名高いですが、殿下の柊殿も負けてはいませんよ」
「あたりまえだ!柊のが優秀に決まってんだろ!っていうか、花音、なんだよその包み。腹黒ヤロウからか」
「え?うん、まあ…」
コウは露骨に嫌そうな顔をした。
「なにあいつ。やらしーな。夜着とかだったら、オレが付き返してきてやる」
「なっ、夜着って……そんなわけないでしょうが!!」
「冗談だよ。なにあせってんだよ。まさかあいつとそういうカンケー?」
「~っあのねーーーーっ」
コウと花音のやり取りに、伯言の扇子がやんわりと入った。
「まあまあ、殿下。何か御用で早朝からいらしたのでしょう。いかがしました?」
ああ、と言って、コウは事務室の長椅子に座った。
「あの紙切れは、やっぱり護符なんてありがたいモノじゃない。れっきとした呪符だ」
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